青葉雨あおばあめ



 昼までは晴天が広がっていたのに、なんと運が悪いのだろうか。鬼太郎を連れて都会に繰り出し、用事を済ませて帰ろうとした時であった。どんよりとした雲が空を覆い尽くしたかと思えば、突然雨粒が降り注いできたのだ。
 とにかく雨宿りが先決だと、近くにあったデパートの軒下に慌てて逃げ込む。同じように雨から逃げてきた人達が等間隔に並んでおり、皆空を恨みがましく眺めてぼやき声をあげているようだった。
 幸い少し前に眠りについていた鬼太郎はまだ起きる気配もなく、大人しく背中のおんぶ紐の中で寝息をたてている。特段急ぐ必要もない。雨が止むかマシになるかまで少しここで雨宿りをさせてもらおう。そう思い、白髪についた雫を拭うために尻ポケットからハンカチを取り出そうとしたが、おんぶ紐が邪魔をしてなかなか上手くいかない。
 しばらくモゾモゾと動きながら試行錯誤してみたが、ハンカチを取るためには鬼太郎を床に下ろすしか術が無さそうだ。少しの濡れくらい我慢するかと手を止めた瞬間、ふいに澄んだ声が横から投げられた。



「良かったら何かお手伝いしましょうか?」



 慌てて声のする方角に顔をむければ、声の主は自分の横で雨宿りしていた女であった。
 年は同じくらいだろうか。華やかな若草色の着物に身を包んだ彼女は、目をくるりと丸めてこちらを見あげていた。


「え?」
「すみません、不躾に。何かお困りのようだったので」
「あ・・・いえ、お気遣いありがとうございます。少しばかり雨で濡れてしまったので、尻ポケットのハンカチを取ろうとしただけなんです」
「そうだったんですね。あの、もし良ければ私がお取りしましょうか?それともお子さんを受け取った方がいいかしら」


 悩ましげに首を傾ける女の姿を目にして、突然胸中がザワザワと波立った。彼女の何かが自分の琴線に触れた感覚。一体なんだ、と自問したところで答えなんてすぐに出てくるはずもない。
 突然動きを止めた俺の姿を見て不思議そうな顔をする彼女に、慌てて尻ポケットからハンカチを取ってもらうようにお願いする。不可抗力とはいえ、女性に尻ポケットに手を突っ込まさせるのはいささか気後れをしたが、鬼太郎の顔を見て驚かせてしまうよりはマシだろう。
 そんなこちらの配慮を露とも知らない女は、「失礼しますね」と律儀に断りを入れて俺の背後に回った。しかしなぜかぴたりと動きを止めてしまい、なかなかハンカチを取ろうとしない。


「どうかしましたか?」
「あっ・・・すみません。その・・・おんぶ紐についた御守りが、見覚えのあるものだったので驚いて・・・」


 少し動揺したような女の声を聞いて、鬼太郎を育てると決めた日に、近所の神社でもらってきた御守りをおんぶ紐に括り付けていたことを思い出す。しかしながら、有名でもなんでもない廃れた近所の神社のものである。それをなぜ彼女が知っているのだろうか。
 普段なら、初対面の女性とわざわざ会話を広げることはしない。けれど、ようやく尻ポケットから取り出したハンカチをこちらに差し出す彼女の上気した頬を見て、ふと一歩踏み込んでみようという気になってしまったのだ。

「星詠神社をご存知なんですか?家の近所にあるんですよ」
「やっぱり・・・!私、親戚を頼って一時期そのあたりに住んでいたことがあるんです。・・・っていっても高等女学校の時で、十五年ほど前の事なんですけど」


 高等女学校、そして十五年前とくればやはりほぼ同年代だ。あまりの偶然に、どくどくと心臓が波打つのを感じる。意に介していないような雰囲気を醸しつつ、俺はハンカチで頭の雫を拭いながらゆっくりと口を開いた。

「・・・失礼ですがお名前をお伺いしても?」
「ミョウジです。ミョウジナマエと申します」

 紅がのった女の唇から告げられた名に、ばちりと頭のなかで何かが弾けたような感覚を覚えた。忘れるはずもない。夕陽に染まった道であどけなく笑う少女の姿が、記憶の奥底から蘇る。

「・・・嘘だろ、おい」
「え?」
「おれだよ!古寺の横に住んでた水木だ!っ・・・覚えてないか?」
「・・・うそっ、水木くん?」

 まくし立てるように告げた言葉に、女──ナマエは心底驚いたように目を丸めて口元を抑える。艶やかな髪も、穏やかな目元も、全部何も変わっていない。今思えば綺麗に化粧をしているとはいえ、当時の面影は大いに残っていた。

「まさか水木くんだっただなんて・・・!ごめんなさい、私・・・全然気づかなくて」
「当然だろ。見た目もだいぶ変わっちまってるしな。俺もその・・・お前が卒業後に実家に帰ったあと、九州の方に嫁いだって風の噂で聞いていたから・・・こんなところで会うだなんて思ってなくて」

 自分で口にしながら、当時の心境を思い出してしまい、ずきりと心の臓が傷んだ。
 全ての始まりは、都会からやってきたという物珍しさと凛とした佇まいから、同年代の多感な男子たちに何かと絡まれていたナマエを助けてやった事からだった。 
 そこから妙に懐かれ、学校も違うのにいつしか待ち合わせをして一緒に家まで帰るのが日課となっていた。多分、初恋だったと思う。
 気がつけばあっという間に五年という月日が流れ、彼女から卒業後に都会に戻ることを告げられたのは、雪のチラつく寒い冬の日だった。
 当然その頃は戦争真っ只中。徴兵されるのが秒読みの身で、ナマエに好きだと告げる勇気と気概を当時の俺は持ち合わせてはいなくて──。雪が解け、桜が舞う中去っていく彼女を、ただ見送ることしかできなかったのだ。

 そんな過去の苦い記憶を噛み締めていれば、先程まで自分と同じくらい興奮していたはずの彼女の表情は、いつの間にやら息を潜めていた。何か気に触るようなことを言ってしまっただろうか。
 一拍置いて「ナマエ?」と名を呼べば、彼女はハッとしたように体を揺らし、慌てて首を横に振った。

「ごめんなさい。ちょっとボーッとしちゃって・・・。その、九州に嫁いだのはその通りなんだけど・・・色々あって一年前にこっちに帰ってきたばかりなの」
「・・・離縁、したのか?」
「ううん・・・嫁いで半年もしないうちに夫が戦争に行ってしまって、そのまま。大きな工場を経営してるお家だったんだけど、夫が死んだあとも家の人たちがとっても良くしてくれてね。だから恩返しがしたいと思って工場で奉公させてもらってたんだけど、もう好きにしていいんだよって言われちゃって・・・。だから、実家に戻ってきたの。今はここから二十分ほどの町に住んでるわ」

 遠くを見つめるようなナマエの目は、古い記憶の中よりもずっと、何かを悟ったような澄んだ色をしていた。
 十五年もの月日がそうさせたのか、戦争という深い傷がそうさせたのか。それはきっと、彼女にしか分からない。
 思わず弱々しい華奢な肩を抱きしめたくなる衝動に駆られ、はっと小さく息を飲めば、ふいに背中のおんぶ紐の中がもぞもぞと動いたのを感じた。


「あら、起きちゃった?」
「・・・どうだろ。いつもは寝たらなかなか起きないんだけど」

 案の定、背中の温もりはすぐにじっと動きを止め、またスヤスヤと寝息を立て始める。鬼太郎の顔が見えていないのか、彼女は特段何も言わず、微笑ましそうに唇を緩ませた。

「まだ一歳にもなってないくらいかしら?・・・水木くんはいつ結婚したの?」
「いや、俺は一度も結婚してなくて・・・。こいつは知人の子で、ひょんな事から引き取って育ててるんだ」

 「ミルクにおしめに、毎日てんてこ舞いだよ」と白い髪を掻きながらぼやけば、ナマエは小さく笑った。気がつけば、昔見たままの穏やかな表情に戻っている。
 それを見て、何故だか無性に安心した。そして同時に、ザワザワと胸の中で波が立つのを感じた。
 ああ、これは──と思ったのも束の間。いつの間にか雨粒が視界から消えており、どんよりとした雨雲が消え去った空からは、眩いほどの光が降り注いでいた。


「雨、上がったわね。通り雨で良かった」
「・・・あぁ」
「偶然とはいえ、久しぶりに会えて・・・こうしてお話できてよかったわ。ありがとう水木くん」
「・・・あぁ、こちらこそ」


 なんと愛想のない返事なのだろうか。軒下に連なっていた人々はいつの間にか皆居なくなっており、残っているのは自分とナマエだけになっていた。
 着物の裾についていた露を払うと、彼女はこちらに向き直る。このまま別れの挨拶を済ませれば、もう二度と会うことはないだろう。
 それでいいのかと自問自答したところで、きっとあの時と同じく、こんな自分がナマエを幸せにできるのかという葛藤が生まれるだけだ。いつまでたっても弱虫のままの自分が情けない。
 「それじゃあ元気でね」と立ち去ろうとする彼女の背中を、そのまま見送ろうとした次の瞬間。突然ナマエが何かに引っ張られたようにぐにゃりとバランスを崩して倒れこんできたため、慌てて彼女の身体を受け止めた。


「大丈夫か!?」
「・・・っごめんなさい。何かに引っかかったのかも・・・あっ!」


 彼女の声の先を辿ると、そこには小さな手。寝ているはずの鬼太郎が、おんぶ紐の隙間から手を伸ばして、ナマエの着物の裾を握りしめていたのだった。


「こらっ鬼太郎!危ないだろう!お前もしかして起きてるのか?」
「大丈夫よ、水木くん。怒らないであげて。それに多分寝てるわ。寝ぼけてやったのね」


 彼女の言う通り、確かに鬼太郎はうんともすんとも言わず、身動きもしない。しかし固く握られた手を解くにも自分の位置からは難しく、ナマエも赤子の手を無理矢理解くのは憚れるようで、優しげな表情で笑うだけであった。
 「すまない」と詫びれば、彼女はとんでもないと言わんばかりに首を横に振る。


「むしろ、ラッキーだなと思って・・・」
「・・・え?」
「その・・・実は水木くんと、もう少しお話したかったから」


 ほんのりと頬を染めて、照れたように唇を尖らせるナマエを見て、カッと身体に熱を帯びるのを感じた。
 『自分の命より大切なものが、きっとできる日が来る』──ふいに風に乗って誰かの声が耳に入った。記憶の中の声。穏やかな、優しい声色。誰のものかは忘れてしまったが、俺の背中を押すのには充分だった。


「おれも、お前ともっと話がしたい」


 きっと年甲斐にもなく、自分の頬は真っ赤に染っているだろう。嬉しそうにはにかむナマエの姿に、心にほんのりと柔らかな火が灯ったような気がした。


top/back