「今日はディンブラのロイヤルミルクティーをくれ」
今日も今日とて、白い帽子が店に現れる。
ネリネの約束 vol.02
時間は決まって開店後の午前十時頃。ナマエの店に一人の客が現れる。黒いぶち柄の白い帽子に、目に深い隈をこさえた少年──ローは、今日も大きな医学書を片手にやってきた。
彼は店に入ると、勝手知ったるようにカウンターに置かれたメモに『ディンブラ ロイヤルミルクティー』と走り書く。そして五百ベリーをカルトンに置くと、そのまま店内の隅にあるL字型のソファーに腰を下ろした。
ナマエの店には茶葉の販売以外にも、少しばかり紅茶飲料の販売も行っている。いわゆるティースタンドだ。おやつ時や仕事の休憩合間に飲む用としてテイクアウトする客がほとんどではあるが、たまに飲んで帰りたいという客もいるため、店内には小さなイートインスペースも設けていた。
ナマエが手話で礼を告げるも、彼の目はすでに分厚い医学書に釘付けだ。そんなローの邪魔にならないよう、ナマエはコインをしまうと静かにカウンター裏のキッチンへと向かった。
ホーローの赤い小鍋に水を汲み、温度計を差し込んで湯を沸かす。茶葉やミルクを用意しながらふと横に目をやると、作業台の上の小さなブリキ缶が目に入った。昨日常連のスイーツ店に配達に行った時、店の主人がプレゼントしてくれた新作のクッキーだ。
中を開けるとプレーンとチョコレート味のクッキーがぎゅうぎゅうに詰められており、香ばしい匂いが鼻先をかすめる。ナマエは小皿にそれを一枚ずつ載せると、カウンターのメモを取り、羽根ペンを走らせた。
そしてミルクティーを淹れ終わると、ローの元へ向かい、机の隅に注文の品を置く。本に注がれていた視線がカップ横のクッキーの皿に向けられた後、彼はぴたりと動きを止め、添えられていたメモを掴んだ。
「・・・ありがとう」
『良かったら勉強のお供にどうぞ』というナマエからのメッセージに、ローは照れたように視線を横にずらしながらも、こちらに口が見えるように礼を述べてくれた。ナマエはにこりと笑顔を浮かべると、右手の小指をたて、指先を己の顎に軽く二回当てる。
パクパクと口を動かしながら『どういたしまして』とメッセージを送れば、きちんと通じたのか、彼は少し安心したような表情を浮かべるとそのまま視線を本に戻した。
──ローがこうしてナマエの店に顔を覗かせるようになったのは、今から一週間ほど前。ちょうど、あの事件が起きた次の日からである。
騒動の翌日、心配したレオンが今日は一緒に店にいると声をかけてくれたが、ナマエは首を横に振った。
彼にも仕事がある。それに昨日の一件でナマエがアグエロ一家に目をつけられたことは確実で、万が一のことがあるかもしれない。大切な幼なじみを巻き込むわけにはいかなかった。
意地でも店にいようとするレオンを、『午前中には店を閉めるから』と何とか追い出し、箒を片手にナマエは店の中の掃き掃除を行う。祖父が創ったこの店を、もしかしたら自分が潰してしまうかもしれないという不安が胸を襲ってくる。それほどあの一家はこの島では厄介な存在だ。
しかしながら、そのアグエロ一家の者たちを簡単にひねり潰し、恐怖で震え上がらしたあの大男は一体何者だったのだろうか。『ドンキホーテファミリー』と呼ばれていた事から、裏稼業の人間の可能性は大いにある。けれども、助けてくれたあの背中はとても頼もしく、彼の瞳の奥にほんのりと優しさの色が見えた気がしたのだ。
ぼんやりと昨日の事を思い返していれば、ふいにナマエの足元に誰かの影がかかる。慌てて視線を上げれば、特徴的な帽子をかぶる目つきの悪い少年の姿が目の前に現れた。確か、昨日助けてくれた大男と共にいた子どもだ。気が付かないうちに、いつの間にか店に入ってきていたらしい。
なぜ彼がここにとの疑問が頭を過ぎりながらも、ナマエは反射的に『いらっしゃいませ』と音を出さずに唇を動かして頭を下げる。そんなナマエの様子に少年は少し目を見開いた。
「入る前に何度か声かけたんだけど・・・耳、やっぱり聞こえねェんだ」
アグエロ一家とのやりとりを見ていて、ある程度勘づいてはいたのだろう。少年の問いかけにナマエは首を縦に振った。そして昨日助けた少女に説明した時と同じように、ナマエはカウンターのテーブルのメモに『耳は聞こえないが、唇の動きで相手の言葉はある程度読み取れる』との旨の説明書きをして少年に手渡した。
子どもらしからぬ鋭い灰色の瞳が、ゆっくりとメモ上の文字をなぞっていく。ナマエの説明を理解したのか、はたまたあまり興味が無いのか、彼はそれ以上の質問をして来ることはなく、「ここって店の中で飲み物の提供はしてんのか?」と尋ねてきた。
慌ててナマエが頷くと、少年はちらりと視線を店内に向ける。隅にある小さなテーブルとL字型のソファーを目にすると、彼は空いている左手でそちらを指さした。
「飲み物の注文するから、あそこでしばらく勉強してもいいか?」
イートインをする客は一日に数人はいるが、たいていの客はカウンター越しにナマエとコミュニケーションを少し取って、さくっと飲んで帰ってしまう。そのため席を占領することになっても特に問題はない。『もちろん』と頷きかけて、ナマエははたと動きを止めた。
もしアグエロ一家の者たちが店に報復に来た場合、少年を巻き込んでしまうかもしれない。昨日の今日のことだ。彼があの大男と共にいたことは覚えられてしまっているだろうから余計に危険だろう。
そんなナマエの考えを瞬時に悟ったのか、少年が「昨日の奴らのことだろ?」と聞いてくる。ナマエが気まずそうに目線を泳がせれば、彼は飄々とした表情で「それなら大丈夫だ」と言い放った。
「そのためにおれがここに来てんだから」
どういう意味だ、と尋ねるために再びメモを取ろうとした瞬間、突然勢いよく店の扉が開いた。そして姿を現した男たちの姿に、ナマエはひゅっと息を飲む。
「よぉ姉ちゃん。昨日ぶりだなぁ」
ニタリとした気味の悪い笑顔。昨日対峙したアグエロ一家の男だ。大男に地面に叩きつけられた時に怪我をしたのか、目の上は青く腫れ上がり、頬には大きなガーゼが貼られている。男の後ろには人相の悪い男たちが二名付いてきており、ナマエを吟味するように上から下まで舐めるような視線を送ってきていた。
瞬時に少年を背に隠すように立ちはだかると、ナマエは箒をかまえる。恐れていたことが、今まさに起ころうとしていた。
「おいおい。そんな身構えんなって。ちょーっと店に遊びにきただけじゃねェか」
男はそう言うや否や、ナマエの方に手を伸ばしてくる。距離を取るため箒を前に突き出そうとした瞬間、ふいに後ろにいたはずの少年がナマエの前に姿を現し、男の手を強く弾き飛ばした。
鬼のような形相になったのも束の間、少年が何か言葉を発したのか、男の激高していた顔色は一気に青ざめていく。見るからに動揺したような表情を浮かべると、男は突然手をすり合わせながら取ってつけたような笑顔で、少年にへこへこと頭を下げた。
そして「もうこの店には立ち入りません」「若様によろしくお伝えください」と、元来子どもに向けるはずのない言葉を告げると、蜘蛛の子を散らすようにそそくさと店を飛び出して行ったのだった。
「もう大丈夫だ。注文、アイスのストレートティーで頼む。茶葉はおまかせで」
呆気にとられて固まるナマエをよそに、振り返るや否や、少年はあっけらかんとした表情でこちらを見上げてきた。
問いたいことはたくさんある。が、当の本人が全く意にも介していない様子でソファーに腰を下ろし、そのまま本を読み始めてしまったので、ナマエも大人しく箒を片付け紅茶の準備に取り掛かった。
十分後、できあがった注文の品を少年に届ければ「ありがとう」とコインを突き出される。ふるふると首を横に振れば、訝しげな表情を彼が浮かべたため、ナマエは急いでメモにお礼を記した。
『助けてくれたからお代はいらない。ありがとう』
「・・・おれのおかげじゃねェんだけどな」
また謎が増えた。含みのある少年の言葉にナマエが首を傾けたものの、彼の視線はすぐに分厚い本に戻ってしまう。勉強をすると言っていたため、邪魔をしない方がいいだろう。
ナマエは静かにカウンターに戻ると、少年を時々視界に入れながらも、午後に配達予定の品のパッキングを始めた。
午前中は、店には客が誰一人訪れなかった。昨日のこともあって、皆少しばかり警戒しているのかもしれない。
年端もいかない少年が、あのアグエロ一家のならず者たちをいとも簡単に追い払ったと聞けば、きっと皆こぼれそうなほど目を見開いて驚くだろう。どのような言葉で彼らを追い払ってくれたのか、帰り際に尋ねてみようとナマエが考えていた矢先のことであった。
時計の針がちょうど午後をさした頃、ふいに少年が驚いたようにびくりと肩を揺らした。何かの音にでも反応したのだろうか。少年の視線は、彼の背後にある小さな窓に向けられていた。
高さはちょうど少年の頭くらい。いつもはそこから街の人通りが見えるはずなのに、なぜだか今は窓一面が黒色で覆い尽くされていた。
ガラス越しに見えたふわふわと揺れる無数の羽根。それは昨日、心奪われたものと全く同じもので──。気がつけば、本を閉じ、「ごちそうさま」と礼儀正しく告げて店を出て行った少年の後を、ナマエは慌てて追いかけていた。
店を飛び出し左右に視線を動かせば、港へ続く左の道の方に、先程の少年とそして目当ての恩人の姿があった。走ればまだ間に合う。そう思うや否や、ナマエは全速力で石畳の上を駆け抜けていた。
追いつくまであと少しというところで、気配を察知したのか、ふいに大男と少年がこちらに振り返る。はぁはぁと息を切らしながら二人の前で足を止めると、ナマエは店を出る前に掴んで持ってきていたメモに羽根ペンを走らせた。
『お礼が言いたくて』
紙を男の前へ突き出せば、驚いたように彼の目がくるりと丸まった。紅い唇に差し込まれた煙草からは、ゆらゆらと白い煙が空に昇っていく。
ありふれたそんな情景でさえ、世界が変わったようにほんのりと色づいて見えてしまう。自分は一体どうかしてしまったのだろうか。
はやる気持ちを抑えながらも、ナマエは続けて『昨日は助けてくださって本当にありがとうございました』とお礼の言葉をしたためる。彼は目を細めてそれを読むと、懐から紙を取り出し、ナマエのように文字を綴った。
──ああ、やはり彼は自分と同じなのだ。全身に何かが駆け巡る感覚を、胸に芽生えた感情を、ナマエはひっそりと噛み締めた。
『あの後あいつらに何もされなかったか?』
『はい。今日は貴方の連れの少年が危ないところを助けてくれました』
はたから見れば、大人が二人、無言でメモの往来をしている姿は何ともおかしな光景だろう。けれど、普段なら相手の手を煩わせてしまっているのではと気後れしている筆談でのやりとりが、今は気兼ねなく出来ている。そんな些細なことがナマエはただ純粋に嬉しかった。
『何も無くてよかった。あと少ししたらもう心配事は起きないと思う』
男からの返事を見て、ナマエの心の中で引っかかっていた疑問がじわじわと解けていく。
恐らく、昨日のアグエロ一家の報復を懸念して、彼が事前に少年を店に遣わせてくれていたのだ。自分といた少年がナマエの店をうろついていると分かれば、昨日の出来事もあって無闇に手を出せないと踏んだのだろう。店にいた時の少年の含みのある言い方も、これで全て合点がいく。
感謝してもしきれない。そして何より、この縁を手放したくないという気持ちがナマエの中で芽生えていた。
まだ彼が、どこの誰で何者かなんて分からない。けれど、ルビーレッドの奥深くに見えた優しい色に、もっと触れてみたいと思ってしまったのだ。
それじゃあと踵を返した男を引き止めようと、ナマエは思わず彼のコートの裾をぎゅっと掴み取る。ふいに加わった重みに男は再び振り返ると、黒い羽根ごしに、不思議そうな顔でナマエを見下ろしていた。
『私にできることがあるなら、お礼をさせて欲しいんです』
ナマエからの持ちかけに、男は動きをぴたりと止め、少し困ったように眉をしかめた。もしかして先を急ぐ旅でもしているのだろうか。しかしそんな事は杞憂だったようで、男は横に佇む少年の方に視線をやると、閃いたと言わんばかりの表情を浮かべ、すぐさま紙に文字を書いた。
『しばらくこの島に滞在予定で、島にいる間、今日みたいに店でローに勉強させてやって欲しい』
『生憎大所帯で、こいつが集中して勉強できる場所がなくて困ってたんだ』
『もし難しい時は断ってくれて大丈夫だから』
渡された三枚のメモを握りしめたナマエは、すぐさま目を輝かせると何度も大きく頷いた。そんな事でお礼になるならお易い御用だ。
横で事の成り行きを見守っていた少年は、一度は「何を勝手に!」と目くじらをたてたものの、ナマエの嬉しそうな顔にあてられたのか、最後には恥ずかしそうに「助かる」と口を尖らせた。
『都合がいい時間帯は?』
『午後は配達でバタバタすることが多いので午前中なら』
『わかった。明日からしばらく頼む』
『私も、一つだけ質問をいいですか?』
ナマエの問いかけに、男はなんだと言わんばかりに首を捻る。ほんのりと頬を染めながら、ナマエは『貴方の名前を教えてください』と書いた紙を差し出した。ローというのが少年の名前だと言うことは分かった。けれど、目の前の男の名を、ナマエはまだ知らない。
文字を目にした男は、ほんの一瞬視線を泳がせ、小さく息を飲む。普通の人間ならば、恐らく見過ごしていた些細なものだっただろう。けれど、耳が聞こえない分、表情で感情を読み取る力に秀でているナマエはすぐに彼の異変に気がついた。
けれど男はそれ以降は動揺を一切見せることなく、静かにペンを走らせる。
『コラソン』
心臓を、そして愛情を意味する言葉。ナマエはその名を大切に心の中で唱えた。
──そんな一週間前の記憶をたどりながら商品を詰め、時おり来る客の対応をしていれば、気がつけば時計の針は全て真上に向いていた。
時刻を告げる仕掛け時計のように、ふいに店の扉がゆっくりと開かれる。ナマエが気配を察知して視線を入口に向けた時には、赤色の帽子の人物が窮屈そうにドアをくぐり抜けようとしているところであった。
あ、危ない。ナマエがそう思った時にはすでに時遅し。大きな身体を折り曲げて上手に扉をくぐったものの、コラソンは再び身体を伸ばす際に頭をおもいっきり扉の上枠に打ち付けていた。衝撃で顔を歪めた彼は、痛みに堪えるようにして地面に膝をつく。慌ててナマエが駆け寄れば、彼は少し涙目になって頭を撫でていた。
『大丈夫ですか?』と頭を指さすナマエに対し、コラソンは『壊れてないか?』と言わんばかりに頭上を指さした。釣られて先を見ても特に問題はない。気にしないでとの意をこめて微笑みを返せば、彼も安心したように唇の端をあげた。
「またドジしてる」
呆れたような表情で二人の前に立つローはそう告げながらも、コラソンを起こすために手を差し出した。
座っていればちょうど同じ高さだった目線が、立ち上がってしまえば随分と遠いものになってしまう。少しばかり残念な気持ちになりながらも、会えて良かったという気持ちがもくもくとナマエの心の中に溢れていた。
正午にこうしてローを迎えに来るのは、毎度コラソンなわけではない。以前コラソンと一緒にいた大きなリボンをつけた少女の時もあれば、ニット帽をかぶったまだあどけなさの残る大柄な少年の時もある。彼が店に現れたのは、今日を含めてまだ三回目なのだ。
「ごちそうさま。また明日よろしく」
本を片手に去っていくローの後ろに、コラソンが続いていく。小さく縮こまって扉をくぐれば、今度は頭をぶつけずに済んだようだった。
去り際にナマエの方へちらりと振り返ったルビーレッドの瞳。静かな笑みと共に『またな』と紅い唇からゆっくりと告げられた無音のメッセージは、ナマエの心の中にじんわりと染み渡った。