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「お嬢様、お帰りなさいませ。」
ロビーに集まった使用人が光を出迎え、荷物を預かっている。今年から高校の寮に入った光がこの屋敷に顔を見せるのは1か月振りで、使用人たちは皆嬉しそうに笑顔で出迎えている。
しかし光はどこか浮かない顔で、それでも微かな笑顔を作って使用人たちに微笑みを向ける。
「お食事の時間までお部屋でお休みくださいませ。」
「うん。あ…待って。」
光は預けたカーディガンをもう一度引き取り、ポケットから携帯電話を抜き取った。
「お願い。」
カーディガンを預けなおし、光は携帯電話を胸に抱いて階段を上がってきた。
「……。」
そこで俺に気付いて、はっと顔をこわばらせ、少しうつ向いて横を通り過ぎていく。
俺は階段を上がっていく光の背中を少しの間見送って、普段携帯に頓着しない彼女の些細な変化に、小さな疑問を抱いた。
***
「光臣様。」
書斎で本を読んで時間をつぶしていると、7時前になって使用人が食事だと告げに来た。兄貴が帰って来たらしい。寮住まいの俺や光を今日屋敷に呼びつけたのは、ほかでもない兄貴だった。
書斎を出て本館に向かう途中、私室がある2階へ向かう使用人の姿を見つけて、俺は歩み寄った。
「光を呼びに行くのか?」
そう声をかけると、少し驚いたように目を丸くして、はい、と頷く若い使用人。
「俺が行くよ。話もあるし」
「かしこまりました。」
恭しく礼をして、使用人は食堂の方へ向かって行った。
俺は階段を上がり、廊下の奥の、光の私室の前に立った。
「…でね……うん…」
微かに聞こえる話し声。光以外に人がいるはずはない。電話でもしているのか?
「あはは……ふふ」
朗らかな笑い声に俺は驚いた。光があんなふうに笑うなんて、今までにない。少なくとも、ここ10年近くは。…光の母親が、亡くなってからは…。
だけど、友人たちの前ではこんなふうに笑うのかもしれない、とすぐに思い直した。家ではいつも沈んだ顔で、使用人たちには痛々しく微笑む彼女にも、心を許せる友人たちがいるのだと思うと、戸惑う胸に安堵のようなものを感じた。
――コンコンコン。
俺は扉を素早くノックした。ぴたりと話し声がやみ、少しして、慌てたような顔をした光が扉を開けた。
「食事の時間だそうだ。」
そう告げると、光は表情を沈ませて、
「…はい」
と言った。
使用人にあてがわれたのだろう、淡い桜色のワンピースに着替えていた彼女の白い肌が映えて、まぶしいくらいだった。薄く化粧もされ、丸い瞳と赤い唇が際立っていた。甘い香りでも立ち込めて来そうなほどに。
ワンピースは細い肩ひもが華奢な肩にかかっていて、白い鎖骨と胸元が広く曝け出されていた。俺は眉を顰めた。
「何か羽織れよ。」
「え…」
「下品だ。」
そう言い捨てて、俺は踵を返した。背後で静かに扉が閉まる音がした。
***
「久しぶりに顔を見られて嬉しいよ、光。」
食事を囲み、兄貴はご満悦で光を無遠慮に見つめた。光は居心地悪そうに肩を竦めながら、スープを口に運ぶ。
「しかしこの部屋は寒すぎないか?まだ5月なのにクーラーをつけているのか?」
「俺がつけたんだよ、兄貴。暑いんだ。」
俺が答えると、兄貴は不満げに俺を睨んだ。
「自分勝手な奴だな。おかげで光が上着を脱げないじゃないか。せっかくきれいな服を着ているのに」
「……。」
光は唇を噛んで、パンを取るふりをして兄貴から視線を逸らした。
「こいつが着飾ってるのなんて見たくもない」
俺は一息に言って、パンを千切った。光は何も言わない。ずっとそうだ。食卓に座ってから、彼女は一言も話さない。
「相変わらず仲が悪いな。光、俺がいてよかったな。こんな性悪野郎と結婚することになっていたら、地獄だろ?」
「……。」
水のグラスを手に取った光が、不意に俯いてじっと動かなくなった。その手が少し震えているのを見て、俺は口を開いた。
「具合が悪いなら部屋に行けよ。みっともない姿を見せるな」
「…ごめんなさい」
光はか細い声で言い、立ち上がって、逃げるように食堂を出て行った。使用人たちは青ざめた顔でそわそわと目配せし、一人が光を追いかけて食堂を出て行った。
「もう少し優しくできないのか?」
兄貴は呆れたように言ってワイングラスを傾けた。
「あいつを見てるとイライラするんだよ」
「ガキだな。マナー講師から何を教わっているんだ?女性には優しくしろと教わらなかったのか。」
「……。」
「俺と光が結婚すれば、お前たちも姉弟になるんだぞ。反抗期もいい加減にしろよ。」
俺は沈黙を貫いて、兄貴の声をただの音として聞き流した。
「…それより兄貴、この間の仕事、もう少し手伝いたいんだけど。」
「お前にはまだ早い。」
「話は付けてきた。兄貴のところに『封筒』が届いただろ…」
俺の話を聞いて、兄貴は使用人たちに出て行くよう合図を送った。
広い食堂に二人きりになって、兄貴はステーキにナイフを入れながらニヤリと笑った。
「あれはお前だったのか。やるじゃないか」
「あのくらい…どうってことない。」
「慢心するなよ。油断は破滅を招くぞ。」
「……。」
「この世界で生き残る秘訣は、誰も信用しないことだ。だが、そうだな。あれを片付けたなら…お前にはもう少し手伝ってもらってもいいかもな。」
「…ああ」
「ふっ…さすが俺の弟だ。将来、良い右腕になりそうだな。」
「……。」
「食事のあと、俺の書斎に来い。」
「わかった。」
俺は頷いて、味のしない食事を口に運んだ。
***
書斎のドアがノックされると、兄貴は不機嫌そうに声を上げた。
「なんだ?仕事の話をしているんだぞ!」
苛立った兄貴を宥めるように、扉を開けた使用人は申し訳なさそうに口を開いた。
「お邪魔をして、申し訳ありません。ですが、お嬢様が学校の寮へお帰りになるというので…」
「光が?」
すると兄貴はけろりと態度を変えて、すぐに書斎を出て行った。
「光。もう帰るのか?」
ロビーで使用人たちから荷物を受け取り、見送られていた光は、俺と兄貴を振り向いて表情を固めた。
「…はい、門限があるので」
「今日くらい泊まっていけば良いのに。」
「…もうすぐ試験があるので」
「勉強が忙しいのか?真面目だな。」
兄貴は光の肩に手を置き、光は耐えるように目を背けた。
「もう着替えてしまったのか。さっきのドレス、よく似合っていたのに。もっとよく見たかったな。」
「……。」
「しかし…随分女らしくなったな。体つきも…」
兄貴の手が光の腕を使い、手を絡め取る。光は身を強張らせ、こっそりと唇を噛んでいた。
俺は、光が兄貴の手を振り払い、そのまま顔を引っぱたいて暴言を浴びせ、めちゃくちゃに兄貴を罵って、兄貴が情けない顔で呆然と彼女を見上げる光景を想像して、失笑のため息を吐いた。
「…っ」
しかし現実は、光がこわばった拍子に手をひっこめただけで終わった。
「…も、もう…門限が…あるので…」
光は青ざめた顔でそう言い訳のように呟いて、お辞儀をした。
「そうか。残念だな。」
兄貴はそう呟いて俺を見る。
「お前はどうする、光臣?光と一緒に帰るか?」
俺が通う男子校と光が通う女子校はほど近い場所にあり、寮も学校を挟んで向かい合っている。創設者が同じで、男子校舎と女子校舎に別れている、と言った方が近い。
「いや、俺はもう少ししたら電車で帰る。」
「電車で?わざわざ?」
「電車が好きなんだ。」
面倒になって適当な言い訳をつけると、兄貴は顔を顰めた。
「暗い奴だな。」
それから兄貴は光の髪を撫で、気を付けるようにと言い聞かせて見送った。
玄関のドアが閉まると、兄貴はニヤニヤ笑いながら俺を振り返った。
「見たか?あの初心な態度。手を握られたくらいで緊張して…」
「……。」
「あれはまだ男を知らないだろうな。」
そして全寮制の女学校生活で、男を知る機会もない。兄貴と結婚するまで…
俺は虫唾が走って、歪む顔を隠すように踵を返した。
「光臣?」
「…気色の悪い事を言うなよ。あいつの話はしたくない。嫌いなんだ」
そう言うと、兄貴は呆れたような失笑を零して、書斎に戻って行った。
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