春雫
針仕事をしていれば、外からザワついた音が聞こえ、ナマエはそろりと窓から顔をのぞかせる。人だかりの中心にいるセキの姿を見つけ、慌てて針と布を片付けると、急いで草履を履いて外へと出た。
彼が集落に戻ってきたのは一週間ぶりだろうか。団員たちに囲まれたセキは、背負っていた荷を下ろしながら、次々と投げかけられる人々の話に耳を傾けていた。
コンゴウ団のリーダーであり人気者の彼は、どこにいても人々の輪の中心にいる。まさしく太陽のような男だ。そんな彼らの
一時を邪魔しないように最後尾の方で様子を伺っていれば、はたとセキの視線が自分を捉えたのを感じた。じっとこちらを射抜く深い
榛摺色に釣られ、次々に人々が振り返る。
最後尾のナマエの存在に気づいた者たちが慌てて順々に身を引けば、あっという間にセキまでの最短距離が姿を現した。気まずそうに視線を泳がす者、好奇の目を向ける者、哀れみの眼差しを送ってくる者。様々な感情を背中に受けながらも、ナマエは背筋を伸ばすと、そのまま真っ直ぐにセキの元へと歩んで行った。
「おかえりなさいませ、旦那様。ご無事で何よりです」
感情を悟られないよう、にこやかに微笑みながら手を差し出す。彼もまた、「おう」とただ一言答え、眉ひとつ動かさずに荷物をナマエに渡した。
いつものことだ。麻痺したように慣れてきてしまっている自分を心の中で哀れみながらも、口の両端をあげたまま、ナマエは言葉を続ける。
「食事の準備をすぐに致しますね。先に湯浴みをしてきていただけますか?」
「あー・・・いや、かまわなくていい。ちょうどさっき呼びつけられて、会合がてらアマヅルの爺さんのとこでこのまま呑むことになった」
「そうですか・・・。かしこまりました」
「悪りぃな。遅くなるだろうから、先に寝ててくれや」
淡々と告げると、セキはそのまま長老のひとりであるアマヅルの
庵がある方角へと向かっていく。再び注がれる視線の数々を振り払うようにして、ナマエは荷を片手にそそくさと己の庵に戻っていった。
引き戸を閉めれば、まるで世界と切り離されてしまったかのように、音が全て消えてなくなる。広々とした殺風景な部屋の中で、ひとりぼっちでいることにはもうとっくに慣れたはずなのに、自然に頬を伝った涙をきゅっと唇を結んで耐え忍ぶしか無かった。
──そんなナマエがセキに嫁いだのは、遡ること二ヶ月前の事。シンオウさまに舞を奉納する踊り子としてシンジュ団に所属していたナマエは、突然先代の長よりコンゴウ団のセキに嫁ぐように言いつけられたのだ。
『なぜナマエ
姉があんな男のところへ嫁ぐ必要がある!?』
長に就任したばかりのカイの怒号が飛ぶ中、先代は渋い顔をしたまま、煙管をふかした。
『カイよ、先日の事件を忘れたか。セキがコンゴウ団の者達を諭してくれたから良かったものの、一歩間違えたら戦になっていたかもしれんのだぞ』
『・・・っ!それは、そうだけど・・・』
『今までの者たちとは違って、セキはまだ話の通じる奴だ。ここいらで
縁を結んでおけば、今後何かあった時に対処がしやすいであろう。儂からの直々の話とあれば、奴も無下に断りはせんだろうしな』
先代からの言葉に、ナマエはセキの姿を朧気に思い出す。半年ほど前、先代がまだ長を務めていた頃に、ひょんなことからシンジュ団の酒宴の席にセキを招いたことがあった。
もてなしとして舞を踊ることになったナマエは、舞台から彼の姿を目にしている。深い海の底とマヒワの羽根を想起させる美しい髪、そして艶やかな榛摺色の切長な目。
美丈夫の名がふさわしいセキから、気がつけばナマエは目が離せなくなってしまっていた。
そんな彼の元へ嫁げと言われることになろうとは、当時のナマエには想像もできなかったことであろう。もちろん長年敵対関係にあるコンゴウ団に身一つで嫁ぐことは恐ろしさもある。けれど、名も顔も知らぬ男の元に行かされるよりかは、よほど幸せなことであるということは十分理解していた。
『カイ、私は大丈夫よ』
『ナマエ姉・・・でもっ、だって・・・!!』
『私が嫁ぐことでシンジュ団の・・・貴女の役に立てるなら、私は嬉しい』
生まれた時から本当の姉のように慕ってくれている、まだ幼さの残る可愛い
又従姉妹の手を握りながら、ナマエはゆるりと微笑んだ。
その後はトントン拍子で話が進んでいき、芽吹いた桜の花が枝を覆い尽くす麗らかな春の日、ナマエはコンゴウ団のリーダーであるセキの元へと輿入れを果たしたのである。
セキは想像していたよりも随分と穏やかな男であった。カイからは頑固者で口が悪く、粗暴な男という話をよく聞いていたのだが、ナマエの前ではそんな様子はほとんど見せることはなかった。
否、見せなかったというよりも、見せる暇もなかったという方が正しいのかもしれない。なんせ、セキはほとんど集落にいることがなかったのだ。
各地の視察などで一週間は戻らないということなんて日常茶飯事で、共に夜に庵で過ごしたのは片手で収まるほどしかない。もちろん会話も必要最低限しかなく、夫婦になったといえども、名を呼ばれることも、彼に触れられることなども、この二ヶ月で一度もなかった。
きっと先代に言われ、争いの火種にならないようにとしょうがなく受け入れた婚姻なのだろう。初めから分かりきっていたものの、少しずつでも歩み寄れればと願っていたナマエの出鼻はくじかれ、そしてほのかに抱いていた彼への気持ちは無惨にも打ち砕かれたのだった。
そんな今までのことを回顧しながらなんとか心を落ち着かせると、ナマエは立ち上がって部屋の隅に置かれた鏡台へと向かう。真っ赤な漆塗りの引き出しを開け、中にしまわれていた白い布に包まれたものを取り出すと、そのまま結び目をゆっくりと解いた。
現れたのは美しい
金簪。飾りに
蒼玉が施されており、セキの首元についている首飾りとよく似ているそれは、嫁入りした日に彼から手渡されたものであった。
『あんたに似合いそうだと思って』
伏し目がちに長いまつ毛を瞬かせながらそう告げた彼は、流れるようにナマエの後ろ髪に金簪を差し込んだ。
『綺麗だ』
柔らかく目を細めたセキの表情を、ナマエは死んでも忘れないだろう。
彼が自分のことを一瞬でも考えてくれたのだという、淡く、大切な思い出。夜空のような神秘的な光を放つ蒼玉を撫でれば、少しばかり心が慰められたような気がした。
けれど辛い現状にめそめそ泣いていても、今の状況ではシンジュ団に戻れるわけもない。ここで生きていくためには、自分が変わっていかなければ。涙を拭い去ると、ナマエは宝物を再び引き出しの奥底へと大切にしまい込んだ。
***
「おはようナマエちゃん」
「おはようナツハゼさん。あとで畑に葱をいただきに行ってもいいかしら?」
「かまわねぇさ。いつも色々と手伝ってくれてるからな、いくらでも抜いていってくれ」
「助かるわ。ありがとう」
「ナマエお姉ちゃーん!今日は舞の練習はいつしてくれるのー?」
「今からサツキばあ様のところに薬草の仕分けの手伝いに行くから、それが終わったらね。庵に迎えに行くから、皆でいい子で待っててちょうだい」
若葉の香りを乗せた初夏の風が吹く頃。ナマエは少しずつコンゴウ団の一員として団に馴染んでいっていた。
とにかく今は何より集落の人たちに受け入れてもらえるように頑張ろうと、手始めにナマエは村の人たちの手伝いを積極的に買って出ることにしたのだ。シンジュ団にいた頃から、老人たちの手伝いをよくしていたため、どんな仕事にも特段抵抗はない。畑仕事や洗濯掃除に子供のお守り、何でもごされとこちらから声をかけ続けていれば、ゆっくりとではあったが、人々の心はナマエへの警戒心を解いていった。
『シンジュ団の踊り子』という肩書きが邪魔をしていたのか、きっととんだ箱入り娘が来たとばかり思われていたのだろう。泥だらけになっても笑顔で働くナマエの姿を見て、コンゴウ団の人々は大層驚いた様子であった。けれど、それがちょうどいい塩梅となったようで、団員たちがナマエを受け入れるのにはそう時間はかからなかった。
「そういや、セキはそろそろ帰ってくるのかい?」
筵の上にこんもりとのった薬草を仕分けながらたわいもない話をしていれば、ふいにサツキから問いかけられ、ナマエはぐっと言葉を詰まらせる。
数日前にふらっと戻ってきたかと思えば、日を経たずして彼はまたすぐに集落を出ていってしまったのだ。たまたまセキのお付きの者たちが話しているのを聞いてしまったのだが、今は時空の裂け目から落ちてきたという不思議な少女に夢中になっているらしく、ここ最近はギンガ団の本拠地に足繁く通っているらしい。
シンオウさまに関わりがあるかもしれないという人物に、彼が飛びつくのは当然である。けれど、もしかすると他の感情も混ざっているのかもしれないという不安がナマエの胸中に渦巻いているのは、ここだけの秘密だ。
「・・・どうでしょう。旦那様が出立されてから、まだ三日ほどしか経ってませんので」
「あらやだ!セキってば、こんなに朗らかで気立てのいい子をずーっと放っておくだなんてね!」
「リーダーとしては頼りにはなるけど、女関係はてんで駄目だわ」
はぐらかすつもりだったのだが、周りで作業をしていた女たちの目は誤魔化せなかったらしい。目くじらをたてて怒ってくれる姿に、ナマエはただ曖昧な笑みを浮かべた。
「ナマエが嫁入りしてきてもう四ヶ月だろ?最初は私らも『シンジュ団の奴がきたー!』って大騒ぎしてたけどさ、こんなにもいい子ならもっと早く打ち解ければ良かったって、集落の人はみーんな言ってるよ」
「そうそう。ネンジロウじいさんなんて『わしがあと二十若けりゃセキから奪っとったわい!』って豪語しとった」
ケラケラと伸びやかな女たちの笑い声は、ナマエの心を少しばかり軽くした。地道にやってきたことは無駄ではなかったのだと、コンゴウ団の一員として認めてもらえたのだという安心感に包まれる。
そんなナマエたちの様子を静かに見守っていたサツキが、細かな皺の刻まれた唇をゆっくりと開いた。
「この子たちをみたら一目瞭然だろうが、コンゴウ団の女はみんな気が強くてねえ。おまけに一緒に育ってきたのが、ヨネやヒナツみたいなポケモンも怖がったりせんような男勝りな子らときた。だからか、セキはあんたのようなおひいさんのことはどう扱っていいのか分からんのじゃろう」
確かに彼女の言う通りかもしれない。コンゴウ団の女性はたくましい者が多く、彼を取り囲むキャプテンたちは半数が女性で、人々が恐れるポケモンをも相棒にして、荒地を駆け回っているような人々であった。
そしてそれはきっと、
件の少女にも当てはまる。彼女は荒れ狂うキングやクイーンに臆することなく、次々とポケモンたちをその手で鎮めている実力者らしい。察するに、セキの女性の好みもやはりそちらに近いのかもしれない。となれば、次にナマエが実行すべき計画はひとつしかなかった。
「いえ、私がもっとコンゴウ団のリーダーの妻に相応しい女になれば良いだけの話です」
そんな宣言をしてから数日後。ナマエは一人、集落からほど近い山道を歩いていた。
書庫から借りてきた紅蓮の湿地の地図を片手に、野生のポケモンに警戒しながら険しい道を進んでいく。このあたりは大柄な岩ポケモンや、毒を撒き散らす虫ポケモンが多く出るそうだ。
自分でポケモンを捕まえて育てれば、少しでもセキに興味を持ってもらえるかもしれない。そんな邪な考えを胸に、ナマエはひっそりと庵を抜け出して来ていたのだ。
目的は霧の遺跡に生息する、ラルトスというポケモン。舞台の戦場のクイーン・ドレディアの世話をしているヒナツから、そのポケモンが警戒心は強いが大人しいという話を仕入れていたため、自分でも捕獲できるのではと踏んで狙いを定めていた。
ギンガ団の博士が作ったという、ポケモンを捕獲できるモンスターボールと、エサのきのみをポケットに入れて歩んでいけば、なんとか無事に遺跡近くまでたどり着く。
けれど遠くに遺跡の柱が見えてきて、あと少しということでつい気が緩んでしまったらしい。よく前を確認しないまま草むらから抜け出せば、突然目の前に大きな岩肌が現れた。
先端が鋭利に尖った岩は、どしんどしんと大地を踏みしめるかのように砂埃をあげてゆっくりと動き出す。それが岩などではなくポケモンだということは一目瞭然で、こちらの気配に気づいたそのポケモンは、赤い目を光らせると、即座に唸り声をあげて戦闘態勢に入った。
すぐに逃げなければと思ったものの、あまりの大きさに足がすくんで動けない。ああ、一度でいいから、死ぬまでに彼に名を呼んでもらいたかった。心からの笑顔を向けてもらいたかった。
自業自得といえども、そんな後悔の念が渦巻く中、ナマエはぎゅっと目を瞑り、襲い来る衝撃に備えた。
「リーフィア!リーフブレード!!」
痛みの代わりに、突然耳に飛び込んできた清廉な声。巻き起こる風圧と共にぐいっと腕を引っ張られ、ナマエは小さく息を飲みながら瞑っていた目を見開く。
現れたのは他でもない、セキと彼のパートナーのリーフィアで、ナマエはそのままセキの腕の中に抱き寄せられた。
リーフィアは葉を剣のように縦横無尽に操り、岩ポケモンに鋭い攻撃を加える。突然ダメージを食らい驚いたのか、雄叫びをあげたポケモンはしっぽを巻くように遺跡の方へと逃げていってしまった。
「っバカヤロウ!!なんでこんなところに一人でうろいてたんだ!!」
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。すぐさまセキの怒号が降り注ぎ、ナマエはびくりと肩を跳ね上げ、腕の中から彼を見上げる。
「戻ったらおめえがいねぇってなって探してたら、『さっき山の方へ歩いていく姿を見た』って聞いてっ・・・!そしたら、ヒナツの奴が『最近よく書庫で近隣の地図を眺めてた』とか言い出すし・・・!!」
次々とまくし立てるように言うセキの腕の力はどんどんと強まっていき、ナマエはただ小さく「申し訳ありませんでした」と声を絞り出すことしかできなかった。
なんとかなるだなんて、甘い考えで飛び出してきた自分が恥ずかしい。彼が気がついて探しにきてくれなかったら一体どうなっていたことか。そんな安堵感と不甲斐なさから、自然と涙が一粒こぼれ落ちてしまう。
その姿を見て、セキは何も言えなくなってしまったのか、気を落ち着けるかのようにくしゃくしゃと頭を掻きむしると、ようやくナマエから手を離した。
「さっさと戻るぞ。さっきのサイホーンが仲間を呼んでここに戻ってくるかもしれねぇ」
先程までの感情を顕にしていた姿などもうどこにもなく、いつものように淡々とした物言いに戻ったセキの声に、ただ項垂れながら頷く。すると、ふいに目の前に大きな手が差し出された。
「・・・えっと」
「・・・ここから集落まで下り坂が続くから、着物だと足元が覚束ねぇだろ」
ぶっきらぼうながらも、自分を慮って差し伸べてくれた優しさに、ナマエの胸はじんわりと熱くなる。けれど、勘違いしてはいけない。万が一自分が怪我をしたり命を落とすことがあったりでもすれば、シンジュ団と折り合いが悪くなってしまう可能性があるが故の行動だろう。
今までの婚姻生活からして、火を見るより明らかで、心寂しい事実。けれど、例え偽りの優しさだとしても今だけは甘えてもいいだろうと、ナマエはおずおずとセキの手のひらに自分の指先をのせた。
すぐさまぐっと手を握られ、彼は少しばかりしかめていた眉を緩めると、そのまま前を向いて歩き出す。降り注ぐ陽の光を浴びて輝く美しいセキの髪をしばらく追いかけていれば、だんだんと集落の庵の屋根が見えてきた。すると、今まで無言だった彼がふいに小さく唇を動かした。
「・・・ここにいるのが、嫌になったか?」
「え?」
「シンジュ団に戻りてぇのか?って、聞いてる」
突然の問いかけに、ナマエは混乱する。
もしかすれば、今回の件をきっかけに、手に負えないと判断されてしまったのかもしれない。
そもそもこちらの身勝手な行動が原因なのだ。仕方がないとはいえ、"離縁"という二文字が頭に浮かび上がり、ナマエは震えそうになる声を必死に飲み込みながらもふるふると首を横に振った。
「・・・いいえ。団員の皆さんにも良くしていただいていて、毎日が充実しています。戻りたいだなんて、そんな・・・」
言葉を紡いでいれば、ふとナマエの脳裏に以前聞いた話が過ぎる。セキがギンガ団の少女にお熱だという噂。それが本当なのであれば、今回離縁するには何とも都合が良いタイミングである。
けれど、シンジュ団の長の又従姉妹のうえに、先代からのすすめで嫁いできたナマエを無碍な扱いにするわけにもいかないはずだ。セキからすれば、シンジュ団に帰りたいとナマエが言い出せば好都合なのだろう。
かといって、たった数ヶ月で離縁することになれば、それはそれで話がこじれて団同士の関係にヒビが入るやもしれない。きっと彼もその微妙なバランスに思い悩んでいるのだと、ナマエは思わず強くセキの手を握りながら、なんとか声を絞り出した。
「・・・・けれど、もし旦那様が戻れと仰るなら、その時はシンジュ団に戻ります」
「・・・・・・」
「ただ・・・離縁することで二つの団にさらなる
軋轢が生まれるのではと危惧してらっしゃるのであれば・・・私はこのままの状態でも問題ありません」
溢れそうになる涙を押さえ込んで、ナマエはただ動揺が悟られないよう、静かに言葉を続けた。
「もしどこかに思いを寄せていらっしゃる女子がいるならば、どうぞお心のままにお過ごしください。たとえこの先、その方と旦那様がどんな関係になろうとも、私は他に悟られぬよう、死ぬまで妻としての務めはきちんと果たしますから」
清らかな榛摺色の瞳に映るのが、自分ではなく他の者だということはとても心苦しい。けれどきっと、今日初めて触れた指先の温度を胸に留めておけば、寂しさを乗り越えることができるはずだから。
そう淡々と想いを告げれば、ぐるりと勢いよくこちらに振り返ったセキの瞳と鉢合う。驚いたように目を見開き、唇をぱくぱくと上下にさせた彼は、まるで幽霊を見ているかのように声にならない悲鳴をあげた。
「っ・・・おめえは、一体全体何を言ってんだ・・・?」
「・・・旦那様?」
「俺がいつ、他の女を好きになったなんて言った!?」
解かれた指先が伸びてきて、そのまま強く両肩を掴まれる。弾かれるようにして面をあげれば、すぐ真上にはセキの顔があり、少し怒気の含んだ声色とは裏腹に、焦ったような表情を滲ませていた。
「その・・・以前から・・・旦那様がギンガ団にいる少女に熱を上げていると、色んな方から聞いていたので・・・」
「なっ・・・!?少女ってショウのことか!?あいつは確かに有能だし、シンオウさまとの繋がりがあるかもしれねぇと思ってその点に関して興味はあるが、あいつを女として見たことも、どうこうなりたいだなんて考えたこともねぇ!」
一気にまくし立てるように告げるセキの表情は、今だかつて見た事のないほどに次々と変化していく。
怒ったかと思えば、悲しそうな目もするし、少し高揚した色をも含む。そんな複雑さを孕んだ彼に圧倒されながらも、ナマエは冷静に自分の考えを吐露した。
「・・・そうですか。では、今回は違ったとしても、もし今後そういう方が現れた場合も遠慮なく・・・」
「・・・──っ!俺が生涯を誓って愛すると決めた女は、あんた一人だけだ!!」
青空を駆け抜ける、澄み切った一声。それがトドメの一発だった。まさかまさかの発言に、ナマエの頬はみるみるうちに朱色に染っていく。
未だかつて、そんな気配は一度もなかったのに。むしろどちらかといえば遠ざけられていたというのに。一体なにをどう信じればいいのかと、ナマエは困惑しながら言葉を続けていく。
「そ、んな・・・っ信じられません・・・!だって、嫁いでから今まで、旦那様は私を避けてばかりで・・・疎ましそうにしていらっしゃったじゃないですか・・・!」
「ちが・・・!っ・・・いや、そのっ、それは・・・オレの態度が悪いことは、自分でもよく分かってはいてだな・・・!」
いつも集落にはおらず仕事ばかり。さらには帰ってきても共に暮らす庵にはほとんど寄り付かず、誰かと酒を交わして帰宅するのは深夜のナマエが寝静まった後ときた。それは思い描いていた婚姻生活とは程遠いもので、寂しさで枕を濡らす日々であったのに。
今更何をと言い返すナマエの声に、先程までの威勢はどこへやら、セキはしぼんだように肩を落としていた。
その姿はいつもの威風堂々としたセキとは真反対すぎて、あまりの縮こまり具合に、ナマエは恐る恐る彼へ問いかける。
「あの・・・もし事情があるならば・・・私を避けていた理由を聞いてもよろしいですか?」
ぐぬぬと声が漏れ出てきそうなほどに眉をしかめたセキではあったが、ここまで来たら腹を括ったらしい。俯いていた顔をあげ、ナマエの両手をしっかりと握り直すと、彼は真っ直ぐにこちらを見据えて唇を動かした。
「・・・一目惚れ、だったんだ」
「・・・え?」
「一年前、シンジュ団の先代に誘われた酒宴の席で、あんたが舞を踊る姿に目を奪われた。そしたら、婚姻の話が舞い込んでくるだなんて奇跡みてぇなことが起きて・・・。緊張してたのもあるが、いわゆる政略結婚でコンゴウ団に嫁がされてきたあんたにどう接したらいいのか分からなくて、ずっとあんな曖昧な態度をとっちまってたんだ。本当に浅はかでガキみたいだよな」
思いもよらぬ返答に、ナマエは驚きのあまり目を瞬かせた。嬉しさ、恥ずかしさ、驚き。様々な感情がじわじわと身体中を蝕むように込み上げてくる感覚に、ナマエの中で強ばっていた何かがゆっくりと解けていく。
「留守が多かったり、庵になかなか居なかったのは、好いた女が自分の元にきてくれたっつー舞い上がった気持ちを抑えれる自信がなくて・・・。なのに、あんたはいつも優しく聡明で・・・笑顔でオレに接してくれるから・・・触れたら最後、歯止めが効かなくなっちまうんじゃねぇかと思って・・・。そしたら、なかなか二人で過ごす時間作ることができなかったんだ。だからその・・・けしてあんたを疎ましく思ってるとか、邪魔に思っているとかなんてことは一切ねぇ。むしろ、その逆なんだ」
熱に浮かされたように、必死に紡いでくれたセキの想い。ならば、次は自分の番だと、ナマエは包まれた大きな手をしっかりと握り返した。
「私も・・・初めてお姿をお見かけした時から、旦那様のことを忘れられませんでした。だから、とても幸せな気持ちでコンゴウ団にやってきたのです」
「・・・ほ、ほんとか?」
「はい。でも、全く相手にしてもらえていないと思って、枕を濡らす日々を過ごしていました」
「っ、それは・・・面目ねえ・・・」
「そして今回、勝手に集落を抜け出したのは、少しでも旦那様に好まれる女性になりたいと思って・・・。ポケモンを捕まえれるような逞しい女性になれば、振り向いてもらえるやもと思い、無茶をしてしまったんです。けしてシンジュ団に帰ろうと画策していたわけではありません」
「もっと早くに互いに本音でお話をすれば良かったですね」と、思わず目尻をきらめかせながら微笑めば、ふいに腕を引き寄せられ、気がつけばセキの胸の中にナマエは抱きとめられていた。
ぎゅうとたくましい腕の中で強く抱きしめられ、まるで溶けて混ざりあってしまうような熱に溺れそうになる。
「オレはほんとの大馬鹿モンだな」
「・・・ふふっ、そうですね。でも、私もなのでおあいこです」
「・・・ありがとな。悲しい思いをさせちまった分、しっかりと償わせてくれや」
甘い声と共に降りてきた唇が、優しく額に触れる。きっとこの先の未来、何があっても今日という日のことを思い出せば、どんな困難があろうとも二人で手を取り合って乗り越えていけることだろう。
「ナマエ。命が尽きるその日まで、オレと共に歩んでくれ」
セキからの願いに、ナマエはこの上なく幸せな笑顔を返すのだった。
大切にしまいこんでいたあの金簪は、これからナマエの髪の上で毎日美しく光り輝くことだろう。
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