第二章 01
「私が怒っている理由、分かりますよね?」
そうにっこりと満面の笑みを浮かべながら、しのぶは目の前に差し出された名前の腕を包帯できつく縛った。
余りの力強さに傷が痛んだのか、名前の表情が苦痛に歪む。
「ここ最近任務数は多いわ、ろくに休息も取らないわ、さらには柱から稽古まで受けるなんて・・・無茶もいいとこです。まぁ、稽古を引き受ける方々もどうかしてますけど」
「それは私が無理矢理頼み込んだから・・・」
「貴女の様子を見たらまともな方は稽古なんて引き受けませんよ。現に私や悲鳴嶼さんには断られているでしょう」
眩い笑顔の背後に烈火のごとく怒る般若の姿が見える。
そんなしのぶの言葉に名前はもう何も言い返せなくなった。
遡ること二週間前。
件の煉獄の婚約者騒動が起きてから、少しでも考える時間を無くそうと名前は任務と稽古に明け暮れていた。
普段は煉獄と共に管轄内の応援要請の任務に当たるもしくは彼の代わりを務めることしかないのだが、己の鍛錬のために名前にとっては取るに足らない任務にも当ててもらうようにと根回しをしたのだ。
さらには任務以外の時間は各柱に頼みこみ、個人的に稽古を付けてもらっている。
そのためこの二週間、名前はほとんど炎柱邸には帰っておらず、藤の家紋の家を転々としながら過ごしていた。
その間煉獄と会ったのは、二人揃って応援要請を受けて任務を共にした時の一度きりだった。
『早く新しい呼吸を生み出して、柱になりたいんです』
必要最低限の会話の中で名前がそう伝えると、煉獄は「そうか」と言うだけでそれ以上は何も聞いてこなかった。
彼は彼で任務や稽古で忙しいし、結婚に向けての結納や挙式などの段取りや準備等で目まぐるしい日々なのだろう。
任務以外は己がいない方が色々と都合がいいのではという名前の配慮でもあった。
しかしそんな心身ともに慌ただしい日々を過ごしているうちに、いつの間にか疲労が積み重なり、簡単な任務でも怪我をしてしまうことが増えていっていた。
そんな名前の姿を見かねて、ついにしのぶから怒りの鉄槌が下る。
昨夜の任務が終わると同時、しのぶの手配していた隠数人に囲まれた名前はあれよあれよという間に蝶屋敷に運びこまれ、彼女お手製の眠り薬で夢の世界へ誘われ、強制的に休息を取らされたのだった。
目を覚ますとにこやかに微笑むしのぶが待ち構えており、思わずこれが夢でありますようにと願ってしまったのは名前だけの秘密だ。
「心配かけてごめんね、しのぶちゃん」
ぽつりと呟く名前の顔を見て、しのぶはぺちりと名前の額を軽く叩く。
煉獄のことをしのぶは何も聞いてこない。
それが彼女なりの優しさであることを名前は知っていた。
「私に許して欲しかったら、きちんと寝て、ご飯を食べて、早く元気な貴女に戻ってくださいね」
そう言って背中を向けて包帯をしまう彼女の言葉に、名前は小さく微笑んだ。
***
その後、蝶屋敷を後にして名前は久方ぶりに炎柱邸へと帰還した。
できれば煉獄に鉢合わせないようにと裏門からこっそりと屋敷に入り、庭園を通り抜けて自室の近くの廊下に上がる。
すると、近くからぱたぱたと廊下を歩く足音が聞こえてきた。
床の軋む音が軽いことから千寿郎だろうと判断し、名前は音の方へと顔を向ける。
すると廊下の角から名前が思い描いていた人物とは違う、水縹色の煌びやかな着物を着た少女が顔を覗かせた。
年頃は自分と同じくらいであろうか。
腰まで伸びた黒い髪に、大きな瞳の美しい少女。
その姿を見て、名前は直感的にその者が誰なのか分かってしまった。
「あら。もしかして・・・苗字名前様ですか?」
「は、い」
「まぁ!初めまして。杏寿郎様の婚約者の如月琴子と申します」
瞳を輝かせながら、少女―琴子はそう言って名前の方へと近寄ってきた。
自分の目線ほどの小柄な身体。
揺れる着物の端からはふわりと香の甘い香りが漂ってくる。
会いたくなかった人物に思わぬ遭遇をしてしまい、名前の心臓はどくどくと波打ちだす。
「杏寿郎様から苗字様のお話を聞いていてぜひ仲良くして頂きたいと思っていました。なのでこうしてお会いできて嬉しいです」
そう言って屈託のない笑顔を浮かべると、琴子はただ立ち尽くすことしかできないでいた名前の手を取ると、優しく包むように握った。
豆だらけの己の手とは違い、彼女の華奢な手は傷一つなく真っ白で美しい。
何もかも自分とは違う。
まるでどこかのお姫様のようだ。
これが煉獄が選んだ相手。
これから彼と共に人生を歩んでいき、彼の愛情を独り占めできる人。
なんて羨ましい人なんだろう。
そんな醜い感情を必死に飲みこもうとしたと同時、ドタドタと急ぎ足で廊下を歩く音が響き渡り、ふいに名前の視界に獅子色がちらついた。
慌てた様子で廊下の角から現れた煉獄。
きっと琴子を探しにきたのだろう。
名前と煉獄の視線が交わった時、彼の赤い瞳が驚いたようにゆらりと揺れ、煉獄は歩みを止めてその場に立ち尽くした。
「あら杏寿郎様!申し訳ありません、厠の帰りに迷ってしまって・・・。苗字様をお見かけしたのでご挨拶しておりました」
そんな煉獄の存在に気づき、琴子はいそいそと彼の元へと駆け寄っていく。
そっと煉獄の右腕に手を添え、彼に寄り添うように立つ琴子の花が咲いたように笑う顔も、小鳥が囀るような甘い声も、まさに恋する少女そのものだった。
「・・・なかなか君が戻らないと伯母上が探していた。夕刻から予定があるのだろう」
「そうでした!近くで用事があったので、煉獄家の皆様にご挨拶だけでもと思い寄らせて頂いたのに、つい長居をしてしまいました。苗字様、また近々ゆっくりお話させて下さいね」
会釈をしながら微笑む琴子のその言葉に、名前はただ曖昧な笑顔を浮かべ小さく頷くしかなかった。
「客間に案内してくださいますか」と言う琴子に引っ張られるように、煉獄は名前に背を向けて歩み出す。
しかし廊下の角を曲がる前、一瞬だけ煉獄がこちらへ振り返った。
なにか言いたげな、そして少し憂いを帯びたような、そんな色を含んだ瞳。
何故煉獄がそんな目をするのか、名前には分からなかった。
代わりに堪えるように己の拳をぎゅっと強く握りしめる。
あの二人が結婚すれば、琴子は当然炎柱邸に住まうこととなる。
となれば煉獄と琴子の仲睦まじい姿を嫌でも毎日目にすることになるだろう。
平気なふりをして、笑顔を取り繕って、あの二人と共に暮らすことを果たして己にはできるのであろうか。
考えるだけで胸が張り裂けてしまいそうであった。
『名前ー!風柱ノ処ニ、稽古二行ク時間ダゾー!!』
そんな名前にお構い無しに、庭園で羽根を休めていたはずの己の鎹鴉がけたたましく鳴き叫ぶ。
その声に慌てて自室に戻ると、名前は着替えを済ませ、またすぐに炎柱邸を飛び出していった。
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