第二章 07



暗闇の中で声が聞こえる。



「しのぶ様、そのお花は何と言う名前なんですか?」

縷紅草るこうそうよ。ちょうど庭で咲き始めたから名前におすそ分けしようと思って一輪摘んできたの」

「綺麗なお花ですねぇ。何だかお星様みたい」




しのぶの声。そして彼女を慕う蝶屋敷の少女たちの声だ。
その声たちに引きずられるように名前はうっすらと意識を呼び覚ましていく。



「そうね。早く名前が目を覚ましてくれるように、このお星様にお願いしましょうか」



紡がれたその言葉を聞きながら瞼をゆるりと開くと、視界に柔らかい日差しが入り込んできた。
一瞬で目が眩み、名前が思わず息を漏らせば、その音に気がついたしのぶがこちらに振り返る。
今日子としのぶの瞳が交わった瞬間、彼女の頬にぽろりと一粒の涙が伝った。



「わーっ!名前さんが目を覚ましたー!!」

「わ、私!お白湯を持ってきます!」

「私は手ぬぐいと着替えの用意を!」

「はっ!もしかしたらまだ近くにいらっしゃるかもしれません!探してきます!」



しのぶの周りにいたきよ、すみ、なほ、アオイが順々に叫び声を上げると、彼女たちは蜘蛛の子を散らすように部屋を飛び出していった。
喉がカラカラで唾が降りてくるまで声を発することができなかったため、しのぶを安心させたい一心で名前はゆるりと笑顔を浮かべる。
きっと歪な笑顔だったに違いないだろう。
それと同時、しのぶの手が勢いよく伸びてきて名前の額をぺしりと叩いた。




「貴女って人は・・・本当にどれだけ心配させたと思ってるんですか。目を覚ますのが遅いですよ」

「しのぶちゃん・・・ごめん、ね」

「・・・元気な貴女に戻ってくれるまで許しません」

「ははっ、厳しい・・・なぁ」




いつかどこかで聞いたような台詞だ。
名前は目を潤ませたしのぶを見て、申し訳なさそうな顔でまた小さく笑った。
しのぶの様子と身体の間隔から恐らく三日以上は目を覚ましていなかったのだろう。
急いで廊下を走って戻ってきた蝶屋敷の少女たちがしのぶの指示通りに名前の身体を手際よく拭い、髪をといて身なりを整えてくれている中、今日子はぼんやりとそんなことを考える。
一息ついてようやく白湯で喉を潤していれば、片付けをしに姿を消していた三人娘がわらわらと名前の元に再度集まってきた。



「名前さん、臓器が何個も破裂していたから出血がかなり酷くて五日も眠っていたんです」

「とっても危ない状態だったから、皆さんすごくすごーく心配していて色んな方が様子を見にいらっしゃってました!」

「名前さんが鬼を倒したすぐ後に隠の方々が到着されたので、一般市民の方は皆無事だったそうですよ」



尋ねるより先に、小鳥が囀るように次々と己の様態や寝ていた間のことを教えてくれる少女たち。
そんな彼女たちの様子を見かねてか、名前の脇腹の傷を消毒していたしのぶが包帯を結び終えて面を上げた。




「貴女たち、名前も目が覚めたばかりで体力がないのだからお喋りもほどほどにね」

「「「はぁい」」」

「名前も無理は禁物ですからね。基本はずっと横になっていてください。あぁ、でも・・・」



名前が病衣に身を通すのを手伝いながら、何かに気づいたように目線を横に動かすと、しのぶはにこりと綺麗な笑顔を浮かべた。





「貴女のことを一番心配していた人がいらっしゃったので、少しの時間なら身体を起こしていてもいいですよ」



その言葉と同時に廊下を走る大きな足音が響き渡り、部屋の扉が勢いよく開かれた。
太陽を背に、黄金に輝く獅子色の髪。
息を切らして部屋に飛び込んできた煉獄は名前の姿を目に入れるや否や、彼女の元へ近づくとそのまま息付く間もなく名前を抱きしめた。
太陽のように温かな匂い。
名前の肩に顔を埋める煉獄はぴたりと動きを止めて何も言葉を発しない。
ただ名前が生きているのを確かめるかのように、その腕に力を込めた。





「先程まで貴女の様子を見にいらっしゃっていたので、アオイが慌てて呼び戻しに追いかけたんですよ」




後で粥を持ってきますねと、二人の様子を目にして色めきたつ少女たちの背中を押し、部屋を退出して行くしのぶがそう教えてくれた。
黄色い声が去り、部屋は静けさを取り戻す。
しかし煉獄は押し黙ったまま名前から離れる気配を見せなかった。
触れ合った場所から煉獄の体温がやけに生々しく伝わってくる。
そんな状況に、これは一体どういうことなのだと名前はただ目を白黒させるしかなかった。




「・・・ご心配おかけして申し訳ありません。そして先日は無礼な物言いをしてしまい、失礼致しました」



煉獄とは宇髄の屋敷にて決別を覚悟の上で気持ちの丈をぶつけて以来、顔を合わせていなかった。
そのためどんな顔をしてどんな言葉をかければいいのか正解が分からない。
とりあえず先日の非礼を詫びるのが先決かと名前が口を開いたと同時、煉獄は伏せていた面を勢いよく上げた。
ようやく目に入れることができた煉獄の顔。
うっすらと涙が滲む赤き瞳を目の前にして、名前は驚きのあまり思わず口を噤んだ。





「・・・謝らなければならないのは俺の方だ。本当に、名前が無事でよかった」




首を横に振り、涙を拭うように指先で目元をなぞりながら煉獄はそう答えた。
継子を辞めたいと申し出た上に、あんな酷い別れ方をした自分のことを心配してくれていたのかと、強ばっていた名前の心がほんのりと温かさを取り戻す。
ゆるりと名前を抱きしめていた腕を解くと、煉獄はそのまま寝台の横に置いてあった腰掛けに着座する。
そして己の気持ちを落ち着かすかのように深く息を吸うと、そのまま頭を垂れた。




「あの時は己の未熟さ故に、名前に当たってしまい申し訳なかった」

「いえ・・・私がきちんと自分自身で継子の件を杏寿郎様にお話しなかったことがそもそもの原因ですので、お気になさらないで下さい」

「・・・いや、違う。俺が伝えたいのは、その・・・そういう事ではないんだ」




煉獄は何より礼儀を重んじる人間だ。
そんな彼に対してあのような無礼を働いた自分に、煉獄が怒りを感じたことは至極当然なことである。
そう言う意味で名前は彼に返答したが、煉獄は何やら悩ましげな顔をしながら言葉を濁す。
その反応に思わず名前訝しげな表情を浮かべれば、煉獄は意を決したように口火を切った。




「以前、俺が琴子殿との婚約を決めた理由を話したことを覚えているか?」




煉獄の問いに、当時感じた苦々しい気持ちを思い出しながらも名前はただ黙って首を縦に動かした。
一ヶ月ほど前の話だがその時のことは今でも鮮明に記憶している。
煉獄から聞かされた話では、炎柱の継承のために早く所帯を持って子を成すべきだということで伯母の穂高から見合いを進められ、千寿郎の肩の荷を下ろすためにも婚約を決めたと言っていたはずだ。




「俺は今まで誰かに特別な気持ちを抱くということを経験した事がなかった。親族もほとんどが見合いで結婚しているが、皆互いを思い合い、夫婦仲良く過ごして居る者が多い。そのため自分もそのような感情が今はなくとも、共に過ごしていくうちに自然と琴子殿のことを好きになっていけるものなのだろうと思っていた」



そこまで言うと煉獄はふいに胸元の衣嚢から何かを取り出す。
開かれた右手の掌の上で輝く炎のような石。
それは祭で煉獄が今日子に贈り、そして名前が彼にあの日返した耳飾りであった。




「だが、俺には無理だった。婚約を決めた後に自身の気持ちに気づき、それからずっと後悔する日々であった」



煉獄の言葉に己の心臓がどくんと跳ねたのが分かった。
逸る気持ちを抑えるように、名前はただ布団の端を強く握りしめる。




「俺は煉獄家と自身の気持ちを天秤にかけた時、我欲に走ることはできないと己の感情に蓋をした。そして師範として静かに君の幸せを見守ろうと決めた。だが・・・いつの間にか歯止めが効かなくなってしまっていた。この耳飾りを名前に贈った祭の日がいい例だ」



なぜ婚約者がいながら自分に耳飾りを贈ったり手を握ったしたのかと、かつて名前が聞きたかったことが次々と煉獄の口から紡がれていく。
頭の中の情報整理がまったく追いついていない。
名前はただ、目の前の煉獄を見つめることだけで精一杯であった。



「婚約者のことが名前に伝わって耳飾りを返された時、胸が張り裂けそうなほど辛かった。継子を辞めて不死川の元へに行くと聞かされた時、何故俺の元から居なくなるんだと嫉妬に狂いそうになった。そして・・・名前が命を失うやもしれないと聞いて、何故自分の気持ちに素直にならなかったのだと死ぬほど後悔した」




ふいに煉獄の左手が伸びてきて名前の手に触れる。
五日も食事をとっておらず血の巡りが悪いためか、名前の手はまるで氷のように凍てついていた。
それを煉獄の大きな掌が優しく包み込む。
太陽のように暖かな温もり。
その感覚に当てられたのか、己の瞳からじわりと滲み出した涙を堪えようと、名前はただ唇を噛みしめた。



「俺は臆病者だ。煉獄家のためという名目を隠れ蓑にして、君に想いを告げる覚悟がなかった。しかし、もう二度と後悔はしたくない」




そう告げると、奮う心音が名前のものなのか煉獄のものなのか分からないくらい、煉獄は名前の手を強く握りしめた。




「『君の幸せは何か、君の夢は何か。それは他人ではなく、君自身が決めるべきだ』と、俺が名前に言った言葉を覚えているか?」



煉獄が名前を継子に誘った時の言葉だ。
忘れるはずがない。その言葉を聞いてこの人についていこうと決めたのだから。
ぼろぼろと溢れ出した涙を止めることもできず、名前はただ強く頷く。



「俺の幸せは、名前が笑ってくれることだ。そして俺の夢は、炎の呼吸を極めてこの手で鬼を全て葬り去ることだ。必ず己の力で全てを叶えてみせる」



名前の涙を拭うように、煉獄の手が優しく頬に触れた。




「君が望んでくれるなら・・・継子としてはもちろん、一人の女性としてずっと俺と共に歩んで欲しい」




望んでいた言葉たちが、洪水のように名前の中に流れ込んでくる。
ああ、これは夢か幻なのではないだろうか。
それを確かめるかのように、名前は縋るように己の手を頬に添えられた煉獄の手に重ね、震える声で閉ざしていた口を開いた。




「でも・・・っ琴子様との婚約は・・・?」

「それが・・・こちらから頭を下げに行くつもりが、先に彼女の方から婚約破談を申し入れられた。『想い合っている二人の仲を引き裂いて、貴方と結婚するほど無粋な女ではございません』と。俺の言動から、琴子殿は全てお見通しだったらしい。最後には『炎柱の縁談を蹴った女として箔がつきますね』と笑っていた」




思わず苦笑いする煉獄の言葉に、名前は黒髪の美しい少女の顔を思い出す。
琴子の発言からして、件の鬼が煉獄の姿に変貌したことや、名前と鬼の会話を聞いて、彼女は名前の想いに全て気づき煉獄が申し出る前に先手を打ったのだろう。
彼女が煉獄を慕っていた事は一目瞭然であったのに、潔く身を引くとはなんと高潔な女性なのだろうか。

琴子への感謝の念を噛み締めながら、名前は燃え盛る炎のような煉獄の瞳を見つめた。
恋焦がれていた笑顔が、優しい声がすぐそこにある。




「杏寿郎様の継子になるお返事をした時、私はまだ十五で、自分の幸せとは何なのかまだよく分からず、自分の夢についてしかお答えできなかったのです。けれど・・・ようやくそれを見つけました」




四年前に家族を目の前で失ってから、心のどこかで大切な存在を作ることに抑止をかけていた。
あの時のように、失うことが怖くなってきっと自分は臆病になってしまうのではないかと思っていた。
けれど、彼と出会って共に過ごすうちに、大切なものを守ろうとする意志があるからこそ、強くなれるのだということを知った。
随喜の涙を零しながら、名前は己の気持ちを精一杯吐き出した。




「私の幸せは杏寿郎様と共にあることです。この先何があろうとも・・・ずっと杏寿郎様のお傍にいさせてください」




その言葉を聞いて弾かれたように立ち上がると、煉獄は己の胸に名前を抱きよせる。
そしてかつてないほどの柔らかな笑みを浮かべると、名前の存在をしっかりと確かめるように彼女の唇に口付けを落とした。




「愛している、名前」

「私も・・・愛しています、杏寿郎様」










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