後日談 02



炎柱邸まで後少し。
屋敷に近づくに連れてどんどんと強ばっていく名前の表情を見て、煉獄は不思議そうに彼女の顔を覗き込んだ。




「なぜそんなに緊張しているんだ?」

「煉獄家の方々に合わせる顔がないなと思いまして・・・」



婚約者騒動が起きてから、炎柱邸に寄り付いていなかったうえに蝶屋敷での療養期間を挟んだため、名前が屋敷にまともに帰還するのは約二ヶ月ぶりのことになる。
その間、家長の槇寿郎とはもちろん千寿郎とも顔を合わせてはいなかった。

しのぶから許可がおり、ようやく炎柱邸に帰れることとなった今日。
わざわざ迎えに来てくれた煉獄から、己が名前と結ばれたことをすでに槇寿郎たちに報告したと聞き、嬉しいはずの煉獄家の人々との再会が一気に気が引けるものに変わってしまったのだ。



「む?なぜだ?」

「まさかこんなにも早く槇寿郎様たちにご報告されているとは思ってもいなかったので、心の準備ができていないのです。煉獄家の方々からすれば、私は杏寿郎様のご婚約に水をさした張本人ですので・・・」

「そうか・・・それはすまなかった。もう少し早く名前に伝えれば良かったな。しかし父上は何も言わなかったし、千寿郎は喜んでいたぞ!」



あっけらかんと答える煉獄を横目に、その無反応な人の腹の中が分からなくて怖いのだと名前は思わず口を真横に閉じる。

格式高い煉獄家の長男がいくら継子として炎柱邸に長く住まっていた者とはいえ、身よりもなく柱でもないただの女を選んだとは世間的にも聞こえが悪いだろう。
鬼殺隊の中で高名な如月家との縁談が直近で破談となった事実があるからこそ尚更だ。
根も葉もない噂を立てられては煉獄家の尊厳に関わる。
もう少しほとぼりが冷めてから慎重に事を運んで欲しかったと悩ましげな顔をする名前を見て、煉獄は彼女の手を取ると力強く握りしめた。




「名前と共に居たいと決めたのは他ならぬ俺自身だ。誰にも文句は言わせない。だからそんな悲しい顔はしないでくれ」




眉を八の字にしてそう告げる煉獄に、名前はややぁと天を仰いだ。
ずるい、ずる過ぎる。
そんなことを言われてしまえば、煉獄に苦言を呈することなど名前には到底出来なくなる。



「分かりました。でも次からは先にご相談くださいね」

「うむ!」



小さくため息をつきながらも名前がそっと笑みを零せば、安心した煉獄は花が咲いたように晴れやかに笑った。
恋というものは不思議なもので、どうやら好いた相手の笑顔を見ればすぐさま不安や悩みが吹き飛んでしまうものらしい。
名前の手を引いて歩みを進める煉獄の背中を見つめながら、覚悟を決めて名前は炎柱邸の門をくぐった。




「ただいま戻りました!」



玄関で煉獄がそう大声を上げれば、ばたばたと廊下を走る大きな足音が響き渡る。
自室から慌てて飛び出してきたのか、息を切らして現れた千寿郎は名前の姿を見るや否や、途端にくしゃりと顔を歪ませた。



「名前さん、おかえなさい・・・!ご無事で本当に・・・ぐすっ・・・良かったです」



ぽろぽろと零れる涙を必死に拭う千寿郎を見て、名前の胸がずきりと痛む。

昔から姉のように慕ってくれていた千寿郎が、名前が炎柱邸に寄り付かなくなった頃から見るからにしょぼくれていた様子であったということを煉獄から聞いていた。
その後、琴子が頻繁に屋敷を出入りするようになったため少しばかり持ち直したらしいが、その琴子もすぐに彼の前からいなくなってしまったのだ。
千寿郎もまた、名前の身勝手によって振り回してしまった者の一人であり、きっと何度も喪失感を味わせてしまったことだろう。



「色々と申し訳ありませんでした、千寿郎様」



心やましい気持ちから、名前が千寿郎に頭を垂れれば、彼はとんでもないと言わんばかりに首を横に振る。
そしてすぐさま名前を安心させようと笑顔を浮かべた。



「いえ・・・!名前さんがまたこうして屋敷に戻ってきてくれたことがとても嬉しいです」



嘘偽りのない千寿郎の優しい言葉に思わず涙が滲みそうになる。
呼応するように笑みを浮かべて名前が彼に礼を述べれば、千寿郎は「久しぶりに外に出てお疲れでしょう。お茶にしましょう」と嬉しそうに名前の手を取り居間へと連れ立って行ってくれた。
居間へと到着すると、二人の後に続いていた煉獄は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回し出す。




「千寿郎、父上は?」



煉獄の問いに、厨へ行こうとしていた千寿郎ははたと動きを止め、罰の悪そうな表情を浮かべる。



「半刻前に政宗が報せに来てくれたので、二人が間もなく屋敷に帰還されるようですと父上にもお伝えしたのですが、酒を買いに行くと出ていってしまわれて・・・」



あぁやはりと、想像していた展開に名前は思わず唇を噛んだ。
いつも通りといえばそれまでであるが、槇寿郎の行動はまるで煉獄と名前のことを認めていないと言っているような気がしてならない。
流れた重苦しい空気に気がついたのか、それを払拭するように千寿郎は慌てて声を上げた。




「大丈夫ですよ。きっと父上は兄上と名前さんのことをお認めになっていると思います。何せ琴子様との縁談が破談になったと聞き、すぐにでも次の縁談を!と躍起になっていらっしゃった伯母上を一喝して丸め込んだのは他ならぬ父上ですから」

「千寿郎、それは本当か!?」

「ええ、つい三日前のことです。『杏寿郎のやりたいようにやらせろ』と仰っていたのをこの耳で聞きました」



そのようなやりとりがあったとは煉獄も知らなかったようで、彼はその大きな目をくるりと丸めると感嘆の声を漏らす。
と、同時に安心したのか煉獄の腹からぎゅるると大きな音が鳴り響いた。
すでに正午を回っており、昼餉を取らずに蝶屋敷を出発したため煉獄の腹の虫は限界を迎えていたのだろう。



「よもや!こんな時に腹の虫が鳴るとは!」

「もうこんな時間ですものね。このまま昼餉に致しましょう。女中の喜江さんが名前さんが帰ってくるならと、腕によりをかけて食事を用意して帰ってくださったので持って参ります」

「それは楽しみだ!運ぶのを手伝おう!名前は遠慮せず休んでいてくれ」



兄弟仲睦まじく笑い声をあげながら厨へと行く二人を見送りながら、名前は思わず安堵のため息をついた。
千寿郎の言葉通りであれば、いい意味でも悪い意味でも槇寿郎は名前と煉獄のことについて何も言及するつもりはないのだろう。

懸念していたことのひとつが杞憂に終わり、少しばかり肩の荷が降りたと居間から見える庭を眺めれば、ふいにがさりと木の葉が揺れる音がした。
すぐ先の木を見上げれば、蝶屋敷から先に屋敷に帰還していた政宗の姿が見える。




「槇寿郎ガ呼ンデル」



そう一鳴きするや否や、政宗は黒い翼を広げて庭の中央に位置する桜の木がある方角へと飛んで行く。
慌てて目を凝らせば、そこには大木の影に隠れるようにして立つ槇寿郎の姿があった。
酒屋で買ってきたばかりなのであろうか、相変わらず片手には大きな徳利が握られている。
突然の家長の呼び出しに弾かれるように立ち上がると、名前はそのまま庭先に降りて槇寿郎の元へと歩を進めた。




「槇寿郎様。長らくの間、屋敷を不在にした上、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」




開口一番そう告げて頭を下げる名前に槇寿郎は何も言わない。
その代わり、つい先程千寿郎から聞いた言葉は嘘だったのかと疑ってしまうほどの重圧が名前に降り注いでいた。
どれほど時が経っただろう。否、もしかすると一瞬のことだったのかもしれない。
「面を上げろ」との言葉が投げられ名前が恐る恐る槇寿郎の方を見れば、彼はこちらに背中を向けてただ目の前の桜の木を見上げていた。




「あれはなかなか大変だぞ。瑠火に似て、一度決めたことは這いずってでもやり抜こうとする一本槍な男だ。そのため己以外を優先して自分の命を顧みないところがある」




あれ、とは煉獄のことだろう。
彼のあの真っ直ぐな性格は母譲りであるという話を以前本人から聞いたことがある。
そして母からの教えを守り、弱き者を守るためであれば己の命を危険に晒す節があることは名前も十分承知していた。
継子になってからすぐの頃は、煉獄のわき目もふらぬ行動に肝を冷やす事が多かったため、自然と彼の歯止め役を名前が担うようになっていった。
それによって少し落ち着いたようには見えたものの、人間の本質はそう簡単に変わるものでは無い。

同意するように名前が小さく返事をすれば、槇寿郎がふいにこちらに振り返った。
名前を見つめる槇寿郎の瞳。
煉獄と瓜二つのそれは、普段の色を失ったようなものとは違い、柔らかい炎のような煌めきを放っていた。

父にはお前には才能がないと言われ、見限られていると寂しそうに言っていた煉獄の横顔を思い出す。
だが目の前の槇寿郎からはそのような感じは見受けられず、むしろ子を心配する一人の父としての顔が垣間見えた気がした。



「これからお前が共に歩むのであれば、お前を一人にさせまいと、あいつも己の命を大切にするだろう。苗字」

「・・・はい」

「杏寿郎のこと、頼んだぞ」



槇寿郎の言葉が紡がれると同時、二人の間をさわやかな薫風が駆け抜け、槇寿郎の獅子色の髪を揺らした。
青葉が吹き渡る匂いが鼻をかすめる。
返答を聞かないまま、その場を後にする槇寿郎の背中に向かって名前はただ深々と頭を垂れた。




「名前?どこにいる?」



居間の方角から己を探す声が聞こえてくる。
頬を伝う涙を拭いながら、名前は愛する者の元へと歩み出した。





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