第二章 03
「おい苗字、ちょっと身体貸せ」
不死川から継子の誘いを受けて一週間。
任務を終え、藤の家紋の家に泊まっていた名前はそろそろ出発しようと朝方部屋で荷物を纏めていた。
ふいに耳慣れた声が降ってきたと思えば、目の前に音柱・宇髄天元が音もなく現れる。
本音を言えば嫌だと首を横に振りたかったがそういう訳にもいかない。
真顔で固まる名前を見てにんまりと笑った宇髄の後ろから、彼の妻たちが三人飛び出してきたと思えば、名前はあれよあれよという間に身ぐるみを剥がされていた。
「ふふ、ばっちりね」
「きゃー!!似合いますね名前ちゃん!」
「あーもううるさい須磨!」
やんややんやと騒ぎ立てる三人がようやく離れ、名前は鏡に写った己の姿を見て驚愕する。
ハイカラな柄の着物に海老茶色の袴姿。
脱がされた隊服の代わりに名前が着せられていたのは、所謂女学生の様相であった。
己の格好に思考が追いつかずに固まっていれば、部屋の外に出ていた宇髄がようやく顔を覗かせる。
「おーおーやっぱり年相応だな。似合ってんじゃねぇか」
「宇髄様。これは一体どういうことでしょうか?」
思わず睨む形で名前が宇髄を見上げれば、彼はおっかなびっくりといった感じで肩を竦めた。
「懇意にしてる藤の家紋の家の娘が街の女学校に通ってんだけどよ。その女学校で一週間前に生徒が二人突然姿を消したらしく、鬼の仕業かどうか潜入して調べてもらおうと思ってな。娘が怖がって学校に行きたがらなくて困ってるんだと」
「・・・その役目は奥方様方のほうが適任ではないでしょうか」
「いやぁ、それが煉獄の管轄内なんだよなぁそこ!それにこいつら既婚者だし二十歳も過ぎてるから振袖がもう似合ねぇし」
「天元様ひどいですー!!」
火花が散るような二人の問答にお構い無しに須磨が割り込んでくると、彼女は宇髄の逞しい背中をぽかぽかと殴りつける。
その手を軽々といなしながら、宇髄は名前のことを見下ろしたまま嫌な笑みを浮かべた。
「お前、まだ煉獄の継子だろ?師範の管轄内の任務ならお前が適任だ。煉獄にはこの後話つけに行くから安心しろ」
「・・・なんでそれを」
「元忍の情報網舐めんなよ。まぁお前いーっつも無愛想な顔だし、派手派手な俺様のこと苦手っぽくて避けてたようだから、お前が煉獄のことそういう目で見てたってのは柱合会議の時まで気づけなかったけどな」
そうあっけらかんと言う宇髄に、名前は思わず動揺して口を噤んだ。
まさか不死川に継子の誘いを受けていることを知っているだけでなく、己の気持ちについて触れられるなどとは思いもよらなかった。
確かにあの柱合会議の場にいた者であれば少なからず名前の異変に気づいたであろう。
それを煉獄への恋心と結びつけるか、師弟関係の延長線上と思うかは人それぞれだ。
現に煉獄本人は何も気づいていない様子であったし、いい意味で柱たちは他人に興味を持たない人間が揃っていたため、変に勘ぐられることはないだろうと踏んでいたが認識が甘かったようだ。
「安心しろ、煉獄には俺からは何も言ってねーよ。ただな・・・」
そこまで言うと、宇髄は畳に座ったままの名前に目線を合わせるように膝を曲げる。
彼のギラギラと輝く深紅の瞳は、何もかもを見透かしてるようであった。
「後悔だけはするなよ」
ずしりと重い宇髄の言葉が、名前の胸に打ち込まれる。
一変して「まぁ俺なら派手にぶちかまして婚約者がいようが奪っちまうけどな!」と豪快に笑うと、宇髄は三人の妻達に後はまかせたと言わんばかりにそのまま外に出て行き、姿を消してしまった。
その後宇髄の妻たちから任務の詳細を聞き、名前は件の女学校へと潜入することとなった。
生徒や教員、近隣の住民などから色々な話を聞いていくうちに分かったことは、女生徒たちの中である"まじない"のような噂が出回っているこということであった。
夜更けに学校の最上階の窓硝子に紅で己の名前を書けば、その窓硝子に将来の結婚相手が映し出されるという。
そのまじないを試してみようと、夜の学校に忍び込んだ生徒が二名行方不明となっているらしい。
良家の子女達で卒業と同時に親が連れてきた相手との結婚が決まっていたため、それが嫌でどこぞの好いた男と駆け落ちでもしたのではないかと言われ、警察はまだ積極的には動いていないらしい。
しかし気になったのは今回潜入した女学校だけでは無く、近隣の女学校でも同じまじないが流行っており、行方不明者が出ているとの話があったことだ。
恐らく鬼殺隊に目を付けられないように、鬼が狩場を転々と移動しているのではないかと考えられる。
以上のことを鎹鴉を飛ばし宇髄に報告したところ、今夜は宇髄の手配した他の隊士たちが見張りにあたるとのことで名前はお役御免となった。
隊服に着替え、大人しく炎柱邸に帰る最中、ふいに宇髄に言われた「後悔するな」という言葉が名前の頭の中で反芻する。
不死川の継子になるかどうか、煉獄と話をせずに自分の一存だけで決めてしまうことに気が引けているのは確かであった。
婚約者のことを知ってから早一ヶ月、煉獄とはまともに会話をした記憶がない。
そろそろ煉獄ときちんと向き合わなければいけない時期であろう。
逃げてばかりでは駄目だと唇を結ぶと、名前は夕暮れの中、炎柱邸へと急いだ。
***
屋敷につくと自室に荷物を置き、その足で煉獄の元へと向かう。
煉獄の部屋からは灯りが漏れていたため、彼が在室していることが遠くからでも見て取れた。
「杏寿郎様、名前です。少しよろしいですか?」
「ああ、入ってくれ」
緊張から震えそうになる声を抑えながら、襖越しに名前がそう問えばすぐに返答があった。
意を決して襖を開け、部屋に入り煉獄の前に腰をおろす。
机で何やら書き物をしていた様子の彼は、筆を下ろすとこちらに向き直った。
獅子のように輝く髪。炎のように揺らめく瞳。
久方ぶりに真正面から向き合う煉獄の顔を目の前にして、名前は湧き上がってきた己の感情を殺すためにぎゅっと隊服の裾を握った。
「任務、ご苦労だった。宇髄から話は聞いている」
「はい。本日入手した情報を帰還前に宇髄様にご報告しました。明日以降は夜間調査も担当することになりそうです」
「そうか。俺の管轄地域だが、今回は宇髄が指揮を取ると言ってくれたので一任している。宇髄の指示をよく聞くようにな」
「はい。それで、その・・・」
任務報告を簡単に済ませ、続いて本題に入ろうと名前は口を開く。
しかしすんなりと言葉が出てこなかった。
煉獄の元を離れ不死川の継子になろうかと悩んでいる、そう告げれば彼はどんな反応をするのだろうか。
淡々と受け入れられてしまえば自分の存在価値に悲観しそうになるし、かといって止められてしまえば嬉しい反面、屋敷に留まることになり蛇の生殺し状態だ。
どちらに転んでも、聞くことがただ怖い。
畳を見つめたまま名前が押し黙っていると、開け放たれた襖の隙間から風にのって何やら香ばしい匂いが漂ってきた。
女中が夕餉を拵えているのだろうかと朧気考えていれば、微かな声が風に乗って名前の耳に届く。
千寿郎と、高い女性の声。
和気藹々とした笑い声がやけに耳につく。
いつも来ている初老の女中の声ではない。
ああ、この声はきっと―。
「琴子様が、いらっしゃってるのですか?」
「・・・ああ。ここ最近夕方に来て千寿郎と共に夕餉を作っている」
名前の問いに、煉獄は何かを思い出したかのように目線を外しそう答える。
その言葉に、名前の中ですとんと憑き物が落ちたような、そんな感覚を感じた。
つい一ケ月前まで、そこは自分の居場所であったはずだった。
煉獄の隣にいることも、炎柱邸での何気ない一時も、目まぐるしい日々の中で名前が唯一心を安らげることのできる場所だった。
しかしそれらは全て、これからは琴子のものになっていくのだ。
もうそこに名前の存在は必要ない。
さらに屋敷に寄り付かず継子として機能していない自分を、煉獄は何も咎めてこない。
己を差し置いて他の柱の元へ稽古に行くこともむしろ放任している。
煉獄の性格ならば己に何か不満があるのかと、名前に問いただして来るはずだ。
けれど何も言わないし、何も聞いてこない。
そんな彼の態度を見れば、直接問わなくても全て明白ではないか。
とっくにもう自分は煉獄に見限られているのだ。
それなのに何を今更話すと言うのだ
この一年で、煉獄や煉獄家にとって唯一無二の存在になれているのではないかと思い上がっていた自分が恥ずかしい。
そう思うといても立ってもいられなくなり、名前は溢れだしそうになった感情を飲み込むようにおもむろに立ち上がった。
「名前?」
「・・・申し訳ありません。用事が残っていたのを思い出しましたので、また出かけて参ります」
「・・・今からか?」
「はい。それと、明日から件の任務もありますのでしばらくは宇髄様のところでお世話になりすね」
捲し立てるようにそう呟くと、名前は煉獄に頭を垂れる。
面をあげた時、驚いた顔でこちらを見上げる煉獄と瞳がかち合ったが、名前はすぐに目線を外すと「失礼します」と告げ足早に部屋を出た。
燃え盛る炎のようで美しいと思っていた彼の瞳を、怖いと思う日が来るなんて思わなかった。
歩を進める度に、冷えきった心臓がずきずきと痛み出す。
梅雨が明け、夕方までは晴れ渡っていたはずの空はいつの間にかぶ厚い雲で覆われており、ぽつぽつと地面に雨粒を降らし始める。
炎柱邸を飛び出した名前の足は宇髄の屋敷ではなく風柱邸に向かっていた。
横なぐりの雨が降り注ぐ中、風柱邸の門を叩けば、ただならぬ様子の名前の姿を見て驚いた女中が慌てて不死川を呼びに行く。
その後ろ姿を見送り、全身びしょぬれのまま門前の屋根の下でじっと空を見上げていれば、すぐさまドタドタと足音を響かせて不死川が姿を現した。
「テメェ!こんな雨の中傘もささずに何してんだァ!」
開口一番に不死川から怒鳴り声を上げられ、犬を拭きあげるように彼が持ってきた手ぬぐいで頭をぐしゃぐしゃと乱暴に拭われる。
ようやく不死川の手が止まった時、名前は伏せていた面を上げて、目の前の彼の顔を見上げた。
ぽろりと、拭われたはずの雨粒が名前の目元からこぼれ落ちる。
「実弥さん、返事をしにきました」
かけがえの無い大切な場所だった。
初めて心から愛しいと思った人だった。
でももうそれはいくら手を伸ばしても届かなくなってしまった。
「私を貴方の継子にしてください」
雨の音に紛れて涙を零し続ける名前を、不死川はただ黙ってその腕の中に収めた。
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