こんなにも自分が心の狭い人間だなんて思っていなかったと、名前はただソファーに座りながら目の前の光景をじっと眺めていた。
部屋の中央に置かれた長机の前には、真剣な面持ちで鉛筆を動かすエリとそれを見守るミリオの姿。一生懸命紙に書かれていく字はしっかりと形を成しており、数週間前のミミズが這うようなものとは月とすっぽんであった。
文字を全て書き終わると満面の笑みでそれを掲げるエリの姿にほんのりと心が温まる一方で、屈託のない笑顔で彼女の頭を撫でるミリオの姿に心がチクチクと痛み出す。昨日食べた魚の子骨が喉の奥に刺さってしまっているのかもしれないなんて、そんな馬鹿げたことを考えながら、名前は机の上に置かれた三つのマグカップをトレーの上に集めた。
「もう五時だから、そろそろお部屋に帰らないとね。後片付けしとくから、ミリオはエリちゃんを部屋まで送ってあげて」
「ありがとう名前!じゃあ行こうかエリちゃん」
「うん。名前お姉ちゃん、お勉強教えてくれてありがとう!またね」
ヒラヒラと左右に振られたエリの手を、ミリオが優しく掴み取る。その瞬間、パッと花咲くような笑顔を浮かべてミリオを見上げるエリを見て、名前の心臓にまた棘が突き刺さった。
あぁこれはとてつもなく重症だと、己の不甲斐なさに打ちひしがれ、名前はただカップに残ったオレンジジュースを見つめることしかできなかった。
我儘セレナーデ
「で。一体全体どうしたの?」
頭上から降ってくる優しい声。その問いかけに、名前は真正面からミリオに抱き着いたままじっと黙りこくる。
何故だか元気のない様子の名前を見て心配になったのか、エリを送った後、寮の共有スペースに戻ってきたミリオは、名前に自分の部屋に来るかと声をかけてきた。無言で小さく頷けば、そのまま彼の部屋へと誘われる。
部屋に入っても尚、少しふてくされたような表情の名前を見て、ミリオは問い詰めることなどはせず、『何か俺にできることはある?』といつものように朗らかな笑顔を向けてきてくれた。そんな彼に、名前は両手を大きく広げて『ぎゅうって抱きしめて』とねだったのだ。
お安い御用と言わんばかりに、彼の逞しい腕が名前を包み込む。それだけで先程までのモヤモヤが少しずつ解けていくのだから、恋とは本当に摩訶不思議なものだ。
しかしこれ以上大切な恋人を困らせてはいけないと、名前はゆっくりと唇を開いた。
「私、嫌な女になっちゃった」
「名前が?なんで?」
「・・・ヤキモチ、焼いちゃったの」
「へ?誰に?」
きょとんと目を丸めながら、ひとつひとつ丁寧に反応してくれる声に、名前は思わず小さくため息をついてしまう。
そうだった。彼は女心にはてんで疎い部類の人間だったではないか。片思い期間中もそれはそれは酷いもので、二年間猛アタックしていたのにも関わらず、告白して初めて名前の気持ちに気づいたという前科者であった。そんな彼に、今この心情を何も言わずとも悟ってくれというのはあまりにも酷だろう。
きちんと説明しなければと、名前はミリオの胸に埋めていた顔を上げ、しっかりと彼のつぶらな瞳と向き合った。
「私が、エリちゃんに嫉妬してるの」
「・・・えーっと、それは多分・・・俺のせい、だよね?最近はエリちゃんにかまってばかりで、二人の時間が全然取れてないから」
少しだけ身に覚えがあったらしい。しょんぼりとしょげたように眉を八の字に曲げると、ミリオは名前のおでこの髪をさらりと撫で上げた。
「ネジレちゃんに言われてたんだけどなぁ・・・。『口外できなかったとはいえ、死穢八斎會の事件で色々と名前に心配かけて泣かせたんだから、ちゃんとお詫びをしなさい』って。それなのに時間を上手く作れなくてごめんね」
ぎゅうっと抱きしめる力が強まったミリオの腕の中で、名前はふと一ヶ月前の出来事を思い出す。
死穢八斎會の事件が真っ只中な頃、ミリオはプロヒーローたちと共に動いていて、まともに寮に帰ってきておらず、戻ったとしても忙しいと理由をつけて名前とほとんど顔を合わせていなかった。それには理由があって、箝口令によって事件の詳細を話すわけにもいかなかったため、不器用な彼は事が収まるまで名前を遠ざけることしかできなかったのだ。
加えて、無事に事件を解決したにも関わらず、大怪我を負って入院を余儀なくされてしまったため、名前には散々心配をかける羽目になってしまったという訳だ。
確かにあの時はとても辛かったが、ミリオの方がもっと大変だったということは多方面から色々と話が入ってきたため知っている。だから今更、彼を責めるつもりも、代わりに何かをしろと言うつもりも端からない。
気にしないでという意味をこめながら、名前はミリオの背中に腕を回すと、彼と同じように力を目一杯こめて抱きしめ返した。
「あの時はミリオも色々大変だったんだから、もう気にしないで。それに、今はミリオがエリちゃんの傍にいて、あの子を支えてあげなきゃいけないのはちゃんと分かってるから」
「でも・・・」
「・・・あのね、嫉妬してるのはミリオがエリちゃんにかまってばかりいるからって理由じゃないんだよ」
「えっ、そうなの?じゃあなんで?」
「えっと・・・その、笑わない?」
「もちろんだよ!」
キラキラと純粋無垢な目でこちらを見てくるミリオに対して、自分の欲望をはっきりと口にすることはなんだかとても憚られる。けれど彼には察しては通用しないんだからと、名前は意を決したように言葉を続けた。
「・・・エリちゃんが、ミリオのこと好きになったらどうしようって考えたら、ヤキモチが止まらなくなっちゃって」
「・・・・・え?」
よしよしと、なだめるように名前の背中を上下していたミリオの手が止まる。ほら、だから言いたくなかったんだと、じとりとした視線を送る名前に対して、彼は頭にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾けた。
「あのさ、エリちゃんってまだ六歳だよ?俺たちと干支一周くらい違うんだよ?」
「わ、分かってるよ!でもっ、だって、十年後とかどうなるか分かんないじゃん・・・」
「えーっ、まさかそんな・・・」
「あのね!女の子にとって、幼い頃に出会ったかっこいいお兄さんって一生忘れられないもんなんだよ。それに十年後のエリちゃんなんて、めちゃくちゃ美少女になってるに決まってるじゃん!そうなったら私に勝ち目なんてないよ〜!!」
支離滅裂な妄想話だと笑われるかもしれないが、少女漫画や恋愛ドラマよろしく、有り得なくもない話だ。ミリオとエリの二人にそれが絶対に当てはまらないだなんて保証はどこにも無い。それに長年片思いをして、ようやく付き合えた大好きな彼氏なのだ。欲目に見てしまうのはしょうがないだろう。
駄々っ子の子供のように涙目になりながら、名前はそのままミリオの分厚い胸に顔を埋める。しかしながら何も反応を返して来ないミリオの様子を察して、呆れられてしまっただろうかと自分の言動を後悔し始めた矢先であった。
ふいに「大丈夫だよ」と暖かな声が返ってきて、名前は恐る恐る面を上げる。そこには変わらず、太陽のように優しい笑顔のミリオの姿があった。
「確かにエリちゃんは将来美人さんになるだろうけどね、全く問題ないから!」
「・・・なんで?」
「だって卒業したら、俺、名前にプロポーズするつもりなんだよね。そうなったら、もはや勝ち負けどうこうって問題じゃないよね?」
「・・・えっ!えぇっ!?」
予想打にしていなかった言葉。全身の熱が一気に燃えたぎるようにして、名前の体を駆け巡る。
口を上下にはくはくとさせていれば、ミリオは少し不安そうに「嫌?」と首を傾けた。嫌なんて、そんなことあるはずない。ぶんぶんと取れそうな程に首を横に振ったあと、名前はミリオの頬に自分の頬を引っ付けるように、勢いよく彼の首元にしがみついた。
「嫌なわけない!嬉しすぎて死んじゃいそう!」
「ははっ、それは困るな」
「絶対、絶対、約束だからね!」
「もちろん!俺は嘘をつかないよ」
約束を心に刻むように、ぎゅうぎゅうと互いに頬ずりして抱き合えば、真っ黒な嫉妬心なんて何処かにふっ飛んで行ってしまう。
「ミリオ、大好き」
「俺も世界で一番大好きだよ名前」
いつか訪れる未来を楽しみに、二人はじゃれ合うように口付けを交わした。
back
│
top