「あらやだ。やっぱりここにいた」


 突然ドアが開く音がして、ナマエはハッとそちらの方へと顔を向ける。そこには肌触りの良さそうなエメラルドカラーのシフォンワンピースに身を包み、バスケットを片手に持った私服姿のレルムの姿があった。


「・・・どうしてレルムがここに?」
「それはこっちの台詞。お出かけのついでにお土産を渡しにいこうと貴方の屋敷に寄ったら、執事から『残ってる仕事があるからと朝から出かけていった』って聞いてね。まさかと思って研究室に来てみたらこの状況よ」


 そのまま部屋の中に入ってくると、レルムはナマエの手元の方に視線を向ける。木製のテーブルの上に散らばったレポートの山に薬草と調合器具、そしてインクで汚れたナマエの指先を見て彼女は呆れたように肩をすくめた。


「ねぇ、今日は何曜日?」
「・・・日曜日」
「そう、きちんと休息を取らなきゃいけない日よ。休みの日にわざわざ研究室に来てやらないといけないほど仕事が溜まってたの?」
「・・・ううん、違うの。せっかく新薬開発の班に入れてもらえたから、どうしても早く薬の精製を成功させて実績を積んでおきたくて・・・」


 焦燥感を孕んだナマエの声にレルムは小さくため息を吐くと、ちょいちょいと壁の時計を指す。手入れされた綺麗な指先をたどれば、針は午後の三時を指しており、世間の人々がちょうどティータイムに入る頃合だった。
 レルムはゆるりと唇の端をあげると、手に持っていたバスケットを掲げる。


「お茶にしましょう。貴方の好きなマシュークを買ってきたの。茶葉とティーポットも持ってきてるからティータイムの準備はばっちりよ」



 バスケットに被せられていた布を取れば、中にはクッキー生地にマシュマロとドライフルーツがはさみこまれたお菓子が入っていた。ふんわりと漂ってきた甘くて香ばしい匂いにつられたのか、途端にナマエの腹の虫の音が部屋に鳴り響く。間抜けな音を聞いてひゃっと子供のように笑い出したレルムの姿を見て、ナマエは少し肩の力が抜けたような気がした。
 この親友には恐らく一生頭が上がらないだろう。ナマエは素直に羽根ペンを机に置くと、そのまま紅茶の湯を沸かす準備に取り掛かった。




07





 紅茶の注がれたカップを持ち上げれば、ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。香料はバニラかはたまたキャラメルだろうか。一口飲めば体の中にじんわりと熱が広がり、ナマエはようやくほっと一息がつけたような気がした。


「・・・美味しい」
「でしょう?ニリギ山脈にある茶園の茶葉なの。気に入ったなら今度おすそ分けするわ。ミスルン隊長とぜひ召し上がって」
「あ、うん・・・。ありがとう」


 ふいに出てきたミスルンの名に歯切れの悪い返事をしてしまうも、隣に座るレルムは気にした素振りを見せることなく、そのままマシュークの載った皿を渡してくる。クッキーとマシュマロの間から覗き出るカラフルなドライフルーツたちは、艶やかな色合いでナマエの食欲を刺激してきた。
 ぐーぐーと鳴り続ける腹の音に後押しされるかのように大好物のスイーツにかぶりつけば、期待通りの甘みが口いっぱいに広がり、ナマエはゆるゆると顔を綻ばす。それを見ていたレルムは、安心したかのように小さくため息を漏らした。


「良かった。ようやく笑ったわね」
「え?」
「ナマエったら、ここのところずーっと眉間に皺を寄せて思い詰めた顔をしてたんだもの。新薬開発の仕事の事でちょっと気負いすぎてるんじゃないかと思って心配してたの」


 菓子を手に、彼女はちらりと机の端に寄せられた資料の山に目を移した。積み重なった羊皮紙にはナマエの字で色々なメモが書かれており、紙面は空白がないほどに文字で埋め尽くされている。
 それらはミスルンがカーカブルードにある島の迷宮探索に向かってから、毎晩遅くまで研究室に篭って実験をしていたナマエの努力の証ともいえるだろう。しかしながら、それらは新薬開発が成功しなければ何も意味をなさないものに成り果ててしまう。手にしていたカップをぎゅっと握りしめると、ナマエは静かな声で言葉を紡いだ。



「・・・心配かけてごめんなさい。でも、無理をしてでも今回の新薬開発のチームで成果を出したいの」
「・・・それはなぜ?」


 深い海の色がじっとナマエの姿を射抜く。忙しい日々を過ごしていたせいで、レルムにはまだカブルーとの結婚話が出ていることを話せていなかったと、ナマエはぽつりぽつりと彼女に事の経緯を説明した。


「早く一人前の大人になりたい。ミスルンがカブルーと私の結婚に賛成している理由が私の『後ろ盾』のためだと言うなら、そんなものが無くても大丈夫だってことを証明したいの」


 少なからず、ケレンシル家の後ろ盾を受けている身で偉そうに言える立場ではないということは重々承知している。しかし、迷宮に潜りミグメラの薬を精製したことで、薬師としての階級がひとつあがったことを鑑みても、恐らく今回の新薬開発を成功させれば己の実力はさらに評価され、トールマンだということで差別を受けることはぐっと減るだろう。
 もう誰かの手を借りなければ立てないような子供ではないということを、どうにかしてミスルンに分かって欲しかったのだ。そうすればきっと、この結婚話を反故にすることができて、これから先もミスルンの傍にいることができるはずだから──。



「・・・っでも、時間が足りない。カナリア隊が戻ってくるまでに新薬を産み出すだなんて、とてもじゃないけど間に合わない」



 思わずナマエは下唇を噛み、目を伏せた。
 数日前、王都で起きた謎の異変騒ぎはどうやら迷宮での出来事が影響していたらしい。こちらに回ってきた宮廷魔術師たちの噂話によれば、どうやらトールマンの男が悪魔を討ち果たした事で異変が収まり、その男が迷宮の中から復活を遂げた古の国の王となったそうだ。そしてその迷宮はカナリア隊が派遣されていた場所で、彼らはトールマンの男に協力をしていたらしく、痛手を追いつつも誰一人欠けることなく帰還してくるらしい。
 その話を耳にした時、ミスルンの無事を知って安心したと同時に、ナマエの心には不安の影が過ぎった。悪魔を討ち果たしたということは、悪魔に復讐するためだけに生きていた彼から生きる糧が奪われてしまったということになる。果たしてミスルンが今どんな状態でいるのか、気が気では無かったのだ。
 そして同時に、問題が何も解決していないという現実を目の前にして、ただ焦燥感に埋めつくされていた。
 


「ねぇ、ナマエ。結婚話のことだけれど、ミスルン隊長が『早急に結婚して屋敷から出ていくべきだ』と仰ったの?」
「・・・ううん。そうじゃない」
「じゃあ今まで、ナマエのしたい・やりたいと思ったことに、ミスルン隊長が最初からひとつも耳を傾けてくれなかったことはあった?」
「・・・いいえ」



 黙って話を聞いていたレルムからふいに質問を投げかけられ、ナマエは声をつまらせながらも首を横に振った。
 もちろんミスルンは一言もそんな事を言ってはいない。ミルシリルから持ちかけられた話から、彼の意見を述べただけなのである。それに今までもミスルンは必ずこちらの意見をきちんと聞いてくれていたし、基本的にはナマエの意志を尊重してくれていた。宮廷薬師になりたいという夢も、彼が応援してくれたからこそ今こうしてできているのだ。
 返答を聞いていたレルムの手が、そのまま隣に座るナマエの手に優しく触れる。柔らかな肌から感じるほのかな温もりに、ナマエは重なった手を見つめながらぐっと唇を横に結んだ。


「この件について今後貴方がどうしたいのか、きちんとミスルン隊長に話してごらんなさい。あれやこれやと良からぬ未来を想像して、めそめそと泣きながら誰かに決定を委ねるだけだなんて、それこそただの子供だわ」
「・・・っ」
「子供と違って、大人は己の欲求に従って好きなものや道を選ぶ権利がある。でもその分、選んだ責任は自分が取るしかない。選択したことで失敗したり、辛いこと悲しいことがあっても誰のせいにもできないわ。でも怖がらずに道を進めば、その分素敵な未来が待っている時もあるのよ。・・・私もそうだったから」



 そう告げるレルムは、何かを思い出すようにすっと目を伏せた。
 かつて彼女は親の敷いていたレールから離れ、自ら宮廷薬師になる道を選んだ人だ。多くを語らないレルムではあるが、自ら選んだ道を後悔しないためにも、薬師免許の試験を満点合格したり、学生の身ながら新薬開発をしたりなど、並々ならぬ努力を重ねてきたことは想像するに容易い。
 そんな努力の結晶のような彼女の言葉は、輝きを放つ星々のようにナマエの心に降り注ぐ。弾けるように面をあげたナマエと、静かに瞼を開いたレルムの瞳が溶け合うように混じり合った。



「ミグメラ様の薬の件はもちろん、普段のナマエを見ていても、貴方は自分で道を選び取って、何事も責任を持って行動しているわ。それは私も他のみんなも認めていることよ。現にナユマン室長たちも、そんなナマエを評価したからこそ新薬開発チームに入れたんじゃない」
「・・・レルム」
「だから存分に胸を張って欲しい。大丈夫、貴方はもうちゃんとした立派な"大人"よ」



 一言一句しっかりとした口調で告げると、レルムは穏やかな笑みをナマエに向けた。
 それと同時、ふいにゴーンゴーンと幻想的な鐘の音が部屋の中に飛び込んでくる。港にある灯台に備え付けられた鐘の音は、迷宮調査隊の船の帰還を知らせるものだ。
 弾かれるようにナマエが顔を窓の方へ向ければ、暖かな日差しとともに柔らかな風が部屋の中に舞い込んでくる。ほんのりと潮の香りがする風は、かつて幼いナマエがミスルンの後についてカナリア隊の船に乗り込んだ時のものと同じだった。
 ──けれどもう、誰かの背中についていくことしかできなかったあの時の自分とは違う。
 ぎゅっと拳に力を入れると、ナマエは徐に立ち上がった。



「・・・ありがとう、レルム。私、行ってくる」
「ええ、気をつけて行ってらっしゃい」



 瞬く青色に後押しされるように、ナマエは研究室から飛び出した。
 王宮の門をくぐり抜け、華やかな花が咲き誇る道を勢いよく走り抜けば、あっという間に港へとたどり着く。港には今日も隊員を出迎えにきた宮廷の者たちの他にも、カナリア隊を一目見ようと集まる市中の者たちで溢れ返っていた。
 先日と同じように先陣立って出てきた副長のフラメラに続き、隊員たちが次々と船から降りてくる。自分より背の低いエルフの群衆の中を「すみません」と頭を下げながらかき分けていけば、ふいにナマエの視界に光り輝く銀色が飛び込んできた。
 十四年前に初めて見た時と同じく、その美しさに目を奪われていれば、タラップを降りてきていたミスルンの瞳が群衆の中のナマエを捉える。彼はそのまましっかりとした足取りでこちらに向かってくると、ナマエの前で立ち止まった。



「おかえりなさい、ミスルン」



 バクバクと逸る心臓の音がうるさい。息を整え、改めてミスルンの顔を見つめながら出迎えの言葉を告げれば、彼はかつて見たことのないほどの穏やかな笑みを浮かべていた。



「ただいま、ナマエ」



 ***


 重要な任と長い船旅を終え、少し疲労感を漂わせるミスルンを連れてナマエは家路に着いた。積もる話は山ほどあったが、とりあえず湯浴みをとのことで執事長にミスルンを託し、いつものようにキッチンへと足を運ぶ。
 夏の訪れを感じさせる気候になってきたため、食事は喉ごしのよい食べ物が良いだろう。深い鍋に湯を沸かしながらトマトとナスに包丁をいれ、細い麺を取ろうと棚の中を覗いていれば、ふいにキッチンに執事長が顔を覗かせた。
 「どうかしましたか?」と尋ねるナマエに、執事長は高揚したような戸惑ったような様々な表情を見せながら口を開いた。



「ミスルン様からご伝言で、今日の夕食はぜひナマエ様と共に取りたいと・・・」
「え・・・?・・・ミスルンがそう言ったんですか?」
「ええ。私も大層驚きました。ダイニングではなく、お部屋で召し上がるそうです」


 こちらから尋ねる訳でも無く、彼がこうしたいと自ら要望をはっきりと口にしたのは、ナマエが屋敷に来て初めてかもしれない。
 悪魔が消滅したことでミスルンが廃人になって戻ってくるのではと危惧していたが、港で迎えた時といい、屋敷に戻ってきてからといい、特段彼から落ち込んでいる様子は見受けられなかった。むしろ、憑き物が落ちたような穏やかな表情をしているといえるだろう。悪魔が消えた事で彼の中で何か良い影響が生まれたのかもしれないと、ナマエは少し胸をほっと撫で下ろした。
 そのまま執事長からの伝言にナマエは静かに頷くと、乾麺を二人前分棚から抜き去る。そして野菜を追加したり、魚をオイルで煮詰めてツナを作ったりなど、手際よく料理を進めていった。
 三十分後──。出来上がったツナと夏野菜の冷製パスタ、そして付け合せのカボチャのポタージュを載せたワゴンを押しながら、ナマエは真っ直ぐにミスルンの部屋に向かった。
 いつも通り扉をノックし、ミスルンの許可を得て部屋に入る。ワゴンをテーブルの横につけ、ロッキングチェアに身を預けた彼の後ろに回ると、ナマエは「失礼します」と艶やかな銀色の髪に触れた。


「体調はどうですか?」
「少し疲れてはいるが、悪くは無い」
「・・・良かった。食事は摂れそうですか?」
「うん」


 穏やかな声色が、暖かい風に乗って返ってくる。乾かし終わったミスルンの髪にブラシを入れて整えると、ナマエは慣れた手つきで配膳の準備に取り掛かった。
 テーブルにカラトリーと皿を並べ終えれば、タイミングを見計らっていたかのようにミスルンがゆっくりと立ち上がる。椅子を引いて彼を席に座らせると、ナマエもそのまま向かい側の席についた。そしてちらりと送られてきたミスルンの視線に答えるように、静かに両手を合わせる。



「「いただきます」」



 聞こえてきたのは、以前より少し覇気のある声であった。まだ湯気がほんのりとたつポタージュを飲み、冷製パスタを口にしたミスルンは、ふいにぴたりとフォークを持つ手を止める。
 アクセントにと思い、パスタに胡椒を振りすぎただろうか。「口にあいませんでしたか?」と不安げに尋ねるナマエに対し、ふっと気が緩んだような表情をすると、ミスルンはゆるゆると首を横に振った。


「いや・・・とても美味い。少し前から感じ始めていたが、一人で食べるよりも誰かと食事を共にするほうが、料理がさらに美味いと感じるようになった」
「・・・それは、とてもいい傾向ですね」
「カブルーにも同じことを言われた」
「えっ!?カブルーに会えたんですか?」
「うん。色々あって迷宮内で一週間ほど共に過ごした」


 ミスルンの口から突然飛び出た話を耳にして、ナマエは零れそうなほどに目を丸めながら声をうわずらせた。
 島の迷宮で一体どんな事があったのか。カブルーとはどんな一週間を過ごしたのか。悪魔をうち果たした事で、ミスルンにどんな心境の変化があったのかなど、聞きたいことは片手で収まらないほどにあった。
 それらに加えて自分がこれからどうしたいかミスルンに伝えなくてはならないのだから、彼が寝るまでの残り数時間の間に全てを終える事は難しいだろう。どれから切り出そうかと落ち着かない様子のナマエを見て、ミスルンはパスタをフォークで巻きながら小さく口角をあげた。


「心配するな。まだ時間はたっぷりある」


 そう告げると、ミスルンはかの地の迷宮で起こったことを順序だてて話してくれた。
 カーカブルードの島にカナリア隊が乗り込んですぐにカブルーと出会ったこと。迷宮を創り出した最初の主と対峙し、ミスルンとカブルーは迷宮の深くに落下してしまったこと。その後カナリア隊と合流し、ついに悪魔との対面を果たしたが、
新たな迷宮の主によって頭を吹っ飛ばされ迷宮内で初めて死亡してしまったこと。最後はライオスというトールマンの男のおかげで悪魔を討ち果たすことができ、人類が異界に飲み込まれることなく救われたことなどエトセトラ。
 掻い摘んではいるだろうが、全てが刺激的でなかなかの情報量なため、まるで分厚い長編小説を読んでいるような気分になる。食事を口に運びながらも、珍しく饒舌なミスルンの話をナマエはじっくりと聞き込んでいた。
 話も終盤を迎え、「ご馳走様」と手を合わせて食事を終えた頃、タイミングを見計らったかのように執事長が紅茶のティーポットと茶菓子を持って部屋にやってくる。するとミスルンはおもむろに立ち上がり、ナマエの方へと目配せをすると、窓際に置かれたアイビーグリーンが美しいベルベット生地のソファーの上へと腰をおろした。
 隣にこいと言わんばかりに、彼の横には大きくスペースが空いている。ナマエがおずおずと腰をあげて大人しく彼の横へと座ると、それに合わせて執事長が紅茶のセットをサイドテーブルまで運んできてくれた。
 食器の片付けも済み、「ごゆっくり」という声とともに執事長が部屋を去っていく。互いに紅茶のティーカップを手に取り、無言のままほんのりと湯気のたつ琥珀色の液体で喉を潤す。その後幾分か続いた沈黙を破ったのは、ミスルンの方であった。


「・・・どこまで話したか?」
「えっと・・・地底から古の王国が吹き出てきて、悪魔をうち果たしたライオスという男が新たな国王になることになったというところです」
「──ああ、そうだった。国王はただの一介の冒険者だったため、有識者が周りに少ないらしい。そのため、今後の国の技術発展のためにエルフやドワーフに協力を仰いできた。女王のお考えもあって、外交官として私とパッタドルがしばらくメリニに駐在することになると思う」
「そ、うなんですね・・・」


 ふいに告げられた言葉にナマエの心臓はどきりと跳ね上がった。駐在ということはイコール屋敷からミスルンがいなくなってしまうということだ。今まで迷宮探索で長期間留守にすることは多々あったが、駐在となると訳が違う。
 エルフの"しばらく"というのが数十年を指すことは珍しくない。これでは「カブルーとの結婚は無しにして、これからもミスルンの傍に仕えたい」とナマエの要望を告げたとて、離れ離れになってしまうのは明白だった。
 ︎︎せっかく対等に話をしようと腹を括ってきたのに、なんと運命とは残酷なものなのだろうか。突きつけられた現状にじくじくと疼く胸の痛みを飲み込んでいれば、ミスルンはティーカップをサイドテーブルに置き、ゆっくりと身体の正面をナマエの方へと向けた。



「実はその技術協力要請のひとつに、薬師を数名派遣して欲しいというものがある」
「・・・魔術師ではなく薬師をですか?どうして?」
「王のパーティーや関係者には元々優秀な魔術師が数名いたし、カナリア隊からも派遣されるからしばらくは問題ない。ただ、迷宮のものが地上に多く吹き出た影響で、あまり見た事のないものや新たに自然交配して芽吹いた植物があるらしく、薬学に詳しいものが必要らしい。迷宮内と違って、毒のあるものを素人が触ってしまっては一大事だからな。女王からも許可が下りたため、この件は明日にでもナユマン室長に打診しに行くつもりだ」


 ︎ミスルンと共に居られることができ、さらに仕事を続けられるという好条件を目の前にして、当然ナマエは声高らかに「共に連れて行って欲しい」と言いたかった。しかし未開の地といえども、女王直々の命となれば、当然上官たちがさらなる出世のためにこぞって手を上げるだろう。そこにナマエが食い込む可能性は限りなく少ない。
 とはいえ、薬師の仕事に誇りを持って励んでいるナマエからしてみれば、全てを投げ捨ててミスルンについていくという選択肢が生まれることもなかった。
 悔しさからぐっと堪えるように俯いたナマエの手の上に、ふいに伸びてきたミスルンの冷たく白い指先が重なる。予想だにしていなかったミスルンからの接触に、弾かれるように顔をあげたナマエの姿を、以前より少し光の灯った黒い目が真っ直ぐに見つめていた。



「薬師の派遣についてだが・・・私はお前を推薦しようと思っている」
「・・・・・・え?」
「薬の精製のために迷宮に帯同した時に感じたが、お前はどんな状況でも常に的確に仕事を行うことができる。そして未体験のものにも臆せずに飛び込んでいける。エルフの利益を第一優先に考える凝り固まった上層部のものより、腕が立ちメリニの発展を純粋に願える者が行くほうが良いと、私は考えている」


 ミスルンの柔らかな声が、ナマエの胸に溶けていく。
 ずっと、子供扱いされていると思っていた。しかしながら、レルムが励ましてくれたように、ミスルンも本当は自分の事をきちんと認めてくれており、ちゃんと評価してくれていたのだ。
 全身に広がっていく喜びが、じわじわとナマエの涙腺を緩ませていった。



「っ・・・ありがとうございます。新薬開発と並行しての派遣が叶うのならば、ぜひメリニに行ってお役に立ちたいです」
「うん。慣れない土地で気苦労も多いかもしれないが、彼の地にはトールマンも多くいる。同胞が多い環境はお前にとっても心強いだろう。それに、カブルーも宰相の補佐官として残るそうだ」


 ふいに告げられたカブルーの名を聞いて、滲み出ていたものが一気に引っ込んでいく。相も変わらず飄々とした表情と裏腹に、まるで壊れ物に触れるかのように指先をすりっと優しく撫でるミスルンの真意を確かめようと、ナマエはバクバクと鳴り響く心音を気取られぬようにゆっくりと唇を開いた。



「私をメリニに連れていく一番の理由は、カブルーと結婚をさせるためですか?」


 くるりと、ミスルンの左目が大きく見開かれ、ナマエの指先を握る力がぎゅっと強まる。しかし一拍置いてすぐさま彼はゆるゆると首を横に降ると、そのまましっかりとナマエを見据えた。



「悪魔が姿を消した後、復讐心が無意味なものになったことでぽっかりと心の中に穴が空いたような気がして、私にはもう何も残っていないと・・・もうこのまま消えてなくなってしまってもいいとすら思った。けれどカブルーに欲求がないなんてまやかしだと・・・生きている限り欲求は生まれ続けるものだと喝を入れられた」
「カブルーが・・・?」
「あぁ。そして改めて今一番何がしたいかと問われた時、真っ先にナマエの顔が浮かんだ」



 ミスルンの口から放たれた予想外の言葉に、ナマエはひゅっと小さく息を飲む。まさか、そんなと目を瞬かせていれば、ミスルンの口元がゆっくりと弧を描いた。



「お前に早く会いたいと・・・そう欲している自分がいた」
「・・・っ」
「そして色んな欲が胸の奥底で眠っていたことに気がついた。・・・お前の悲しむ顔はもう見たくないと、お前をカブルーや他の男の元にやりたくないと 。そして・・・これから先ずっと私の傍にいて欲しいという気持ちが、いつの間にか大きく育っていたようだ」



 これは夢なのだろうか。次々と贈られるミスルンからの言葉に、ナマエの目元から静かに涙がこぼれ落ちた。ほろほろと止まることを知らないきらめく粒たちを、ミスルンの指先がすくい上げる。



「どうやら私は、お前のことになるとどんどん欲張りになってしまうらしい」



 上擦った声が、ひんやりとした指先が、全て愛おしい。溢れた雫でぼやける視界の中、ナマエはミスルンの指にそっと頬を寄せる。
 芽吹いた想いを告げるつもりなどなかった。ただ傍にいられるだけで良いと思っていた。けれど気がつけば、ナマエの中で抑えていたものはミスルンの言葉を皮切りに一気に溢れ出していた。



「これから何をしたいか、どうしたいか・・・一つずつ貴方の心に問いかけながら、一緒に叶えていきましょう」
「うん・・・ありがとう」
「その代わり・・・私も我儘を言っていいですか?」
「なんだ?」
「・・・例え歩むスピードが違ったとしても、私もずっと貴方の隣で生きていきたい。そして最期の時は貴方の胸の中で眠らせてください」



 多くは語らなくても良い。全ての想いを乗せて、ナマエが真っ直ぐとミスルンを見れば、晴れやかな笑顔とともに、彼の目にも小さな雫がこぼれ落ちていた。



「必ず約束を果たすと、ここに誓おう」



 宝石のように美しい柔らかな銀色の髪が、頬をくすぐる。
 ──かさついた唇が、静かに重なった。




 fin.



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