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年明け、スイスから帰ってきても光はどこかぼうっとした様子で、ほとんど部屋にこもって過ごしていた。
「学校へ戻られれば、お元気になられるでしょう」
メイド長は、心配するメイドたちにそう言って、しかし自分自身心配そうに光の自室のドアを一瞥して行った。
この屋敷では、喪に服する暗い雰囲気が充満しているし、鬼のような暴君の新しい婚約者である俺もいる。光の心が晴れないのも当然だと、メイドたちは思っているに違いなかった。
――コンコンコン。
部屋の扉をノックし、返事はないけれど、俺はドアを開けた。
窓辺の椅子に腰かけて、光は、そこに飾られた人形のようだった。
何も映していない青い瞳が動き、俺の方を見て、ゆらりと立ち上がる。命令を待つロボットみたいだ。
「別に用はない。」
俺がそう告げると、光は訝し気に眉を寄せた。
今まで、兄貴には、この服を着ろ、ベランダでお茶の用意をして待っていろ、今から書斎に来い、明日の外出に同行しろ、と、命令ばかりされていたから、俺が婚約者となってから何も命令されないことに戸惑っている様子だった。
「何をしてるのかと思って」
「……。」
「帰国してから、一度も顔を見ていなかったから」
そう言うと、光は戸惑った表情のまま、今まで座っていた椅子を一瞥し、また俺を見上げた。
「…座って…いました」
本当にそれだけなのだろう。光自身、座っているだけで時間を過ごし、何も気力がわかないことに戸惑っている様子だった。
「お茶でも持って来させようか」
そう尋ねると、いよいよ光が目を瞬いた。
「ロンドンで紅茶を買ったんだ」
光の瞳がさ迷い、躊躇いながらも小さく頷いて、窺うように俺を見た。
「…ありがとうございます」
「別に。それじゃ、メイド長に言ってくる」
俺は踵を返し、ぽかんとしている光を置いて、部屋を出た。
***
それからの2年は、ただ淡々とやるべきことをして過ごした。
ずっとこのために準備をしてきた。このために、俺は…。
兄を殺し、玉城家の財産を正統に受け継ぐ者となった。高校を卒業すれば、玉城財閥のすべてが俺のものとなる。
前会長である祖父とその妻である祖母はすでに亡くなり、後継者であった光の父は愛に目がくらんでその座を退いた。それが後妻と再婚する条件だったのだ。そして次の後継者となったのは俺の兄貴。光の父親は権力を取り戻したいがために、光を兄貴に差し出した。兄貴は喜んで受け入れた。これが真相。だけど…もう一つ俺は知っている。
玉城家の財産は、光が受け継ぐべきなのだ。
明日、俺と光は高校を卒業する。
「光臣…さん。」
慣れない呼び方で、向かいに座っていた光が口を開いた。
兄貴から解放されたと思ったら、今度は俺と婚約する羽目になったというのに、光は素直に受け入れた。親の為、それしかないと…諦めているのだ。
「父が…これを…。」
光は封筒を差し出してきた。受け取って中を取り出してみると、それは婚姻届。明日にでもすぐに出せという事なのだろう。他の必要な書類もすべてそろっている。
「ああ…明日サインする。」
「……。」
「卒業式の後、書斎に来てくれ。」
「…はい。」
もうあの男のことは何とも思っていないんだろうか。御幸一也。プロ野球選手になったことは、去年ニュースで見て知った。期待のルーキーだと何度か新聞の一面も飾っている。
彼からはあの後、元旦に一度だけ電話が来た。光宛てに。…話したいと言っていた。もし、あの時光が出ていたら…何を話したんだろう。
「…あの…」
光は遠慮がちに、それでもこれだけは言っておこうと決意したような声で俺を呼んだ。
「…ごめんなさい。」
「……。」
「…私の…事、嫌いなのに…。…私と…お父さんたちの…為に…」
…結婚すること。光は引け目を感じている。
「別に…これも仕事のうちだ。」
「……。」
光は少しうつ向いて、黙り込んだ。
…光は俺の前でも笑ったことはない。あの男は、いったいどうやって…。どんな魔法を使って、光を笑わせたんだろう。
光の横顔。幼い頃からずっと見てきた。綺麗だと、ずっと思っていた。光は綺麗だ。身も、心も…。
俺は立ち上がり、胸の奥の靄を振り払った。
「あの…、」
俺を見上げた光に、いつも「黙っていろ」と言うときのように冷たい一瞥を向けて、俺は部屋を出た。
***
卒業式が終わり、友人たちと別れを言い合い抱き合う光を横目に、俺は友人たちと別れを惜しむ間もなく屋敷へ急いだ。光が来るまでにすべてを終わらせておかなければならない。すべてを。
人払いをして書斎に入り、光から預かっていた婚姻届を丸めて灰皿に入れ、火をつけた。それが灰になるのを見届けずに、俺は用意していた封筒を代わりに机の上に置き、兄貴が使っていたデスクの引き出しから小型のナイフを取り出した。革の鞘から抜くと、その刃は鏡のように俺の目を映した。光と同じ色の目。なのに、どうしてこんなに違うんだろう。俺の目は汚れていて、光がない。
刃を手首に当てて、迷う前に引き抜いた。
一瞬だった。
とても簡単だった。
これで終わりだ。
全部、やっと終わる。
――コンコンコン。
ノックが聞こえた。けれど、返事をする力はもう残っていない。
かすむ視界に、ゆっくりとドアが開くのが見えた。純白の制服姿の光も。
ああ…ウエディングドレスを着た君は、きっとどうしようもなく綺麗なんだろうな…。
それが見られないのが…心残りだ。
「…光臣…?」
光はただならぬ状況に気付いて息を飲み、部屋に駆け込んできた。
「きゃ…!!み…光臣!どうして…、誰か!誰か来て!!救急車を呼んで!!」
光の叫びを聞いて部屋に駆け付けたメイド長が叫び声をあげ、またすぐに部屋を飛び出していった。
傍で取り乱す光の、スカートの裾に触れた。意識が遠のいて、彼女と離れるのが――悲しくてたまらなくなった。
「な、なに…?光臣…?」
光は膝をついて俺と目線を合わせ、血が流れる腕を押さえて支えた。
「…い…」
「喋ったら…だめだよ…、もうすぐ救急車が来るから…!」
「…はやい…な……」
「え……?」
「…もう…すこし……遅かったら……」
「……。」
「うまく……いったのに……」
俺は無事な方の手で封筒を手繰り寄せ、それを光に差し出した。
「なに…?」
光は戸惑いながらそれを受け取って、中の紙を開いた。
それは俺の遺書で、遺言が書いてある。玉城財閥の、俺が継承する資本と財産全てを、光に譲り渡すというものだ。
「…え…?どういうこと…?」
「……お前の…なんだよ…、…もともと…」
え?と、光の目が瞬き、俺を凝視した。こんなに光に見つめられたのは…初めてだ。
「お前の…生みの、母親が…遺した……ものなんだ」
「……。」
「この家の…もの…、…すべて」
「……。」
「それを…この家が、奪った…。…お前から…奪ったんだ」
光は沈黙して、じっと俺を見つめている。
「…でも、どうして…」
どうして、俺がそこまでするのかって?命を君に捧げてまで?
そんなの、決まってる。…もう、死ぬのだから…一度くらい、許されるかな。
最後に…これくらいは…。
もうほとんど力の入らないしびれた手で光の腕を撫で、かすかに口を動かした。
「…え?…何…、光臣…」
顔を近づけた光の、肩口にもう片方の手を回して、小さな頭を引き寄せた。
――俺の乾いた唇が、一瞬、光の柔らかな唇を撫でた。
ああ…やっぱり……、どこまでも愛おしい。
「……え…?」
光は驚いて息を飲んで、俺を見つめていて――
俺はその目に…深い深い青の瞳に見つめられながら……目を閉じた。
***
――白い天井。
耳障りな電子音。薬品のにおい。肌にまとわりつく、ざらざらしたシーツの感触。
…嘘だろ!?まさか…助かったのか!?
飛び起きて、酷いめまいがして、蹲った。…信じられない。これじゃあ全てが台無しだ。
ナースコールのボタンを押すと、すぐに看護師と担当医がすっとんできた。
「気が付かれましたか。まだ麻酔が残ってるとは思いますが、どこか痛むところや違和感はありますか?」
「……。」
「…た…玉城様?」
忌々しく医者を睨む俺を、医者と看護師はおろおろして見ている。
「…なぜ助かった?」
ぽつり、とそう訊くと、二人は顔を見合わせ、朗らかな笑みを浮かべた。
「運び込まれたときは、出血が多く、大変危険な状態でした。」
「……。」
やっぱり腕を切るだけじゃ甘かったか…。睡眠薬と酒でも飲むんだった。
「しかし、付き添いでいらっしゃったご親族の方が輸血を申し出てくださいまして。それがなかったら…」
……まさか…。
「…親族って…。」
医者はにっこりと微笑んだ。
「従妹でいらっしゃいましたよね、玉城光様です。」
…どうして…。
俺はずっと君に酷い態度をとって来たのに。
人格を否定し、ないがしろにし、暴力も振るった。
それに俺がいなくなれば、あの遺書の通り、財産を全て受け継いで、光も親も何も不自由することはなくなるのに。
どうして…?
「…くっ…」
「た…玉城様?」
俺は蹲って、堪らず笑い、そして、涙を流した。
信じられない。こんな俺を助けるなんて…。
光……。
わかったよ…君の為なら何でもする。
君の為に人生をささげる。
君に助けられた命だから…。
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