08


名前が泣いている理由を不死川は何も聞かず、ただ静かに見守ってくれた。
彼の肩を借りて泣いた後、なぜあの時連れ出してくれたのかと問えば、不死川は相変わらずぶっきらぼうに「お前があのまま煉獄と帰っちまったら、おはぎ貰いそこねんだろうがァ」と言い放った。


そんな見え透いた嘘に、名前は少し心が救われた。
やはり彼はとても優しい人だ。




その後不死川が隠に取り計らってくれたらしく、名前は煉獄とは別で炎柱邸に帰還することとなった。
帰路に着くと煉獄本人の姿はそこにはなく、顔を合わせずに済んだことに少しほっとしている自分がいた。
千寿郎曰く、煉獄から夜まで戻らないと鎹鴉を使って伝達があったらしい。
千寿郎と共に夕餉を作り、槇寿郎の部屋に届けたあとは二人でたわいも無い話をしながら食事をとる。

今日はもう何も考えずに早めの寝床に就こうと、湯浴みの準備をしていた時であった。
夜の静かな空間にひたひたと廊下を歩く音が響き渡り、名前の部屋の前で止まった。







「夜分遅くにすまない。少しいいか」




一呼吸置いてかけられたその声に、名前は己を律するようにすっと息を吸い込むと小さく肯定の返事をした。
かたりと襖が開き、声の主・煉獄が部屋に入ってくる。
帰宅してからすぐ名前の部屋に来たのか、未だ隊服姿のままの彼は名前の正面に腰を下ろした。






「昼は、驚かせてすまなかった」




お互い向かい合って少しの沈黙が流れたあと、先に口火を切ったのは煉獄であった。
頭を垂れる煉獄に、名前は慌てて首を横に振る。
煉獄は何も悪いことなどしていない。
ただ自分が一方的に彼に想いを募らせて、それが決して叶わないことだと知って打ちのめされただけだ。
いきなり謝られるとは予想だにしておらず、狼狽える名前の目を見据え、煉獄はそのまま続けて言葉を発する。





「春先に・・・伯母上から縁談を持ちかけられた。家のことを考えて、そろそろ身を固めて子を成してはどうかと言われた」




春先、といえば煉獄の伯母である穂高が炎柱邸によく訪れるようになった時だ。
一度顔を合わせたあの日から、名前は何度か煉獄に会いに来た穂高の姿を見かけていた。
今まで盆と正月くらいしか顔を見せなかった彼女が頻繁に現れていたのはそういうことだったのかと合点がいく。






「父上は既に引退した身であるし、今の煉獄家には炎の呼吸を極めれるめぼしい者もいない。もちろん死ぬつもりなど毛頭ないが、このままでは万が一俺に何かあっては炎柱の継承が途絶えてしまう。・・・そうなれば、千寿郎が己のせいだと自分を責めてしまうと思った」



そうぽつりと、煉獄はとても辛そうな顔で呟いた。
その表情に、名前は少し前に泣き腫らした顔で自分に話を打ち明けてくれた千寿郎の姿を思い出す。

継子として名前が炎柱邸に来るより前から、千寿郎も日々煉獄の元で日夜稽古に励んでいた。
しかし父のように兄のようになりたいと目を輝かしていた少年の瞳は、いつしか影を帯びるようになっていた。



『日輪刀の色が変わらなかったんです』


本来であれば藤襲山での最終選別を通過した者にだけに授けられる日輪刀。
刀を破損してしまった煉獄のために新しい刀を携えてやってきた刀鍛冶の里の者が、まだ修行中の弟子の作品ではあるが稽古用にどうかと千寿郎のために一本譲ってくれたらしい。
きっと歴代の炎柱のように、炎のような赫き刀身に色変わりするだろうと誰しもがそう疑わなかった。
しかし、現実は残酷だった。


稽古を重ねる度に何度も日輪刀を握り、変わらない刀身を見て落胆する千寿郎の背中を、煉獄が見ていたことを名前は知っている。





「炎柱継承のためにも、千寿郎の肩の荷を下ろしてやるためにも、俺が嫁をもらうことで全て良い方向に進むならばと、縁談を受けることにした。それが五月の初めのことだ」



五月初め−・・・あの祭で煉獄から耳飾りをもらい、手を握って歩いた時にはもう彼には婚約者がいたということだ。
己が煉獄に抱く恋心を実感した時にはもうすでに手遅れだったということかと、ずきりと刺す胸の痛みを誤魔化すように名前は着物の裾を握りしめる。





「もちろん、すぐに名前にも報告しようと思っていたんだ」




そこまで言うと、それまで名前の瞳を見ていた煉獄の目がゆらりと揺らいだ。
そして何かを言おうとして口を開く。

が、何も言葉が出てこない。


ふと、煉獄の視線の先が名前の耳に付けられた耳飾りに注がれているのに気づく。
煉獄から貰えたことが嬉しくて、毎日肌身離さず付けているそれは、もうすでに名前の身体の一部となっていた。
だがしかし、これは彼に返したほうが良いだろう。
いくら継子といえども、自分の夫が異性に贈り物をしていてそれを相手が大事に持っているなんてことを知ったら、顔も知らない未来の花嫁はきっと悲しむ。






「杏寿郎様、謝らないでください。おめでたい事なんですから・・・いつものように笑って、誇らしくご報告してください」



流れていた沈黙を破るように、真っ直ぐと煉獄を見据えて名前は言葉を紡ぐ。
そうだ。しょせん自分は継子で、一年前までは同じ鬼殺隊に組みするだけの赤の他人だったじゃないか。
そんな者に報告が遅れて悪かったと謝る義理など、全くないはずだ。






「ご婚約おめでとうございます。杏寿郎様ならきっと、素敵なご家庭を築かれることと思います」





自分の気持ちに蓋をして、必死に笑顔を取り繕う。
そして両耳から耳飾りを外すと、名前はそれを煉獄の方へと差し出した。





「・・・花嫁様に申し訳が立ちませんので、お返ししますね」



師範と継子の関係でなかったら。
自分の気持ちにもう少し早く気づいていたら。
すぐにでも柱になれる実力や才能を持ち合わせていたら。
何か別の未来が待っていたのだろうか?
そんなことを考えても無意味だということを、名前は身をもって知っていた。

家族が鬼に食い殺されて亡くなった時、嫌でもそれを味わった。
いくら後悔しても失ったものはもう二度と戻ってこない。
立ち上がるためには前を向いて、歩むしかないのだ。





「−っ名前、俺は・・・」



ようやく口を開いた煉獄の言葉を遮るように、ぎしりぎしりと誰かが廊下を歩く足音が聞こえてきた。
恐らく話し声を聞きつけて、兄が帰ってきたのかを確認するために千寿郎がこちらに向かってきたのであろう。






「名前さん、遅くにすみません。もしかしてお部屋に兄上がいらっしゃいますか?」



案の定外から投げられた千寿郎の声に、名前は持っていた耳飾りを半ば無理矢理煉獄の掌に握らせると、そのまま立ち上がって襖を開ける。
そこには湯浴みを終えたばかりなのか、手ぬぐいを片手にほかほかと身体から湯気を出した千寿郎の姿があった。




「どうぞ。中にいらっしゃいますよ」

「あっ本当だ。兄上おかえりなさいませ」

「・・・ああ、ただいま」

「先に湯を頂きました。よろしければ、お夜食でも作りましょうか?」

「いや、いい。部屋に戻る。名前も・・・遅くにすまなかった」




千寿郎の言葉に、煉獄はそう答えるとそのまま振り返ることなく足早に部屋を去っていく。
置いてかれた千寿郎は罰が悪そうな顔をしながら、同じく部屋に取り残された名前を見上げた。




「・・・お邪魔してしまったでしょうか?」

「大丈夫ですよ。もうお話は終わっていましたから」




優しく声をかける名前に、千寿郎は安心したように微笑むと、そのまま「おやすみなさい」とゆるりと会釈をして自室へと戻っていった。
急に静けさを取り戻した名前の部屋。
六月半ばといえども、既に夏のように生暖かい風が開け放たれた廊下から流れてくる。


聞きたいことは山ほどあった。
言いたいことも山ほどあった。
でもそれは、単なる名前の我儘や気持ちをぶつけるだけで、煉獄にとっては足枷にしかならない事だ。
自分はただの継子としての振る舞いがきちんとできていただろうか。


もう泣き尽くしていたはずなのに、やはり涙というものは自然と出てきてしまうのだなと、頬に流れる雫を拭いながら名前は夜空を見上げる。
雲一つない空には、幾千もの星々が瞬く。

早く己の心が平穏を取り戻せますようにと、名前は夜空の星に願った。


back/top