桜雨
ぐっと腹のあたりに何か力が加わった感覚がして、ナマエは朧気に意識を覚醒させる。ゆるりと瞼を開けば、辺りはまだ暗闇に包まれており、天井からぶら下がる電灯の豆電球の小さな光が、辛うじて近くのものを照らしていた。
周りの様子を見るに、まだ深夜かはたまた日の入り前か。そんなことを寝ぼけ眼で考えていれば、ふいに背後から呻き声が聞こえ、ナマエの腹に回っていた逞しい腕がぎゅっと力を強めた。
「・・・っぁ」
「・・・水木くん?」
「おれ、は・・・」
悲しげな声と共に、後ろからナマエを抱きしめて寝ていた水木の腕の力が緩む。その瞬間、ナマエは急いで布団から身を起こすと、横に寝ていた彼の顔をのぞき込んだ。
目を瞑りながら、首をゆるゆると振る彼の頬には一粒の雫がきらめいている。きっと良くない夢でも見ているのだろう。一緒に暮らし始めてから、彼がこうして悪夢に魘されている姿をナマエは何度も目撃していた。
身体の傷は時が経てば治るが、心の傷は簡単に癒えることはない。戦争とは、何もかもを奪い壊していくものなのだということを改めて実感してしまう。
「大丈夫。・・・大丈夫よ」
眉間に皺を寄せる水木の頭をゆっくりと撫でながらナマエが呟けば、彼の強ばっていた肩がびくりと跳ねる。そのまま子守唄を歌うように「大丈夫」と唱え続ければ、水木は徐々に落ち着きを取り戻したのか、再び静かな寝息をたて始めた。
険しかった表情は消え去り、いつもの穏やかなものに戻っている。その姿にナマエはほっと胸を撫で下ろすと、はだけていた布団を静かにかけ直してやった。
赤い紅葉が美しい秋の暮れ、鬼太郎とナマエが顔を合わせた日から約一ヶ月後─。水木からプロポーズをされたナマエは、晴れて入籍を済ませ、新しい家で鬼太郎と三人で暮らすようになっていた。
最初は慣れない育児にてんてこ舞いの日々であったが、ナマエが想像していたよりもずっと水木は愛妻家で子煩悩な性格だったらしい。仕事から帰った後や休みの日は彼が積極的に家事も育児も担ってくれたため、ナマエはこの生活に早く慣れることができた。
幸せすぎる日々は時が経つのが一瞬で、気がつけば雪がちらつく冬を越し、春の匂いが鼻先をくすぐる季節になっていた。この先も、愛する人の隣で鬼太郎の成長を見守りながら心穏やかに暮らしていきたい。水木の顔を見つめながら、そんなささやかな願いを反芻していれば、ふいに頬を撫でるような柔らかい風が部屋の中に舞い込んだ。
はたと後ろを振り返り廊下側の襖を見れば、寝る前にきちんと閉めたはずの襖が一尺ほど開いている。嫌な予感がして、暗闇に慣れた目を凝らして隣に向けてみれば、鬼太郎が寝ているはずの小さな布団が捲りあがっており、そこにあるはずの姿が忽然と消えていた。
もしや途中で目覚めて、勝手に廊下に出てしまったのかもしれない。慌てて立ち上がり、外を見ようとナマエが襖に手をかけた次の瞬間。ゴーッという突風が吹き抜け、それと同時にたくさんの
淡紅色の花弁が部屋の中に舞い込んだ。
「・・・桜の、花?庭の桜の木はまだ咲いてないはずなのに、なんで・・・」
寝巻きについた花びらを摘みながらナマエが小さく呟けば、ふいに「キャッキャッ」と無邪気な笑い声が耳に飛び込んでくる。襖の間をすり抜けナマエが廊下に出れば、縁側には楽しそうに手を空に掲げる鬼太郎の姿があった。
急いで駆け寄り、小さな身体を抱き上げる。怪我はないかとぺたぺたと顔や身体を触って確かめていれば、くすぐったいのか鬼太郎は身を捩りながら楽しそうに声を出した。
「良かった・・・怪我はないみたい」
「けぇあ?」
「そう、怪我したら痛い痛いになっちゃうの。だから勝手にどこかに行っちゃダメよ」
ほっとため息をつきながら零したナマエの言葉に、鬼太郎はまた無邪気な笑顔を浮かべると、そのままナマエの腕の中に大人しく収まった。
優しく鬼太郎の頭を撫でてやれば、何時ぞやのように親指を吸いながら右瞼を閉じて寝入っていく。その姿が先程の水木の姿を彷彿とさせ、ナマエは思わず小さく笑い声を漏らした。
「本当に親子そっくり」
血の繋がりはないが、水木と鬼太郎の間には確かな絆があるのだろう。共に過ごした数ヶ月の間だけでも、仕草や表情など、二人の似通った部分をナマエはたくさん見つけていた。
自分もいつか、水木と鬼太郎のような関係になれるだろうか。そんなことを考えていれば、ふいにビュウッと強い突風が横から吹き抜ける。
ぎゅっと鬼太郎を抱きしめながら視線をやれば、庭には可憐な花弁をたわわに携えた桜の木がそびえ立っていた。つい昨日まで枝についていたものは全て蕾だったのに、いつの間に花開き満開になっていたのだろう。
風に乗って、数多もの花びらがナマエと鬼太郎の頭上に降り注ぐ。まるで桜の雨が降っているようなそんな情景に目を奪われていれば、かつんっという高らかな下駄の音がどこかで鳴り響いた。
「やはり、桜は赤よりこの淡い色がよう似合う」
穏やかで、透き通るような柔らかい声。はっと息を飲んでナマエが視線を下ろせば、いつの間にか桜の木の下には、花を見上げるようにして人影が立っていた。
水木とよく似た白い髪をした、
次縹色の着物姿の男の姿。後ろ姿で顔は見えないが、まるでこの世のものではないかのように、男は全身から淡い光を放っていた。
普通であれば恐怖に慄くであろう情景であるのにも関わらす、なぜだか不思議と嫌な感じがしない。ただ黙ってナマエが背中を見つめていれば、ふいに男がこちらに振り返った。
白髪の隙間から見えた
四白眼が、じっとナマエの腕の中の鬼太郎に向けられる。一拍置いて、ゆるりと気が抜けたように目を緩めると、男は何かを噛み締めるようにして小さく頷いた。
「ナマエ」
「・・・っ!?」
「我が友と息子のことを頼んだぞ」
「・・・友?むす、こ?」
「お前たちの描く未来が楽しみじゃ」
「・・・まっ待って!貴方、もしかして・・・!」
ナマエが慌てて声をあげたと同時。再び突風が吹き荒れたかと思えば、無数の桜の雨が視界を遮えぎり、目の前が何も見えなくなる。しばらくして空を舞っていた花びらが全て地面に落ちた頃には、男の姿は忽然といなくなっていた。
狸に化かされたのか、はたまた寝ぼけて見た幻なのか。呆然とナマエが立ち尽くしていれば、少し遠い場所から襖が開く音がして、バタバタと廊下を走る足音が聞こえてきた。
その音に我に返ったナマエが振り返れば、血相を変えてこちらに向かってくる水木の姿が見える。彼はこちらにたどり着くと徐にナマエの肩を引き寄せ、腕の中の鬼太郎もろとも強く抱きしめた。
「ナマエ・・・っ、良かった。起きたら二人ともいなくなっていたから、驚いた」
二人の存在を確かめるように、水木の腕の力がぎゅうっと強まる。はぁと深く吐き出された安堵のため息に、ナマエは夢から醒めたような感覚に包まれた。
「ごめんなさい・・・鬼太郎くんが起きてしまったから、外であやしてたの」
先程の出来事をどう説明したらいいのか分からず、かと言って心配をかけてはいけないと、ナマエは思わず嘘をついてしまう。
そんな言葉を受けて、水木は少しバツが悪そうに眉を八の字に曲げた。
「そうだったのか。すまん・・・全く気づかずに」
「ううん。水木くんは明日もお仕事だもの、気にしないで。それにもう寝たから大丈夫よ、ほら」
すやすやと寝息をたてる鬼太郎の様子を覗き込み、「良かった」と安心したような声を漏らした後、水木はそのままナマエの方に視線を寄越す。じっとこちらを見つめてくる真っ直ぐな瞳に、ナマエが照れたように首を傾ければ、ややあって水木の手がナマエの頭上に触れた。
彼の指先には小さな淡紅色の花弁が一枚。花びらがいつの間にか髪についてしまっていたのだろう。水木は不思議そうに花弁を眺めた後、そのまま庭の桜の木に視線を向け、驚いたように目を見開いた。
「いつの間に咲いたんだ?もう満開じゃないか」
「本当に・・・。急に気温が暖かくなったからかしら」
「・・・」
「・・・水木くん?」
惚けたように口を開け、吸い込まれそうなほどに桜の木を見つめる水木の姿に、ナマエは思わず彼の着物の裾をくいっと引っ張る。はっと我に返った水木は、ようやく深く息を吐いた。
「すまない。桜の木を見ていたら、何か大事なことを思い出しそうな気がして・・・」
「・・・大丈夫?」
「多分・・・まだ寝ぼけているんだと思う」
「明日も仕事なんだし、そろそろ布団に戻りましょう」
「あぁ。ところで、ナマエ」
「なぁに?」
「・・・呼び方、また戻ってる」
「あっ、ごめんなさい。癖がなかなか抜けなくて・・・」
「君ももう水木になったんだから」
「・・・そうね。早く慣れなくちゃ」
いつの間にやら降りてきていた水木の手がナマエの頬を優しく撫でる。無骨な指先にすりっと頬を寄せながら、ナマエは擽ったそうにはにかみ、水木を見上げた。
「──さん、行きましょう」
ゆっくりと大切に彼の名を呼べば、水木はきゅっと目を細め、噛み締めるようにして頷く。
春の喜びを奏でるように桜の雨が降り注ぐ中、微笑む愛しいその姿は、先程見た不思議な男によく似ていた──。
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