「今日はこれで終いにするかねい」
入り口のプレート返しといてくれ、と言われて、おれは一つ返事で慣れたように診療所の外へ出た。ドアの前に下げられている『受付可』のプレートをひっくり返して『準備中』を表にする。
ああ、それにしても今日も疲れたな。これをすると1日が終わったなという実感と共にどっと疲れが湧くから不思議だ。ごきごきと首を鳴らしながら部屋の中へ戻る。
「お疲れ様です」
「ああ」
一足先に後片付けに取り掛かっているマルコ隊長に声をかければ、素っ気ない返事が返ってくる。彼にとってそれはいつものことなので、おれは構わずにほとんどルーチンとなった仕事をこなすことにした。
使用済みの包帯やガーゼを中身の見えないゴミ袋に捨て、洗浄の必要な器具をまとめて洗う。能力者であることが関係しているのか、彼は水回りの仕事が他と比べて少し苦手らしく(以前にひとりで洗っていた際に器具を壊してしまったことがあるらしい)、それ以来、器具の洗浄はおれが担当することになっていた。
一通り任されていた作業を終え、おれはぎゅっと蛇口を閉めて水を止める。
「今日も行くのかよい」
「はい」
手を拭いていたタイミングで隊長に問われ、おれはほとんど反射的に答える。振り返れば彼は椅子に腰かけて眼鏡のレンズをシャツで拭っていた。おれは身につけていた白衣を脱ぎながら問いかける。
「一緒に行きますか?」
「……いや」
おれの誘いに隊長はやれやれと言った風に苦笑いを浮かべて眼鏡をかけ直す。その机の上にはいくつかの書類が散乱していた。
「悪いが、俺は用事があるから誘いにゃ乗れねェ。お前だけで行ってこい」
「わかりました」
お先に失礼します。おれが静かにそう言えば、隊長は「おー」と言いながら立ち上がり、ひらりと手を振って部屋の奥に消えてしまった。その背中を横目に、おれは白衣と荷物を手に診療所を後にする。
***
ひゅるりと冷たい風が首元を通り抜けて、おれは小さく身震いした。手に持った紙袋ががさりと音を立てる。
この頃、陽が落ちるのがだんだん早くなってきたように感じる。ふと眼下の村を見下せば、ぽつぽつと明かりが点り始めていた。季節の移り変わりをその身になんとなく感じながら、おれは再び目的の場所へと足を進める。
目的の場所に到着し、おれは足を止めた。
「今日も来たぜ。親父さん、エース」
目の前にあるのは、ふたつ仲良く並んだ墓標だった。
おれは見慣れたオレンジのテンガロンハットがひっかけられている墓の前に、紙袋から取り出したものを乗せる。ごとりと音をたてるそれは、まだ未開封の酒瓶だった。
「今日は患者からお礼だって貰ったやつ、持ってきた。おれそんな酒飲まねェのに、貰ってくれってうるせェんだ」
持ってきた村の人の表情を思い出しながらおれは苦笑する。いつもおれらに何かしらくれるくせに、全然お返し受け取ってくれねェんだよな、あのオバサン。どうやってあの人にお礼を受け取らせるか、また隊長と作戦会議しねェと。
そこでふと隣の墓の方を見て、おれはなだめるように言った。
「親父さんの分は後からマルコ隊長が持ってくるから、心配すんなよ」
栓を外せば、アルコールの芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。また結構高そうなやつくれたな。そう思いながら持参したふたつのグラスに注ぎ、瓶に再び栓をした。ことりと再び墓の前に置き、グラスをひとつとる。そしてグラスを片手に、墓の前でどっかりと胡坐をかいた。見上げた先にある帽子が風に揺れている。
「今日も、忙しい1日だった」
おれはいつものように、今日あった出来事を一方的に話して聞かせる。近所のガキがまた怪我しやがっただとか、あのじいさんの具合が良くなっただとか、診療所に手負いの野良猫が住み着き始めただとか、そういうたわいのない話ばかりだ。だが日常の何気ない話を報告するこの瞬間が、おれが1日の中で一番幸せな時間だった。
ひととおり話し終えて、おれははあと息をついて後ろに手をつく。話しながら飲んでいたグラスはいつの間にか空になっていた。
ふと、空の色が変わり始めていることに気付く。
だんだん色濃くなる空に帽子のオレンジが映えて、なんだか夕焼けの残り香みたいだと思った。
「……エース」
ぽつりと、名前を呼ぶ。
脳裏に太陽のように溌溂とした笑顔がよぎった。
エースが死んで、もう2年が経つ。
落とし前戦争に参加してなんとか生き残り、マルコ隊長と共にこの村で医者として働き始めて、もうすぐ1年だ。時間が過ぎるのは、いつだって早すぎる。
1年前の戦争の後でマルコ隊長に同行を志願したとき、おれの頭の中にはまた昔のようにひとりで冒険を続けるという選択肢は無かった。どんな冒険をするにしても、お前が居なきゃ意味がない。自然とそう思ってしまったから。
「……」
あの戦争で、お前の身体には大きな穴が開いたが、実はあれからおれの胸にも穴が開いている。
ただしお前と違って、目には見えない穴だ。
2年経っても、ちっとも塞がる気配がない、心の穴だ。残念だが、こればっかりは医者にも治せないだろう。
多分、これからずっとおれは、胸に穴を開けたまま、お前のことを引きずって生きていくんだと思う。同じ年くらいだったのに、これから俺だけどんどん年をとって、お前を置いてけぼりにして老けていくのかな。あれだけおれの名前を呼んでくれていたお前の声も、いつか忘れちまうのかな。お前と冒険をした想い出も、薄れて、忘れちまうのかな。
……そしてそれを当たり前のように受け入れて、残りの人生を生きていくしかねェのかな。
おれは……それが本当に、怖い。
「なあ、エース」
おれは恐怖を振り払うように、再び名前を呼ぶ。
お前が居なくなってからずっと、おれの頭の中はお前のことでいっぱいだった。
飯を食えば、お前の食ってる途中に寝ちまう妙な癖を思い出す。
道端の野良猫を見れば、コタツに懐かれてよく一緒に遊んでいたのを思い出す。
仕事で怪我の手当てをすれば、常に生傷だらけだったお前の身体を思い出す。
買い出しに出れば、上陸するたびに財布を忘れるお前のために島中を駆け回ったのを思い出す。
本を読めば、構って欲しさに近寄って話しかけてきていたのを思い出す。
挙句の果てに、名前を呼ばれるだけであの島での出会いを思い出すんだ。お前の、あの太陽のような笑みと共に。
……そして決まって、胸の穴が痛むんだ。
一緒にいた頃は、ちっともそんなこと無かったのに。
初めは、お前を失った悲しみからこの胸の痛みは来てるんだと思っていた。
だけど正確には、それだけじゃなかったんだ。
それに気づいたのは本当につい最近のことだ。きっかけは、久しぶりに部屋を整理したら航海してたときに書き溜めていたネタ帳が出てきたこと。ほんの数年前のことのはずなのに当時がすごく懐かしくて、あの時のおれは一体どんなこと書いてたんだって、完全に興味本位で表紙を開いたんだ。
……読み進めて、思わず笑っちまったよ。
おれが主人公のつもりで書き始めた冒険譚のはずなのに、途中からほとんどお前のことしか書いてなかったんだから。
ページを捲っても捲っても、書いてあるのはお前のことばかり。まったく、困ったもんだ。これじゃ主人公が誰かわかりやしねェ。
これを書いていた時はまったくそんな意識なんて無かったから、本当に無意識のうちに書いてたんだろう。信じられるか? それくらい、おれの心の中にお前はいたんだ。
……だからきっと、この感情は、そういうことなんだろう。おれはそこでようやく気が付いたんだ。どうしてお前を思い出して胸が痛むのか。その答えが。
目の前の墓標を見上げながら、辿り着いた答えを口にする。
「おれ、お前が好きなんだ」
思ったより声は震えなかった。
おれ自身が考えに考え抜いた結果だから、迷いは無い。
だが当然、返事は返ってこなかった。……返ってくるはずが、なかった。
わかりきっていたことのはずなのに、それがひどく残酷なことのように思える。
「……はは」
辺りのあまりの静けさに、思わず笑みが零れた。
……ばかだなあ、おれは。失って初めて気付くなんて、どう考えても遅すぎるだろ。
せっかく答えが出たのに、これじゃあ、お前の返事を聞くことも……そもそも、お前におれの答えを聞いてもらうことすら出来ないじゃないか。
不意に目から溢れた何かが、頰を伝って草むらにぽたりと落ちる。
「……好きだ、好きなんだ。エース……」
改めて想いを口にした。一度といわず、何度でも言った。その度に声が震える。視界が滲む。
おれは堪えきれずに、俯いて目元を手で覆った。指の間から滴るように、次々と熱を持った何かが流れ落ちていく。
すっかり暗くなった丘の上で、夕焼けのオレンジだけがいつまでも頭上で揺れていた。