※ふたりが高校時代の話※


「ハギ、ジャージ貸してくんね?」

 確かそっち1限体育だっただろ?ちょうど忘れちまってさ。3限目終わりの休み時間に、隣のクラスの松田がやってくるなりちょっと申し訳なさそうに言った。その姿は半袖短パンの体操着で、正直見るからに寒そうだ。現に松田もぶるりと身体をふるわせている。

「陣平ちゃんまた忘れたのか?」
「そうなんだよ! ちゃんと鞄に入れたつもりだったのに、何故か入ってなかったんだよな」

 おかしいなと首を傾げる松田。何故か、って……。そいつはいつも確認せずにテキトーに引っ掴んでカバンに突っ込むのが悪いんだろ。どう考えてもわかりきったことじゃねぇか。俺は仕方ねえなと思いながら手提げ鞄を探る。

「貸すのは別にいいけどよ、そっちの先公俺のとこよりキビシーんだからマジで気ぃつけろよ?」
「ああ、わかってるって。名前呼ばれたらちゃんと『今の俺は“萩原陣平”だ』って言ってるし、問題ねぇよ」
「そういうことじゃない気がするけど……」

 そう言いつつも俺が手渡せば、「ありがとな!」と言い残して大慌てで教室を出て行ってしまった。それから程なくして授業開始のチャイムが鳴る。なんてタイミングだろう。さて松田は間に合ったかと教室の外をチラリと覗くと――俺の席は窓側にあり、校庭の様子がよく見えるのだ――、ジャージに袖を通しながらギリギリで滑り込んでくる。どうやら間に合ったらしい。よかったと俺はほっと胸を撫で下ろす。ちょうど日直が号令をかけたので立ち上がって一礼、また着席する。

 数学の授業をなんとなく聞きながら、意識と視線は校庭に向いている。今日の体育はサッカーらしく、松田は元気に校庭を駆け回っていた。よしいけ、そこだ陣平ちゃん! 心の中で応援していると、まるで俺の考えを読んだかのようにその通りに動いた松田が味方からのパスを受けて綺麗なシュートを決めた。嬉しそうにガッツポーズを決めて、チームメイトとハイタッチを交わす。

「(楽しそうだな)」

 頬杖をついて俺はふっと息を吐く。こんなつまらない微分積分なんかより、俺もサッカーがしたい。
 するとそこで、松田がパッと顔を上げてこちらを見た。ぱちり。視線がぶつかる。その瞬間、松田はニッと得意げに笑って、こちらに向かって親指を立てた。まさかそんなことをされるとは思わず、俺は一瞬面食らってしまう。だけどすぐに周りの人にバレない程度に小さく手を振りかえす。ピーッとホイッスルが鳴って、松田は再び試合に戻って行った。


***


「いやー、あの時はマジで助かったわ。ありがとな」

 松田はそう言って俺にジャージを手渡した。それは普段の松田にしてはありえないほど丁寧に畳まれている。
 あの後ボールの取り合いでもみくちゃになった挙句盛大にすっ転んで汚してしまったため、洗って返してくれることになっていたのだ。

「それはいいんだけどよ、ちょっと返すの遅すぎねぇ?」

 俺の言葉に、松田はちっとも悪びれる様子もなく「ワリーワリー」と笑った。今は昼休み終了10分前であり、この後今度は俺のクラスの体育の授業があるのだ。てっきり昨日くらいに返してくれるだろうと思って待っていたら、まさかこんなにギリギリになってしまうとは。

「次からは気ぃつけるからよ。な?」
「ったく……仕方ねぇな」
「ありがと。じゃあ俺次化学だから。また放課後な」
「おう」

 そう返せば松田は走って化学室へ向かった。その背中を見ながら一連の松田の様子を思い出す。うん、あれはまたやるな。長い付き合いだからわかる。
 別に貸すのはいいんだけど、早めに返して欲しいんだよなぁ。そう思いつつ、ジャージを広げて体育着の上から羽織る。

 ――ふわり。

 嗅ぎ慣れないが、それでいてよく知っている匂いが鼻を掠めて思わず動きを止める。そっとジャージの袖を摘み、鼻先に持ってくる。すんとひと嗅ぎ。……これは。

「陣平ちゃんの匂い……」

 というか正確に言えば、松田の服からする匂いである。俺の家で使っているフローラルなタイプとは違う、少し爽やかな柔軟剤の香りだ。普段から一緒にいる分馴染み深いものだが、それが自分の服から香るのは初めてで、なんだか不思議な感じがする。はっきり言って落ち着かない。

「なんつーか、変な感じだ」

 例えるならそう、彼女と近づいた時にふわっと甘いいい匂いがしてきてちょっとドキッとするみたいな。そういうのに似てる。いいよな〜ああいうシチュエーション。ベタだけど俺結構こういうのに弱いんだよな〜……って、いやいや。

「相手は陣平ちゃんだろ」

 ふと我に返り、俺はつぶやいた。ドキッとするって……可愛い女の子ならともかく、相手はあの陣平ちゃんだぞ? ときめきも何もあったもんじゃない。ないない、何もない。まったく、一体何言ってんだか。

「どうかしてるな」

 なるべく匂いから意識を逸らしつつ、俺はジジっとジッパーを最後まで上げた。予鈴が鳴る。まずい、早く行かねーとな。