第二章 04



名前の着替えを女中に手伝わせ、布団を敷いた客間に放り込むと不死川は彼女が眠りにつくまで手を握って傍にいた。
幼い頃夜中に目が覚めてしまった時、横の布団にいた兄がこうして手を握っていてくれたことを名前は朧気に思い出す。
その温もりを噛み締めながら、今まで張り詰めていた糸が解けたかのように、その日は泥のように眠った。



『継子の件は煉獄には俺から伝える』

翌朝そう言うと不死川はそのまま姿を消した。
煉獄と直接話をする気力をすっかり失っていた名前は、何も言わずにただ彼の背中を見送るしかなかった。

ああ、なんて自分は弱くて意気地無しになってしまったのだろう。
そう思うと居てもたってもいられなくなり稽古をしようとしたが、不死川から今日は何もさせるなと言付けられていたようで、風柱邸の女中たちに即座に止められてしまった。
やることが無く、一日手持ち無沙汰に縁側と部屋を彷徨いていたところ、翼をはためかせた己の鎹鴉が上空に現れる。
風柱邸の屋根に留まり鴉がけたたましく鳴き喚いたのは、陽が傾き始めた夕暮れの頃であった。





「おーおー!なんだ、派手にぶっさいくな面してるなぁ苗字!」




一刻後に音柱邸に来いとの鎹鴉からの伝達を受け、名前は隊服に身を包み宇髄の元に訪れていた。
名前の顔を見るや否や、真っ先に宇髄は彼女の腫れぼったい瞼を揶揄する。




「・・・御用はなんでしょうか」

「無視かよ!まったく相変わらず愛想ねぇなぁお前は」

「天元様、女の子にそんなこと言っちゃ駄目ですよ」




面白くないと言わんばかりに胡座をかいてため息をつく宇髄を見兼ねて、お盆を手に部屋に入ってきた雛鶴が彼を諌める。
ごめんなさいね、と宇髄の代わりに頭を垂れる雛鶴から湯呑みを受け取り、名前はそれで喉を潤した。
朝餉に少し握り飯を食べた以降は何も口にしていなかったため、空腹の腹の中にじんわりと茶の温かさが広がり、少し気持ちが安らいだ気がした。




「まぁ本題に入るとするか。任務の件だがな、昨夜数名の隊士に女学校を一晩中見張らせたが何も起きなかった。私服に着替えて噂通りまじないの真似事もやってみたらしいが、まったく反応がなかったみてぇだ」

「まじないをしたのは女性の隊士ですか?」

「いいや、昨日いたのは全員男だ。その女学校で最後に人が居なくなったのが一週間前だから、確実に腹は空かしてるはずなんだがな」

「・・・そうなると、よほど用心深いのかもしくは」

「ああ。女しか食わねぇ悪趣味な鬼かだ」




二人の見解がぴたりと一致する。
宇髄の言葉に名前は昨日の情報収集で仕入れた話を思い出した。
近隣の女学校では行方不明者が多く出ていることからすでに警察が介入し始めているらしい。
夜間の警備が強化されており、女生徒たちも夜の学校には近寄ることはないはずだ。
そのような状況下の元にわざわざ鬼が狩場を戻すとは考えにくい。
はたまた鬼が更に新しい場所に移動したかどうかは、件の女学校を調査してみないと分からないだろう。




「私で宜しければ囮になります」


前を見据えて名前がそう言うと、宇髄は茶を啜る手を止めて満足気に頷いた。




「決行は明日。生憎俺は今夜別の任務で手が離せねぇ。今日のところはまた数名の隊士を見張りに付けておくから、お前は万が一に備えてここで待機しとけ」

「かしこまりました」

「囮の時は渡してた袴はいてちゃんと女学生のふりしろよ」




宇髄の指摘に名前は思わず苦虫を噛み潰したような顔で眉をしかめた。
昨夜日輪刀だけを携えて炎柱邸を飛び出してきたため、袴などはそのまま自室に置いてきてしまっていたのだ。
昨日の今日で取りに戻るには些か具合が悪い。
隠を使うかもしくは煉獄が不在の頃合を狙っていくしかないかと思案していれば、何やら部屋の外から騒がしい声が聞こえてきた。





「困ります〜!先に天元様に確認してからじゃないとー!!」

「ちょ・・・!待ってください!」




どたばたと廊下を歩く足音が複数聞こえてき、それに混じってまきをと須磨の慌てた声が響き渡る。
宇髄に目配せをされた雛鶴がすぐさま立ち上がり襖を開けたと同時、名前の目の前に現れたのは思いもよらない人物であった。
その顔を見て、宇髄は片膝を上げ頬杖を付きながら呑気に声を上げる。





「なんだぁ煉獄、そんな怖ぇ顔して。俺の可愛い嫁たちを虐めんなよ」

「名前に用があってきた」




茶化すような宇髄の言葉を一刀両断するかのような冷徹な声。
突然現れた煉獄は宇髄や他の者には目もくれず、ただ名前だけを見つめていた。
彼が纏う空気がびりびりと震えている。
ああ、こんなに怒りを顕にしている煉獄を見るのは初めてだと、名前はまるで蛇に睨まれた蛙のように小さく息を吸うことしかできなかった。




「へーへー。夜になったし俺はそろそろ任務に行くとしますか。部屋は好きに使ってくれ」




耳を貸す様子のない煉獄に肩を竦めながら宇髄は立ち上がると、あたふたと目を泳がせる雛鶴の手を取り廊下の方へと歩を進める。
そして煉獄とすれ違う時、ぽんっと諌めるように彼の肩を軽く叩いた。




「ほどほどにしろよ」



それでも煉獄は名前から一切目線を逸らさなかった。
襖がぱたりと閉められたと同時、煉獄は逃さないと言わんばかりに名前の腕を掴む。
ぎりぎりと指がくい込むその力強さに思わず名前は身を引くが、ビクともしなかった。






「なぜ継子を辞める」




煉獄のその一言で、不死川が継子の件を告げたのだと名前は理解した。

仔細は分からないがあの不死川のことだ。
きっと"名前を自分の継子にする"と結論のみを伝え、ろくに理由を話さなかったことは容易に想像がついた。
自身が一年手塩にかけて指導した継子に、理由も聞かされずに他の柱の元に行かれてしまっては煉獄もいい気はしないだろう。
それが彼の怒りの原因かもしれないと、名前は己を落ち着かせるために一息つくと、ようやく口を開いた。




「少し前から、新しい呼吸を生み出すために腰を据えて別の呼吸を学んだほうがいいのではないかと考えるようになりました。その矢先、実弥さんから継子のお誘いを頂いたからです」

「・・・それだけの理由なら今まで通り俺の元から他の柱の元へ稽古に通えばいいはずだ。わざわざ継子を辞める必要などないだろう」




確かに煉獄の言う通りである。
新しい呼吸を生み出すために不死川の元へ行くという理由は嘘ではないが建前上だ。
だがしかし、本当は煉獄と琴子の姿を見ることが辛いため逃げ出したなどと本人に言えるわけがない。

それに先に自分を見限ったのは煉獄の方ではないのか?
継子を辞することを思い留まるように言ってくる煉獄の真意が読めず、俯いて口を噤んでいれば、ふいに名前の腕を掴んでいた煉獄の手が緩み外れた。
顔を上げて煉獄を見やれば、そこには先程まで激高していた様子とは打って変わって、項垂れるように片手で顔を覆う彼の姿があった。





「・・・どうして相談してくれなかった。俺は、そんなに信頼するに足らなかったか?」


「違います!!杏寿郎様は、何も・・・悪くありません」




ぽつりと紡がれた煉獄の言葉に、思わず名前は声を荒らげすぐさま首を横に振る。
常に上を目指し己を律する一方で、弱き者のためには全てを投げ出す覚悟で戦う姿をいつも目の前で見てきたのだ。
彼ほど信頼できる人間を名前は知らない。
なのに自分の身勝手で、煉獄にこのようなことを言わせてしまったことがとても心苦しい。





「ならば・・・」




煉獄が独り言つように小さな声を出しながらゆらり面を上げた。
その瞳を見て、名前の胸がずきりと傷む。
炎が揺蕩うように揺れる煉獄の赤き瞳。
今まで見た事のない苦しげな表情をした煉獄の姿がそこにはあった。





「不死川の傍にいたいからか?」




零れた煉獄の言葉に、名前の身体が一気に熱を帯びる。
聞き間違いをしたのではないかと思わず己の耳を疑いたくなった。

婚約者のことを聞かされてからどんな気持ちで過ごしていたのかも知らないくせに。
どれだけ貴方を想って泣いたかなんて知らないくせに。
貴方の元から離れる選択をした苦しみを知らないくせに。

そんな醜い感情がぐるぐると身体中を駆け巡る。
今まで必死に隠していたものが一気に弾けたように、名前の瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちた。





「・・・名前?」




慌てたような煉獄の声と同時に、彼の手が名前の方に伸びてくる。
その手を名前は思わずばちりと跳ね除けた。





「私の気持ちを!・・・―っ勝手に決めないでください!」



ああ、駄目だ。誰か止めてくれないだろうか。
飛び立つ鳥のように跡に何も残さず、綺麗に彼の前から居なくなるつもりだったのに。
いつか柱になって彼と肩を並べれるようになった時、あんなこともあったなと笑えるくらい強くなろうと思ったのに。

もうこの想いを塞き止める術を、名前は持ち合わせていなかった。






「私はっ―・・・私は!叶うなら、貴方の傍にずっと居たかった!!」




叫ぶようにその言葉を紡いだと同時。
突然何かが凄まじい勢いで襖を突き破り、名前と煉獄の間に転がりこんできた。




「伝令ーッ!!!女学校二生徒ガ侵入シ、マジナイヲ実行!!鬼ガ現レ応戦中!!至急苗字名前二救援ヲ乞ウゥー!!!」





漆黒の翼をはためかせ飛び込んできた鎹鴉は焦った様子で雄叫びをあげる。
恐らく女学校で今夜見張りを行っている隊士の鎹鴉だろう。
まさかこんなに早く動きがあるとはと、名前はすぐさま涙を拭い、逸る心を落ち着かせるために深く息を吸って立ち上がる。




「任務のため失礼します」



床に置いてあった日輪刀を掴みながらそう告げる名前を、煉獄は呆けたような顔で見上げていた。
言ってしまった言葉はもう取り消せない。
後悔が大半を占めてはいるものの、燻っていた気持ちを少しでも吐き出せたことで、何か吹っ切れたような気がしたのもまた事実であった。







「さようなら、杏寿郎様」




貴方の元からいなくなること。
この気持ちと決別すること。
全てを含んだ、最後の別れの挨拶。

紅い瞳を細め、儚げな笑みを浮かべると名前はそのまま音柱邸から飛び出し、夜の闇へと姿を消した。




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