音のない世界が、こんなにも愛しく美しいと思った日々は初めてだった──。
太陽が真上に登る頃合いには、客足は少しばかり遠くなる。落ち着いた店内でもくもくと茶葉をティーパックに詰めていれば、ナマエの頭上ににゅっと影がかかった。ふと顔をあげればカウンター越しに覗いていた顔は見慣れた幼なじみのもので、彼─レオンはこちらに中身がよく見えるような高さに木箱を掲げる。
「荷物、二箱届いてる」
ゆっくりと、そして確実に口を動かすレオンの口元を凝視しながら、ナマエは小さく頷く。そしてすっと両手の指先を伸ばすと、小指を下にした右手を左手甲の真ん中に垂直に下ろし、そのままゆっくりと上にあげた。
「出す荷物は一個でいいのか?」
レオンの問いかけに、ナマエは再び頷く。
「了解。あとうちのばぁちゃんが注文してるのがあるって言ってたけど、ついでにもらってこうか?」
今度はナマエは首を左右に動かした。そしてそのまま、カウンターの上に置いてあった羽根ペンと紙に手を伸ばす。さらさらとペンで綴られた文字は、癖がなくとても読みやすい。まるで機械で刷ったような、誰にでも読みやすいような均一の形をしていた。それもそのはずだ。ナマエにとって、文字は唯一無二のコミニケーションツールなのだから。
『他にも近くで配達があるから私が持って行く』と紙を差し出すナマエを見て、不思議そうな顔をしていたレオンは納得したように頷いた。そして彼は小包を一つ脇に抱えると、握りこぶしを作った右手を肩あたりにあげ、そのまま斜めに下ろしながら、下に向けたピースサインを胸元で作る。
『またな』と告げる無音のメッセージに、ナマエは笑顔を浮かべ、去りゆく幼なじみの後ろ姿を見送った。そしてそのまま立ち上がると、地面に置かれた木箱からキャニスターを取り出し、中を覗き込む。溢れんばかりにぎゅうぎゅうに詰め込まれた茶葉をティースプーンですくい、匂いをかげば、ほんのりとベルガモットの香りが鼻をくすぐった。
丁寧な仕事をしているという噂を聞き付け、新しい茶園から仕入れたばかりのアールグレイ。あとで試飲するのが楽しみだ。ひとまず棚にしまおうと、ナマエはカウンターのすぐ後ろにそびえ立つ棚に大きなキャニスターを二つしまいこんだ。
重厚感のあるこのケヤキ素材のキャビネットは、祖父の代から使われているものである。代々店とともに存在していたそれは、ナマエの幼い頃の記憶の中にもきちんと存在していた。
ちらりと棚の上の時計を見れば、時刻は午後二時を回っている。今から配達にいけば、ちょうどお客さんたちにアフタヌーンティーに届けた紅茶を楽しんでもらえる頃合いだろう。ナマエは机の上に置いてあった紙袋を二つショルダーバッグにしまうと、店先のドアに『On delivery (配達中) 』という札を掲げ、そのまま大通りを歩いていった。
午後の柔らかい日差しが空から降り注ぐ大通り。商店が並ぶ石畳の道を歩んでいけば、ナマエの姿に気がついた者が時折こちらに手をあげて挨拶をしてくれた。気前のいい豪快な八百屋の店主、親と共に店先にたつ肉屋の若旦那、未だ現役で薬屋の店守をする齢八十の老婆など、その姿は様々である。
祖父が店を構えた紅茶の卸売屋の店主にナマエが就任したのは、約二年前──。祖父が老衰で亡くなった後、店の経営を行っていた両親が海難事故で命を落としたことから、一人残されたナマエが自ずと店を引き継ぐことになったのだ。
失意のどん底にいながらも、両親の残した店を守るために死に物狂いで働いた一年目。そこからようやく軌道にのった二年目を終え、ちょうど先月三年目に差し掛かったところであった。
祖父や両親の代から続く付き合いの店からの注文だけでなく、新規店からの注文も入るようになり、経営はなんとか安定している。今から配達に行く隣町の店も、ちょうど三ヶ月前から付き合いが始まったばかりの料理店だ。
そんなことを思い返しながら歩いていれば、ふいにナマエのショルダーバッグがぐいっと後ろに引っ張られる。驚いて振り返れば、そこには息を切らしたように肩を上下させる少女の姿があった。その小さな手には、ナマエの淡い水色のハンカチが握られている。ポケットに入れていたものを落としてしまったらしく、わざわざ拾って追いかけてきてくれたのだろう。
ナマエはゆっくりとしゃがみこむと、少女の高さに目線を合わせる。そしてぴんっと指先を伸ばし、小指を下にした右手を左手甲の真ん中に垂直に下ろした後、静かに上へあげた。
指先で伝える『ありがとう』のメッセージ。しかし少女は不思議そうにきょとんと目を丸めるだけ。恐らく、ナマエの口からどうしてお礼の言葉が発せられないのかと思っているのだろう。きっと先程も、声を出して呼びかけながら追いかけてくれていたに違いない。それなのにてんで振り返らないときたものだから、バッグを引っ張るしか術がなかったのだろう。
ナマエは慌ててショルダーバッグから簡易の羽根ペンとメモを取り出すと、サラサラとペンを走らせる。『拾ってくれてありがとう。私は耳が聞こえないので、文字でのお礼になってごめんなさい』と書いた紙を少女に渡せば、彼女のアイスブルーの瞳がゆっくりと文字列をなぞる。そしてそのすぐ後、少女は合点がいったような表情でパッと顔を上げた。
「お姉ちゃん、耳が聞こえなかったのね」
彼女の口元から零れた言葉に、ナマエはこくりと頷く。
「あれ?でも私の言ってることは分かるの?」
さらに目をくるりと丸める彼女に、ナマエは再び紙に文字を綴った。
『少し前まで耳が聞こえてお話もできたから、口の動きでだいたい分かるの』
「そうなんだ・・・大変ね。私に何か手伝えることはある?」
『親切にどうもありがとう。大丈夫よ。見かけない顔だけれど、旅行か何かで来たの?』
「おばあちゃんが隣島に住んでて遊びに来たの」
『そうなんだ。おばあちゃんとの時間を存分に楽しんでね。どうぞ、良い一日を』
「うんっ!お姉さんも!じゃあね」
声と文字で会話するという、チグハグな構図を気にもとめない様子の彼女は、弾けるような笑顔を浮かべると、商店街の大通りを走り抜けていった。少し離れた場所から、祖母と思しき老婆が少女の方に手を上げて合図をする。それが幼き頃の自分の姿に重なって、ナマエが少しノスタルジックな気分に陥っている時であった。
少女が近くを歩いていた大柄の男二人組とぶつかってしまい、小さな身体が勢いよく地面に叩きつけられた。普通ならば、大人が少女を抱き起こし、足元が見えていなかったと謝るのが筋だろう。しかし、相手が悪かった。あれは恐らく、この一体を牛耳っているアグエロ一家の者たちだ。
何か嫌な予感がしてナマエが慌てて走っていけば、同じくして少女に駆け寄った老婆が彼女を抱き起こしていた。
遠くから見ても、男たちの表情から怒り心頭に発しているのがよく分かる。恐らく手に持っていたホットドッグのケチャップが衝撃によって服についてしまい、難癖をつけているのだろう。
平身低頭、頭を下げ続ける祖母の腕の中で、少女は大きな口をあけて涙を流している。男と老婆が何度か言葉を交わした後、突然男の足が地面に座る二人に向かって高く振りかぶる。それを目にした瞬間、ナマエは思わず両手を広げ、少女と老婆を守るようにして間に割って入った。
「なんだぁ!?この女!」
「邪魔すんなボケェ!!」
鬼のような形相で、唾を吐き散らかす男たち。どれだけ罵声を浴びせられようが、音のない世界に住む自分にはダメージが少ない。こういう時ばかりは、耳が聞こえなくて良かったと思ってしまうのは不謹慎だろうか。
突然の割り込みに驚きつつ、ナマエの顔を睨んでいた男の一人が、何かを思い出したかのように眉を釣りあげた。
「兄貴!こいつ角にある紅茶屋の耳の聞こえねェ女だ」
「あんっ?あぁ〜・・・どおりでなんか見た顔だ。しかしおれらの前に割って入るなんていい度胸してんな!あぁ!?」
パクパクと動く男たちの唇から発する内容を読み取ると、ナマエは急いで手に持ったままだったメモにペンを走らせる。
『わざとじゃないんですから、許してあげてください』
「はっ!!ごめんで済んだら警察いらねェだろ?」
「金だよ金!!ケチャップの汚れを落とすための金さえ払えば、おれらは文句ねェんだよ!」
確かに彼らの言う事には一理ある。ぐっと喉を鳴らしながらナマエが老婆に視線を移せば、彼女は青白い顔をして唇を震わせていた。
「・・・っ!孫のしてしまったことは、謝ります。洗濯代も払います。でもっだからって、いくらなんでも百万ベリーだなんて・・・!」
「はぁ!?このシャツ、特注品のシルク製だぞ!?」
「どうにかして用意してこいや!!」
彼らの要求はあまりにも常軌を逸している。けれど、ここでは彼らアグエロ一家がルールだ。場所代の金を払えなかったり、目をつけられてしまった店が彼らの手によって潰されたのを、ナマエは幼い頃から何度も目にしてきた。
気がつけば騒ぎを聞きつけた商店街の仲間たち、そして配達の荷物を抱えた幼なじみのレオンが、張り詰めた空気の中こちらの様子を伺っていることに気がつく。今にも加勢して割って入ってきそうな彼らに、『我慢して』とナマエは視線で訴えた。これ以上誰かを巻き込んで、傍若無人な者達からの被害に合う人を増やしたくないのだ。
「それともなにかぁ?お前が金を用意してくれんのか?」
骨ばった指先が突然こちらに伸びてきて、ナマエの首筋にまとわりつく。
「金がねェってんなら、お前の店を売り払ってもいいな。もしくは・・・」
つぅっと辿るように降りてきた男の手が、がしりとナマエの胸を鷲掴んだ。
「お前がおれの女になるってんなら、許してやるよ!!」
カッと全身に熱がまわり、反射的にその手を振り払う。一歩後ろへ距離を取りながらキッと拒絶の視線を送れば、男はニタニタと白い歯を見せて笑っていた。
「嫌ならしょうがねェ。逆らったらどういう目に合うか、ここいらの連中に再教育してやらねェとな!!」
勢いよく高く振りかざされた拳。ナマエは反射的にぎゅっと目を閉じ、訪れる衝撃に備えた。
──が、いつまでたっても痛みが全く襲ってこない。恐る恐る瞼を開けば、視界一面に漆黒の羽が映りこんだ。
風に乗ってふわふわと揺れる無数の羽。ゆっくりと視線を上げていけば、首がもげそうなほどの高さに、ようやく赤い帽子をかぶった人の頭らしきものが見える。そしてさらにその上には、先程ナマエに殴りかかろうとした男が、太い腕によって天高く持ち上げられていた。
大きな手から逃れようと、男は真っ青な顔でジタバタと足をのたうち回わすも、びくともしない。「なんでドンキホーテファミリーがこの島に」という言葉が、震える唇から紡がれた次の瞬間。その大きな手が、男を地面に強く叩きつけた。
衝撃で白目を向き泡を吹いて意識を失う男。その身体を、仲間の男が引きずって必死に逃げていく。
一体何が起こったのだろう。商店街の人間たちは突然現れたヒーローの姿に興奮しているのか、頬を上気させながら拳を空に突き上げている。土埃が舞う中、砂を払うように両手を擦り合わせた大男がこちらに振り返った。
黄金に輝く髪、深いルビーレッドの瞳、そして道化師を彷彿とさせる風変わりなメイク。ナマエよりも数周りは大きい身体を持つその不思議な男は、口に咥えていた煙草を骨ばった指先に挟むと、はっと白い煙を吹き出した。
こちらを見下ろす男と視線が絡み合った時、ナマエは礼の意味を込めて慌てて頭を下げる。すると数秒後、頭に何か薄っぺらいものを押し当てられた。弾けるように面を上げれば、目の前には白い紙。そこには不格好な文字で『ケガはないか?』という言葉が踊っていた。
呆然と男の顔を見上げながらこくりと頷けば、鋭かった男の目元がほんの一瞬だけ和らぐ。そのまま彼はナマエの後ろにいた少女と老婆の様子も確認すると、大事無いと判断したのか、安堵のため息をつくかのように、また煙草をふかした。
その姿に、その仕草に、何故だかドクドクと心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。貴方は誰なの?どうして助けてくれたの?もしかして私と同じ世界の住人なの?
聞きたいことがたくさんあるのに、ペンと紙だけじゃとても言葉が追いつかない。ナマエが思わず男の方に近寄ろうとした瞬間、ふいに横から現れた小さな影たちがその行く手を阻んだ。
「もうっどこ行ってたの!若様が怒ってるよ!!」
頬をふくらませて男を見上げる、頭の大きなリボンがトレードマークの少女。そして目の下に深い隈をこさえた、黒の斑模様の白い帽子をかぶった少年。突然の子供たちの出現にナマエが目を丸めていれば、男は紙に何かを書き込むとそれを少女に突き出した。
紙をしばらく見つめた後、不思議そうに首を傾げる少女とは裏腹に、一切動じた様子のない少年は、けしかけるように少女の肩を小突いた。そのまま男は後ろに少女と少年を引き連れて、何事も無かったかのように去っていく。
それを皮切りに、慌てたように商店街の人々がこちらに駆け寄ってきた。真っ先に己の元にやってきてくれたレオンの手を握りながら、ナマエは消えゆく男の後ろ姿をしっかりと胸に刻んだ。
ネリネの約束 vol.01
太陽が真上に登る頃合いには、客足は少しばかり遠くなる。落ち着いた店内でもくもくと茶葉をティーパックに詰めていれば、ナマエの頭上ににゅっと影がかかった。ふと顔をあげればカウンター越しに覗いていた顔は見慣れた幼なじみのもので、彼─レオンはこちらに中身がよく見えるような高さに木箱を掲げる。
「荷物、二箱届いてる」
ゆっくりと、そして確実に口を動かすレオンの口元を凝視しながら、ナマエは小さく頷く。そしてすっと両手の指先を伸ばすと、小指を下にした右手を左手甲の真ん中に垂直に下ろし、そのままゆっくりと上にあげた。
「出す荷物は一個でいいのか?」
レオンの問いかけに、ナマエは再び頷く。
「了解。あとうちのばぁちゃんが注文してるのがあるって言ってたけど、ついでにもらってこうか?」
今度はナマエは首を左右に動かした。そしてそのまま、カウンターの上に置いてあった羽根ペンと紙に手を伸ばす。さらさらとペンで綴られた文字は、癖がなくとても読みやすい。まるで機械で刷ったような、誰にでも読みやすいような均一の形をしていた。それもそのはずだ。ナマエにとって、文字は唯一無二のコミニケーションツールなのだから。
『他にも近くで配達があるから私が持って行く』と紙を差し出すナマエを見て、不思議そうな顔をしていたレオンは納得したように頷いた。そして彼は小包を一つ脇に抱えると、握りこぶしを作った右手を肩あたりにあげ、そのまま斜めに下ろしながら、下に向けたピースサインを胸元で作る。
『またな』と告げる無音のメッセージに、ナマエは笑顔を浮かべ、去りゆく幼なじみの後ろ姿を見送った。そしてそのまま立ち上がると、地面に置かれた木箱からキャニスターを取り出し、中を覗き込む。溢れんばかりにぎゅうぎゅうに詰め込まれた茶葉をティースプーンですくい、匂いをかげば、ほんのりとベルガモットの香りが鼻をくすぐった。
丁寧な仕事をしているという噂を聞き付け、新しい茶園から仕入れたばかりのアールグレイ。あとで試飲するのが楽しみだ。ひとまず棚にしまおうと、ナマエはカウンターのすぐ後ろにそびえ立つ棚に大きなキャニスターを二つしまいこんだ。
重厚感のあるこのケヤキ素材のキャビネットは、祖父の代から使われているものである。代々店とともに存在していたそれは、ナマエの幼い頃の記憶の中にもきちんと存在していた。
ちらりと棚の上の時計を見れば、時刻は午後二時を回っている。今から配達にいけば、ちょうどお客さんたちにアフタヌーンティーに届けた紅茶を楽しんでもらえる頃合いだろう。ナマエは机の上に置いてあった紙袋を二つショルダーバッグにしまうと、店先のドアに『On delivery (配達中) 』という札を掲げ、そのまま大通りを歩いていった。
午後の柔らかい日差しが空から降り注ぐ大通り。商店が並ぶ石畳の道を歩んでいけば、ナマエの姿に気がついた者が時折こちらに手をあげて挨拶をしてくれた。気前のいい豪快な八百屋の店主、親と共に店先にたつ肉屋の若旦那、未だ現役で薬屋の店守をする齢八十の老婆など、その姿は様々である。
祖父が店を構えた紅茶の卸売屋の店主にナマエが就任したのは、約二年前──。祖父が老衰で亡くなった後、店の経営を行っていた両親が海難事故で命を落としたことから、一人残されたナマエが自ずと店を引き継ぐことになったのだ。
失意のどん底にいながらも、両親の残した店を守るために死に物狂いで働いた一年目。そこからようやく軌道にのった二年目を終え、ちょうど先月三年目に差し掛かったところであった。
祖父や両親の代から続く付き合いの店からの注文だけでなく、新規店からの注文も入るようになり、経営はなんとか安定している。今から配達に行く隣町の店も、ちょうど三ヶ月前から付き合いが始まったばかりの料理店だ。
そんなことを思い返しながら歩いていれば、ふいにナマエのショルダーバッグがぐいっと後ろに引っ張られる。驚いて振り返れば、そこには息を切らしたように肩を上下させる少女の姿があった。その小さな手には、ナマエの淡い水色のハンカチが握られている。ポケットに入れていたものを落としてしまったらしく、わざわざ拾って追いかけてきてくれたのだろう。
ナマエはゆっくりとしゃがみこむと、少女の高さに目線を合わせる。そしてぴんっと指先を伸ばし、小指を下にした右手を左手甲の真ん中に垂直に下ろした後、静かに上へあげた。
指先で伝える『ありがとう』のメッセージ。しかし少女は不思議そうにきょとんと目を丸めるだけ。恐らく、ナマエの口からどうしてお礼の言葉が発せられないのかと思っているのだろう。きっと先程も、声を出して呼びかけながら追いかけてくれていたに違いない。それなのにてんで振り返らないときたものだから、バッグを引っ張るしか術がなかったのだろう。
ナマエは慌ててショルダーバッグから簡易の羽根ペンとメモを取り出すと、サラサラとペンを走らせる。『拾ってくれてありがとう。私は耳が聞こえないので、文字でのお礼になってごめんなさい』と書いた紙を少女に渡せば、彼女のアイスブルーの瞳がゆっくりと文字列をなぞる。そしてそのすぐ後、少女は合点がいったような表情でパッと顔を上げた。
「お姉ちゃん、耳が聞こえなかったのね」
彼女の口元から零れた言葉に、ナマエはこくりと頷く。
「あれ?でも私の言ってることは分かるの?」
さらに目をくるりと丸める彼女に、ナマエは再び紙に文字を綴った。
『少し前まで耳が聞こえてお話もできたから、口の動きでだいたい分かるの』
「そうなんだ・・・大変ね。私に何か手伝えることはある?」
『親切にどうもありがとう。大丈夫よ。見かけない顔だけれど、旅行か何かで来たの?』
「おばあちゃんが隣島に住んでて遊びに来たの」
『そうなんだ。おばあちゃんとの時間を存分に楽しんでね。どうぞ、良い一日を』
「うんっ!お姉さんも!じゃあね」
声と文字で会話するという、チグハグな構図を気にもとめない様子の彼女は、弾けるような笑顔を浮かべると、商店街の大通りを走り抜けていった。少し離れた場所から、祖母と思しき老婆が少女の方に手を上げて合図をする。それが幼き頃の自分の姿に重なって、ナマエが少しノスタルジックな気分に陥っている時であった。
少女が近くを歩いていた大柄の男二人組とぶつかってしまい、小さな身体が勢いよく地面に叩きつけられた。普通ならば、大人が少女を抱き起こし、足元が見えていなかったと謝るのが筋だろう。しかし、相手が悪かった。あれは恐らく、この一体を牛耳っているアグエロ一家の者たちだ。
何か嫌な予感がしてナマエが慌てて走っていけば、同じくして少女に駆け寄った老婆が彼女を抱き起こしていた。
遠くから見ても、男たちの表情から怒り心頭に発しているのがよく分かる。恐らく手に持っていたホットドッグのケチャップが衝撃によって服についてしまい、難癖をつけているのだろう。
平身低頭、頭を下げ続ける祖母の腕の中で、少女は大きな口をあけて涙を流している。男と老婆が何度か言葉を交わした後、突然男の足が地面に座る二人に向かって高く振りかぶる。それを目にした瞬間、ナマエは思わず両手を広げ、少女と老婆を守るようにして間に割って入った。
「なんだぁ!?この女!」
「邪魔すんなボケェ!!」
鬼のような形相で、唾を吐き散らかす男たち。どれだけ罵声を浴びせられようが、音のない世界に住む自分にはダメージが少ない。こういう時ばかりは、耳が聞こえなくて良かったと思ってしまうのは不謹慎だろうか。
突然の割り込みに驚きつつ、ナマエの顔を睨んでいた男の一人が、何かを思い出したかのように眉を釣りあげた。
「兄貴!こいつ角にある紅茶屋の耳の聞こえねェ女だ」
「あんっ?あぁ〜・・・どおりでなんか見た顔だ。しかしおれらの前に割って入るなんていい度胸してんな!あぁ!?」
パクパクと動く男たちの唇から発する内容を読み取ると、ナマエは急いで手に持ったままだったメモにペンを走らせる。
『わざとじゃないんですから、許してあげてください』
「はっ!!ごめんで済んだら警察いらねェだろ?」
「金だよ金!!ケチャップの汚れを落とすための金さえ払えば、おれらは文句ねェんだよ!」
確かに彼らの言う事には一理ある。ぐっと喉を鳴らしながらナマエが老婆に視線を移せば、彼女は青白い顔をして唇を震わせていた。
「・・・っ!孫のしてしまったことは、謝ります。洗濯代も払います。でもっだからって、いくらなんでも百万ベリーだなんて・・・!」
「はぁ!?このシャツ、特注品のシルク製だぞ!?」
「どうにかして用意してこいや!!」
彼らの要求はあまりにも常軌を逸している。けれど、ここでは彼らアグエロ一家がルールだ。場所代の金を払えなかったり、目をつけられてしまった店が彼らの手によって潰されたのを、ナマエは幼い頃から何度も目にしてきた。
気がつけば騒ぎを聞きつけた商店街の仲間たち、そして配達の荷物を抱えた幼なじみのレオンが、張り詰めた空気の中こちらの様子を伺っていることに気がつく。今にも加勢して割って入ってきそうな彼らに、『我慢して』とナマエは視線で訴えた。これ以上誰かを巻き込んで、傍若無人な者達からの被害に合う人を増やしたくないのだ。
「それともなにかぁ?お前が金を用意してくれんのか?」
骨ばった指先が突然こちらに伸びてきて、ナマエの首筋にまとわりつく。
「金がねェってんなら、お前の店を売り払ってもいいな。もしくは・・・」
つぅっと辿るように降りてきた男の手が、がしりとナマエの胸を鷲掴んだ。
「お前がおれの女になるってんなら、許してやるよ!!」
カッと全身に熱がまわり、反射的にその手を振り払う。一歩後ろへ距離を取りながらキッと拒絶の視線を送れば、男はニタニタと白い歯を見せて笑っていた。
「嫌ならしょうがねェ。逆らったらどういう目に合うか、ここいらの連中に再教育してやらねェとな!!」
勢いよく高く振りかざされた拳。ナマエは反射的にぎゅっと目を閉じ、訪れる衝撃に備えた。
──が、いつまでたっても痛みが全く襲ってこない。恐る恐る瞼を開けば、視界一面に漆黒の羽が映りこんだ。
風に乗ってふわふわと揺れる無数の羽。ゆっくりと視線を上げていけば、首がもげそうなほどの高さに、ようやく赤い帽子をかぶった人の頭らしきものが見える。そしてさらにその上には、先程ナマエに殴りかかろうとした男が、太い腕によって天高く持ち上げられていた。
大きな手から逃れようと、男は真っ青な顔でジタバタと足をのたうち回わすも、びくともしない。「なんでドンキホーテファミリーがこの島に」という言葉が、震える唇から紡がれた次の瞬間。その大きな手が、男を地面に強く叩きつけた。
衝撃で白目を向き泡を吹いて意識を失う男。その身体を、仲間の男が引きずって必死に逃げていく。
一体何が起こったのだろう。商店街の人間たちは突然現れたヒーローの姿に興奮しているのか、頬を上気させながら拳を空に突き上げている。土埃が舞う中、砂を払うように両手を擦り合わせた大男がこちらに振り返った。
黄金に輝く髪、深いルビーレッドの瞳、そして道化師を彷彿とさせる風変わりなメイク。ナマエよりも数周りは大きい身体を持つその不思議な男は、口に咥えていた煙草を骨ばった指先に挟むと、はっと白い煙を吹き出した。
こちらを見下ろす男と視線が絡み合った時、ナマエは礼の意味を込めて慌てて頭を下げる。すると数秒後、頭に何か薄っぺらいものを押し当てられた。弾けるように面を上げれば、目の前には白い紙。そこには不格好な文字で『ケガはないか?』という言葉が踊っていた。
呆然と男の顔を見上げながらこくりと頷けば、鋭かった男の目元がほんの一瞬だけ和らぐ。そのまま彼はナマエの後ろにいた少女と老婆の様子も確認すると、大事無いと判断したのか、安堵のため息をつくかのように、また煙草をふかした。
その姿に、その仕草に、何故だかドクドクと心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。貴方は誰なの?どうして助けてくれたの?もしかして私と同じ世界の住人なの?
聞きたいことがたくさんあるのに、ペンと紙だけじゃとても言葉が追いつかない。ナマエが思わず男の方に近寄ろうとした瞬間、ふいに横から現れた小さな影たちがその行く手を阻んだ。
「もうっどこ行ってたの!若様が怒ってるよ!!」
頬をふくらませて男を見上げる、頭の大きなリボンがトレードマークの少女。そして目の下に深い隈をこさえた、黒の斑模様の白い帽子をかぶった少年。突然の子供たちの出現にナマエが目を丸めていれば、男は紙に何かを書き込むとそれを少女に突き出した。
紙をしばらく見つめた後、不思議そうに首を傾げる少女とは裏腹に、一切動じた様子のない少年は、けしかけるように少女の肩を小突いた。そのまま男は後ろに少女と少年を引き連れて、何事も無かったかのように去っていく。
それを皮切りに、慌てたように商店街の人々がこちらに駆け寄ってきた。真っ先に己の元にやってきてくれたレオンの手を握りながら、ナマエは消えゆく男の後ろ姿をしっかりと胸に刻んだ。