第二章 06



煉獄の姿となった鬼が月明かりの下で美しく笑った。
その手に生えた長い爪に、名前の頬を引っ掻いた時についた血が艶めかしく光る。
それを鬼はこれみよがしにべろりと長い舌で舐めとった。




「俺は些か機嫌が悪い。先程そこの娘を喰おうとしたら鬼狩り達に邪魔をされてな。もう一週間も若い女子を口にしていないゆえ、腹が空いてしょうがない」

「やはり、貴方が女生徒たちを・・・」

「ああ、皆大層喜んでいたぞ。愛しい相手にわざわざ姿を変えてやったんだ。好きな男に喰われて死ねるなんて本望であろう」




日輪刀を構え、睨みつける名前に鬼は何も動じない。
そればかりか両の手を広げ、褒めてくれと言わんばかりにほくそ笑む。
煉獄の姿と声色でそのような言葉を吐かれ、名前の腸は煮えくり返っていた。


恐らく敵の血鬼術は、血に触れることで相手の記憶や思考を読み、その者が好意を寄せている人物に変身できる類のものなのだろう。
名前の血に触れてから煉獄に変貌したことはもちろん、名前のことを次期柱の腕前と表現したことや、先程女生徒がまじないをした後に恋人の姿が突然現れたと言っていたこともこの推測が正しければ辻褄が合う。


好いた相手が目の前に現れ、その者と同じような言動を取ったとなれば、少女たちはそれを鬼だとは露とも思わず、いとも簡単に囚われて喰われてしまっていたはずだ。
喰らった人の数が多ければ多いほど、鬼は強くなるという。
わざわざ少女たちが好みそうなまじないの噂を作り上げて流し、その甘い罠にかかった多くの人間をその腹に収めてきたのだろう。
下弦の鬼の中でも上位につけるその実力は計り知れない。


そんな相手に複数の人間を守りながら戦うというのは完全に分が悪い。
とにかく背後にいる三人を早急に逃がすべきだと名前が足を踏み出したと同時、目の前に突然鬼が飛び出してきた。
鋭い爪が名前の眼前に伸びる。
瞬時に日輪刀で斬り上げると、鬼の右腕に刃がくい込み、勢いよく吹き出した血が名前の足元に散らばった。
鬼といえども煉獄の容貌をしているため、少女たちの目にはこの光景は刺激的すぎる。
琴子たちと鬼の距離を開けようと、名前は相手の勢いを利用してそのまま鬼の腹を蹴飛すと遠くへ弾き飛ばした。



「琴子様!私の鎹鴉が先導します!できるだけ遠くにお逃げ下さい!」



そう叫びながら上空を旋回していた己の鎹鴉を見上げれば、鴉は名前の声を聞いてすぐに琴子たちの傍へ降下してきた。
恐らくあと少しすれば隠が到着するだろう。
それまで何とか逃げ切ってくれれば、彼らが安全な場所まで連れていってくれるはずだ。
鎹鴉に琴子らを託し、名前は鬼の方へと駆け出した。




「何ともまぁ可愛げのない女子だ。好いた男相手によくもいけしゃあしゃあと刀なぞ振るえるな」




流れるように空を舞い、矢継ぎ早に攻撃を繰り出しながら名前はどんどん鬼を追い詰めていく。
名前の変わらない様子に、頸の付近への斬撃を躱しながら鬼は眉をひそめてぼやいた。


名前にとって目の前の鬼が煉獄の姿形をしていようが鬼であることに変わりない。
一般市民や階級の低い隊士相手だとその精神的な攻撃はかなり有効的であろうが、柱もしくはそれに近しい者であれば話は別だ。
いい意味でも悪い意味でも彼らは皆非道であるため、このような場面に出くわしても造作もなく処理してしまうだろう。
それは名前にも当てはまることで、そのため彼女は躊躇なく煉獄の姿をした鬼に刃を向けていた。

そんな中、名前の脳内に一つの疑問が浮かぶ。
このような幻術系の血鬼術しか持たないものが十二鬼月になりえるのだろうか。
攻撃が単調な上に、こちらの攻撃も容易に当たっている。
ただ単に運良く柱に出くわさずに済んでいたのか、はたまたまだ何かを隠し持っているのか。
とにかく戦局がこちらに有利な間に倒さなければと、名前は深く息を吸い込むと鬼の目の前に飛び出した。





「炎の呼吸、伍ノ型 炎虎!」




名前の赫き炎刀が牙を剥く猛々しい虎のように鬼の左足に噛みつき、そのまま勢いよく斬り落とす。
ぼとりと鬼の左足が地面に落下し、血飛沫が空に舞った。
片足を失って均衡を崩した鬼を視界に入れ、今が好機と名前は鬼の懐に飛び込むとそのまま頸に狙いを定める。
瞬間、鬼と視線が交わう。
名前の姿を見るや否や、鬼はその瞳を細めにやりと禍々しい笑みを浮かべた。




「血鬼術 蠱惑紅血こわくこうけつ




その囁きと共に、名前の全身に電流が走ったかのような衝撃が駆け巡った。
左腕と下半身が鉛のように重く、まるでそこだけ切り取られたような感覚に陥る。
鬼と同じく均衡を崩した名前はそのまま地面へと倒れ込んだ。
すぐに体制を立て直そうとしても身体がまったく言うことを聞かない。
そんな名前の姿を、すぐ横で左足を再生させながら鬼が嘲笑うかのように見下ろしていた。




「どうだ俺の血鬼術の威力は。動かしたくても動かせまい。血を浴びれば浴びるほど貴様は俺に囚われていくのだ」



辛うじて動く首を向け、動かなくなった部位を見れば、そこは鬼を斬った時に付いた返り血が侵食したように赤黒く染まっていた。
恐らく血が付いた部位の自由を奪う血鬼術で、己の血を付けるために鬼は今までわざと斬られていたのだ。
十二鬼月相手に易々と攻撃できた時点でもっと慎重になるべきだったと名前は思わず唇を噛んだ。
煉獄の姿になっている鬼に何も感じていないなどと表面上なだけで、本当は少なからず動揺させられていたのかもしれない。




「・・・貴方の相手なんて右手が動けば充分よ」



とにかく少しでも時間を稼ぐためにここに鬼を留めておくことが先行だと、名前は相手を挑発するように睨みつける。
その言葉を聞くや否や、瞳に憤りの色が滲ませると、鬼は力無く地面に伏していた名前の左腕を躊躇なく踏み潰した。
ぼきぼきと骨が折れる音と同時に、焼けるような鋭い痛みが駆け巡る。




「・・・―っぁ!!!」

「左手が要らぬようだったので始末してやったぞ」

「・・・はぁっ・・・それは、どうも」




悪態を尽きながら、名前は鬼に気づかれないようちらりと視界の端に琴子たちの姿を捉えた。
まだ逃げ切るには距離が十分ではない。
早く、早く、鬼の手が届かないところまで逃げてくれ。
そう心の中で唱えながら目線を上げると、鬼はさも愉快と言わんばかりにまたあの嫌な笑みを浮かべた。




「血から記憶を読ませてもらったが、この顔の男の婚約者とやらは今向こうの方で逃げている女子の一人なのだな。婚約者がいる者に恋焦がれるなど、哀れなものよ」


「・・・本当に、悪趣味な血鬼術ね」

「減らず口を叩けるのもそこまでだ。藤の花の匂いを嗅がされて、あの女子には少々腹が立っているのでな。先にそいつを頂くことに決めた。匂い袋は逃げている時に落としてきたようだし次こそは容易に喰えるだろうよ」

「−っ!」

「なぜ婚約者を救ってくれなかったと、お前はこの男に死んでもなお恨まれるのだ!悲しいのう、悲しいのう!!」




ギャハハハと腹をかかえて低俗な声で笑うと、鬼はそのまま名前に背を向けて琴子たちの方へと走り出す。

このまま目の前で人が喰われていくのをただ呆然と眺めているだけなんて死んでも御免だ。
力を振り絞り這いずってでも鬼の元へ行こうとした時、先程鬼に叩き潰された左腕が血鬼術を受けた時とは違い、痛みが先行しているものの感覚が戻っていることに気づいた。
もしや、と名前は迷う暇なく日輪刀を宙に振り上げる。
己がやらなければ誰がやる。誰が彼女たちを守ることができる。

躊躇することなく、名前はそのまま赫き日輪刀で自身の両脚を勢いよく切り裂いた。
溢れでるように血が吹き出すと、推察通り鋭い痛みと共に両脚の感覚が徐々に戻ってくる。
深く息を吸うと、名前は痺れる足を奮い立たせ、すぐさま鬼の後を追った。

かつてないほどに大量の酸素を肺に入れ、身体の血の巡りを速くする。
絶対に殺させない。絶対に守ってみせる。
鬼の手が琴子に伸びたその瞬間、二人の間に名前は己の身を飛び込ませた。




「苗字様っ!!」




琴子の悲痛な叫び声が闇夜に響き渡った。
ぼとぼとと大量に流れ出た血が地面に鮮やかな模様を描く。
咄嗟に琴子を庇った名前の脇腹を鬼の手が抉り取り、そこから血が止めどなく流れ出てきていた。
そんな名前を前にして、鬼は忌々しいと言わんばかりに怒号を放つ。




「何故そこまでしてこの女を守る?この者が生き残れば、お前の想い人とこの女は結ばれるのだぞ!この場で俺に喰われた方がお前にとっても良いだろう!」

「―っ!私を、馬鹿にするな!!!」




吐き捨てられたその言葉に、名前の怒りが頂点に達し、自身の身体が熱くなるのを感じた。
声を荒らげながら、渾身の力を振り絞ってそのまま鬼を地面へとなぎ倒し、回復する暇を与えぬよう、目にも止まらぬ連技で両足を削ぎ落とす。

鬼に追いつくために血の巡りを速めすぎたためか、力を入れる度に己の腹部と両脚から血が大量に流れ出て来るのが分かる。
骨を折られた左腕も使い物にならない今、技を繰り出すことができるのもあと少しが限界であろう。
そんなことを朧に思いながらも、名前は早くこの場を離れるようにと、震える琴子の背中を押すと片手で日輪刀をかまえ直し、目の前の鬼を見据えた。





「弱き者を守るのが、私たち強く生まれた者の責務だ」




躊躇しながらも走り出した琴子の姿を確認し、紡いだ言葉を噛み締めながら、名前は荒れた息を整えて気を練り上げる。

名前が継子になってすぐ、煉獄が説いてくれた大切な言葉だ。
己の才に奢らず、私利私欲に走らず、弱き者のためにその身を削る覚悟で挑む煉獄の姿を傍で見て、彼のようになりたいと憧れ、辛いことや悲しいことがあっても乗り越えてきた。
煉獄が手を引いて導いてくれたから今の自分がある。


そしていつしかそんな彼に恋をした。

まるで走馬灯のように煉獄との思い出が頭の中を駆け巡る。
あの笑顔が大好きだった。
嬉しそうに名前を呼んでくれる声が大好きだった。
たとえ破れた恋だとしても、煉獄が大切な人を失って悲しむ姿など見たくなかった。
我が身がどうなろうとも、琴子を煉獄の元へ必ず帰したい。
そして何より煉獄の尊厳を守るため、例え紛い物だったとしても彼の姿をした者が弱き者を殺めることなどあってはならないのだ。

そんな様々な感情が、名前を突き動かしていた。





「杏寿郎様の大切なものは必ず私が守りぬく」




そう告げるや否や、使えない左腕を補うため、名前は己の右腕の隊服の裾に噛みつき歯で腕を固定する。
動き回れない身体で確実に鬼を仕留めなければならないと考えた時、この技を使う以外の選択肢が名前にはもうなかった。
実戦では未だに一度も使ったことがない大技。
ふいに炎が灯ったように心の中がじんわりと暖かくなる。
名前の不安を拭いさるような優しい炎。
まるで煉獄が側にいてくれているような、そんな気がした。




『炎の呼吸、玖ノ型 煉獄』



煉獄が生み出した奥義の名を胸の中で唱え、地面を蹴る。
全てを燃やし尽くすかのごとく、名前の赫き日輪刀が轟音と共に鬼の頸を身体もろとも抉り斬った。



鬼の形が跡形もなく消え去ったのを見届けたと同時、名前はその場に崩れ落ちる。
目の中がチカチカと乱反射したように瞬き、息をするのもままならない。
出血が思った以上に酷いようだ。
いくら集中しても身体から出血が止まる様子はなかった。

薄れゆく意識の中で己の名を呼ぶ声が幾つも聞こえてくる。
ぽたぽたと名前の頬に何かが落ちた感覚を感じた。
柔らかい太陽のように安心する匂い。
ああ、こんな時まで彼を夢に見てしまうのかと、名前はそのまま意識を闇に手放した。




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