鳴り響く限り
何やら出汁のいい香りが鼻先をくすぐり、ゆっくりと瞼を開ける。気がつけばもう部屋の中は真っ暗で、薄いグレーのカーテンの隙間からは青白い街灯の光が差し込んでいた。
季節の変わり目の寒暖差にやられ、朝から高熱を叩き出してしまった金曜日。仕事を休んで朝からこんこんと寝ていたのが功を奏したのか、朝より身体のだるさが減っていた。熱も微熱くらいに下がっているように感じる。
サイドテーブルに置いていた体温計を脇に挟み、ペットボトルのお茶で喉を潤す。カラカラだった身体にじわじわと水分が染み渡る感覚にほっとひと息ついていれば、ピピピと脇から電子音が鳴り響いた。モニターに表示された『37.2』という数字。とりあえず平熱近くまで下がってきていて良かったと胸をなでおろしていれば、ふいにダイニングに続く部屋の扉がガチャリと音を立てて開いた。
「よぉ、起きたか」
「・・・なっ、んで・・・いるの?」
「なんでって・・・」
1DKの狭い一人暮らしの寝室に突然現れた人物の姿に、空いた口が塞がらない。
肩まで伸びた黒い髪に無精髭、そして気だるそうにこちらを見る黒い眼。黒のTシャツとズボンという闇に紛れてしまいそうな色を全身に纏った猫背の男──相澤消太は、気まずそうにボリボリと後頭部をかいた。
「・・・やっぱり誤爆か。まぁお前はこんな計算高いことやれんわな」
「誤爆・・・?」
「『高熱出た。食料ない。薬も足りない。助けて欲しい』って今日の昼くらいに、俺のとこに連絡が入ってたんだが」
ズボンの尻ポケットから出てきたスマホの画面を、ずいっと目の前に突き出される。確かに自分のアイコンから彼にメッセージが送られており、彼が先程告げてきたまんまの文字が画面に踊っていた。
昼過ぎに近所に住む会社の同期に送ったはずなのにと、己のスマホを慌てて確認すれば、どうやら三ヶ月前に最後の連絡をとっていた友人と彼のトーク欄がちょうど前後にあったらしい。高熱でうなされながら、必死に打ったものを誤って彼に送信してしまっていたようだった。
しかし何故、よりによって彼と間違えてしまったのか。過去の自分のポンコツ加減に呆然としていれば、ふいに私の腹の虫がぎゅうううっと甲高い音をたてた。
冷蔵庫の中が空っぽで、朝からろくなものを食べてなかったとはいえ、いくらなんでもこのタイミングはかなり恥ずかしい。けれどその何とも間抜けな音は、二人の間に流れていた気まずい空気を和らげるのに充分だった。
「・・・うどん、食えるか?」
「え・・・?」
「お前が寝てる間に、食えそうなもん作って置いて帰ろうと思ってな。勝手にキッチン借りてた」
「えっと、うん・・・ありがとう。じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」
「・・・あぁ。用意してくる」
そう言うと、彼はそのままキッチンへと消えていく。チチチッとコンロの火が灯される音が聞こえてきて、私ははっと我に返ったように額にへばり付いていた髪の毛を払った。
病人とはいえ、汗でベタベタになった顔を正面切って見せるのは忍びない。部屋の電気がつけられていなくて良かったと思いながら、とりあえずシャワーを浴びようと、着替えを引っ掴んで部屋を出た。
「あの・・・だいぶ汗かいちゃってるみたいだから、ご飯の前にシャワー浴びてきてもいい?」
「あぁ。ぶっ倒れんなよ」
鍋と睨めっこする後ろ姿に声をかければ、彼は振り返らないまま返事をした。飽きるほどによく見ていた光景なのに、数ヶ月ぶりに見ると胸の辺りが一気にザワついてしまう。本当に、自分勝手な女だと思う。
彼──消太はいわゆる元彼で、三ヶ月前に別れた三年ほど付き合っていた元恋人である。二十五の時に共通の友人を介して知り合って、しばらくはただの飲み友達のような関係性だったのが、私からのアタックの末、お付き合いが始まった。喧嘩もほとんどなく、週末は消太がうちで寝泊まりするという生活を送り、比較的平和で良好な関係を育んでいたと思う。
もちろん彼は普通のサラリーマンなんかよりうんと激務で、将来最前線で戦うプロヒーローたちを導き育てるという責任の重い仕事をしているということは理解していたし、応援もしていた。けれど彼の多忙さゆえに日毎にすれ違う事がだんだんと増えていってしまい、私にもついに限界が訪れた。
自分の三十歳の誕生日まであと一ヶ月。結婚や妊娠出産のタイムリミットと向き合えば、答えは自ずと決まっていた。生徒を守るためにひたむきに走る彼にこれ以上負担を課す訳にはいかないと、己の感情に蓋をして、私は彼と別れることを選んだのだ。
「別れよう」と告げた時、消太は特に何も聞かず、そして何も言わなかった。返ってきたのはただ一言、「分かった」という言葉だけ。
別れてから毎日泣いて泣いて泣き尽くして、三ヶ月目にしてようやく前を向こうと思ったところだった。なのに、なんでこうなってしまうのだろう。
そんな込み上げてきた様々な感情をぐっと飲み込んで、私は風呂場に滑り込む。さっとシャワーを浴びて汗を流せば、身体がずいぶんと軽くなった気がする。
そのままドライヤーも済ませ、新しいパジャマに身を包んで外に出れば、ちょうど箸を二膳手に持ってダイニングに向かう彼の姿が目に入った。
「ごめん、お待たせ」
「いや、今できたとこだ。悪いが職場から直行してきたもんでな。俺も一緒に食わせてもらってもいいか?」
「・・・うん、もちろん」
あっけらかんな顔をして言うけれど、きっと私の行動パターンや風呂の所要時間から逆算して、作り終える時間を考えてくれたのだろう。彼の後に続いてダイニングの椅子に座れば、テーブルの上には温かな湯気の昇る出来たてのうどんが置かれていた。黄金色の出汁、くたくたに煮込まれた白菜、ぷりっとした鶏肉と、どれもが食欲をそそってくる。
互いに目配せして手を合わせると、「いただきます」と静かに呟き箸を手に取った。フーフーと息を吹きかけながらうどんをすすり、汁を飲めば、出汁の旨みが身体中に染み渡り、身も心も温まる。
「・・・おいしい」
「食えそうか?」
「うん」
静かに答えれば彼は安心したように少し口角をあげた。その後はずっと無言だった。けれど互いにとても腹が減っていたのか、目の前の皿の中を空っぽにするのにはそう時間はかからなかった。
ごちそうさまと手を合わせ、マグカップに入った麦茶を飲んで一息をついていれば、彼は椅子にかけてあった仕事用のバッグから、ガサゴソと薬局のマークが印字された紙袋を取り出す。テーブルの上で差し出されたそれを受け取れば、中に入っていたのは風邪薬と栄養ドリンクであった。
「いつもお前が買ってたやつを選んだつもりなんだが、それであってたか?」
「・・・うん、合ってる。ありがとう」
思わず震えそうになる声を誤魔化すように頷けば、少しの沈黙が続いた後、彼は再びゆっくりと口を開いた。
「その・・・あれだ。誤送信だったとはいえ、部屋に勝手に入ったのは・・・悪かった。電話をかけてもメッセージを送っても全く反応がなかったから、部屋の中で倒れちまってるんじゃないかって思って・・・」
「・・・ううん、悪いのはこっちだよ。あのメッセージを送ってからさっき起きるまでずっと寝ちゃってて、消太からの折り返しの連絡に気づいてなかったのは私だもん。本当に、ごめんね」
「いや・・・。まぁ何もなかったんなら良かったよ」
「ありがとう・・・。でも部屋の中にどうやって入ったの?マンションの管理人さんに開けてもらったの?」
うちのマンションは、毎日大家さんが朝に玄関前の掃除をしている。以前頻繁に顔を合わせていたであろう彼なら、事情を話せば立ち会いのうえ部屋に入れてもらえたのかもしれない。そんな私からの素朴な疑問に、彼は口付けていたマグカップを机に起きながらゆるゆると首を横に振った。
「・・・合鍵」
「え?」
「『そっちで処分しといてくれ』って言われてたのに、なかなか捨てられずにしまい込んでた」
「・・・・・・」
「・・・我ながら、女々しいと思う」
まるで水滴を一粒、水たまりの中に落としたかのような静かな声が部屋に響き渡る。
その言葉を聞いて、カッと身体の体温が一気に上がったのを感じた。うどんを食べて体の芯まで温まったせいなのか、はたまた再び熱が上がり始めているのか。
『熱喉鼻に効く!』とキラキラな装飾文字が施されたパッケージを手に小さく息を飲めば、彼の視線が机の上の食器たちに向けられる。黒々とした目が捉えていたのは、私の朱色の箸より少し長い黒の箸と、重なり合う二色の釉薬が美しいお揃いで買ったマグカップたち。
熱に浮かされた今なら素直に話せるかもしれないと、弱虫な私はぎゅっと薬の箱を握りしめながら前を向いた。
「私もね、消太のお箸とコップ・・・捨てれなかったんだ」
そう。自分から別れを告げた癖に、部屋の中から彼の面影が消えるのが耐えられなかったのだ。全てをなくしてしまえば、もう二度と会えなくなってしまうような気がして──。本当はそれが一番いいはずなのに、三十にもなって過去の恋愛をいつまでも引きずってるだなんて、まるで初恋を覚えたばかりの高校生のようだった。
でもきっと、それほど彼と過ごした三年間はかけがえのないもので、忘れられない愛しいものだったんだと思う。
「自分から別れようって言った癖に、おかしいよね」
「・・・そうだな」
「あはは・・・ごめん、変な話して」
「いや、こっちには好都合だ」
「・・・え?」
「・・・・・・」
「消太?」
「俺とお前、・・・まだやり直すチャンスがあると思っても、いいか?」
真っ直ぐに向けられた消太の想いに、胸に温かなものがじわじわと広がっていく。彼は静かに席を立って私の前に跪くと、私の頬に零れた涙を優しくすくい取った。
「俺はひねくれ者なうえに、なかなか未来に繋がる言葉を発してこなかったから、名前を不安にさせてたかもしれないが・・・」
「・・・うん」
「お前にはこの先もずっと隣にいて欲しいと思ってる」
「・・・・・・・っ」
「だから、今度は互いにちゃんと話をしよう。お前も俺と同じ気持ちでいてくれてるなら」
かさついた指先が頬を撫でる感覚がこそばゆくて、不器用に紡がれた愛の言葉がとても温かくて、私はまた大粒の涙を零す。そしてそのまま消太の胸に飛び込めば、彼の腕が強く全身を包み込んでくれた。
「もう黙って逃げないから、消太も私のこと絶対に離さないで」
子供のように泣きじゃくりながら告げた約束の言葉は、彼の柔らかな唇の中に消えていった。
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