R-side 03
「杏寿郎様。夕餉の用意ができました」
気がつくといつの間に陽が傾き、夕暮時になっていた。
空が茜色に染まる中、庭で黙々と竹刀で素振りをしていた煉獄は名前の声ではたと我に返る。
後ろを振り返ると、そこには長春色の着物に身を包んだ名前がいた。
彼女の紅い瞳には、やはりこのような赤系統の色が良く似合う。
そんなことを考えながら、煉獄は名前が差し出してくれた手ぬぐいを受け取って額に流れる汗を拭った。
「美味そうな匂いがするな!」
「今日はお魚を焼きました。薩摩芋の味噌汁もありますよ」
「そうか!それは楽しみだ!すぐに着替えてくる!」
厨から漂ってきているのか、香ばしい匂いが風にのって庭にやってくる。
その匂いにつられて煉獄の腹の虫がぐるると盛大に鳴った。
鍛錬に熱中していたため気が付かなかったが、どうやら己の腹はとうの昔に空っぽになっていたらしい。
名前にそう伝えると、煉獄は足早に水浴びをして着物に着替え、急いで居間へとむかった。
「いただきます!」
そう言って手を合わせると、煉獄は真っ先にゆらりと温かい湯気のたつ汁椀を手に取る。
出汁と味噌の匂いが食欲を唆る味噌汁の中には大好物の薩摩芋の他に、牛蒡や厚揚げなど様々な具材が顔をのぞかせていた。
艶々とした黄金色が美しい薩摩芋を箸で掴み、ぱくりと大きな口を開けて頬張ると、ほくほくとした甘みが口いっぱいに広がる。
「うまい!出汁もいい具合だ!」
鍛錬後に食べる食事はことさら美味い。
満足気に笑顔を浮かべる煉獄の姿を見て、彼の向かいに座り、心配そうにこちらの様子を伺っていた千寿郎の顔がぱぁっと晴れやかに輝いた。
「良かった。今日の味噌汁は名前さんに手伝って頂きながらですが、私が作ったんです!」
「む?そうなのか!千寿郎の料理の腕も上がったな!うまいぞ!」
「良かったですね千寿郎様。杏寿郎様、まだおかわりもたくさんありますので仰ってくださいね」
兄弟の仲睦まじい姿を見ながら名前は安心したように微笑むと、米をよそった椀を煉獄に差し出した。
膳の上には焼き魚の他にも、ほうれん草のお浸しやひじき煮、筑前煮など色とりどりの料理が所狭しと並ぶ。
全て名前が作ってくれたものだ。
彼女の味付けは上品でとても良い塩梅のため、ついつい食べすぎてしまう。
どことなく、母の味に似ていると思う。
その証拠に、普段屋敷の家事全般を担っている女中の料理は酒のつまみ程度にしか食べない槇寿郎が、名前が食事を作る日だけはいつも綺麗に平らげていた。
「うむ!名前の作るものはやはりどれも美味しいな!」
「お口に合って良かったです。このところ任務が立て込んでいたので厨に立つのが久しぶりになってしまいましたが」
母が亡くなった後、鬼殺隊に入隊して任務や鍛錬で多忙になったこともあり、煉獄は屋敷に帰ることも少なくなり、外で食事を摂ることが多くなっていた。
父親はあのようになってしまっていたし、毎晩一人で黙々と食事をしていたであろう千寿郎にはとても寂しい思いをさせていたと思う。
『 時間がある時は皆で食べましょう。食事は団欒があってこそですし、生きるための源ですから』
そんな男所帯の煉獄家を見かねてか、継子になって炎柱邸に住み出した名前が自ら手を挙げて食事を作ってくれるようになった。
もちろん任務があるから毎日とまではいかないが、彼女はできる範囲でそれを続けてくれている。
名前を手伝うために、厨で彼女の横に立つ千寿郎に笑顔が増えたのは言うまでもない。
酒浸りの父も少しばかり顔色がましになった気がする。
この一年で彼女の存在が煉獄家にとってかけがえのないものになっているということは、誰もが頷く事実であった。
「杏寿郎様、お味噌汁のおかわりを入れてきますね」
あっという間に空になった煉獄の汁椀に気づいた名前はそう言うと厨へと下がっていく。
そんな彼女に礼を述べながらも、うまい!うまい!と勢いよく口に放り込む煉獄の膳には、もうほとんど食べ物が残っていなかった。
「兄上、よほどお腹がすいてらっしゃったんですね」
「そうだな!それに名前の飯は格別に美味いからな!」
筑前煮の最後の一口を頬張りながら、そう言って煉獄が快活に笑うと、目の前の千寿郎ははたと箸を動かしていた手を止める。
そして下がり眉をさらに下げると、俯きながら物憂げにぽつりと呟いた。
「本当に・・・。名前さんがこの屋敷にずっといてくれたらいいのになぁと思うことがあります」
「む?名前は俺の継子なのだからこれからもずっと屋敷にいて当然だろう!」
何故そんなに不安そうな顔をするんだ、と煉獄があっけらかんと答えれば、面を上げた千寿郎は不思議そうに目を丸めて兄の顔を見つめた。
「でも兄上。名前さんが柱になったり結婚したりしたら、この屋敷からいなくなってしまいますよね」
千寿郎のその言葉に、煉獄はまるで冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。
確かに柱になれば、余程の理由がなければ私邸が設けられ柱はそこに住まうことになる。
煉獄の元継子である甘露寺が柱となってから、名前は新しい呼吸を習得することにやたらこだわっている節を見せていた。
もし新しい呼吸を手に入れ、さらに柱に空席が空けば彼女はすぐにでも柱に推薦されるだろう。
となれば甘露寺のように炎柱邸を出ていくことになる。
が、煉獄家が気がかりな彼女は定期的に屋敷に様子を見に来てくれるだろうし、最悪柱になれど炎柱邸に住み続けるという選択肢を選んでくれるかもしれない。
しかし結婚となれば、もはやどうしようもない。
名前が誰かと結ばれるようなことがあればここを出ていくのは必然だろう。
何故だろうか。
彼女が自分の横からいなくなってしまうことを、煉獄は今まで一度たりとも考えたことがなかった。
鬼が相手であればこの手で守ってやればいい。
しかしそれが彼女が自ら選んだ男だったら?
自分には為す術がないし、それを邪魔する権利など毛頭ない。
名前の幸せを願って見送る他ないのだ。
「おまたせしました」
ふいに床の軋む音がしてお盆に汁椀をのせた名前が戻ってくる。
はたと我に返り名前を見やれば、居間に流れる微妙な空気を感じたのか、彼女はきょろきょろと千寿郎と煉獄の双方に視線を泳がせた。
「・・・どうかされましたか?」
「・・・いや!味噌汁のおかわりを有難く頂こうか!」
そう言って煉獄はいつものように笑うと、名前から汁椀を受け取りそれを一気にかきこんだ。
不確定な名前の未来を想像するよりも先に、このまま見合いが進めば夏頃に自分は嫁を娶ることになるだろう。
そうすれば任務時以外、己の傍に立つのは琴子であって名前ではなくなるし、名前がこうして食事を作る必要も無い。
名前との日々が琴子によって全て新しい形に塗り替えられていくのだろう。
それは何やら想像しがたく、そして受け入れるのに時間がかかりそうであった。
胸の当たりがむかむかと痛むのは、空っぽの腹に食事をかきこんだせいかもしれない。
そう思い、煉獄は温くなっていたお茶を勢いよく流し込んだ。
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