病院を退院して、ようやく職場復帰を果たしたのは、ちょうど生徒たちの期末テストが終わった頃であった。久しぶりに校門をくぐり、校長やリカバリーガールを始め、先生方に復帰の挨拶を済ませた後は、溜まりに溜まった仕事を次々にさばいていく。
一週間ぶりの仕事はいたって順調で、何事もなく一日が過ぎていった。ただ一つの問題を除いては、だが。
その問題とは、朝イチ・昼休み・放課後と焦凍が隙あらば保健室に顔を覗かせにきて、私の顔見る度安心したように微笑むもんだから、居合わせた生徒たちが大層ザワついてしまったのだ。きっと明日にでも、尾ひれのついた妙な噂が回ってしまうだろう。もうすぐ訪れる夏休みの間にでも、自然と噂が風化していきますようにと願いながら片付けと戸締りを済ませた私は、そのまま一人学校を後にした。
電車に揺られ最寄り駅にたどり着くと、パトカーが駅前ロータリーを巡回しているのが目に映る。さらに大通りでは、パトロール中の近所の大手ヒーロー事務所のヒーローたちとすれ違った。事情聴取の際、警察が『近隣のパトロールを強化する』と言っていたが、実際にきちんと実行してくれているらしい。そういえば、通勤時も帰宅時も雄英高校の最寄り駅で複数のパトカーが巡回していたっけ。守られているという事実に私の心は安堵感に包まれ、自然と足取りも軽くなっていた。
無事に家の前にたどり着いた後は、念の為キョロキョロと左右前後を安全確認する。静かな住宅街には怪しい人影はなく、ただ青白い街灯がジジっとうなる音だけが鳴り響いていた。
「ニャー」
そんな中、ふいに猫の鳴き声がして視界に何やら黒い影が横切る。影に釣られて視線を向ければ、真っ白な猫が柱をするすると伝ってマンションのゴミ捨て場の屋根に登っていく姿が見えた。ニャーと一鳴きして振り返った猫は、光を浴びて煌めく水面のような、ターコイズブルーの目をじっとこちらに向ける。
記憶の中で重なり合う、儚い蒼。
──その色は、いつも私の心を掻き乱す。
思わず立ち止まって猫の姿を見つめていれば、ふいに背後からカツンとアスファルトを蹴る音がした。
「よぉ、元気そうだな」
「・・・な、んで・・・ここに?」
「おいおい、つれないなぁ。一応俺は命の恩人だぜ?」
まるで舞台の上の俳優のように両手を広げ歩いてきた蒼い目は、楽しげに三日月の弧を描く。
先程までは誰もいなかったはずなのに、突然闇から湧いて出たかのように現れたツギハギ肌の人物は、一週間前、自分の命を救ってくれた恩人の男であった。
事件の日も、突然現れ突然消えた。そして再び私の前に姿を現した彼の真意が少しも読めない。思わず身構える私に呼応するかのように、ゴミ捨て場の屋根にいた白い猫が、男に向かってフーッと逆毛を立てて唸った。
「そんな身構えんなって」
「・・・以前は、助けてくださってありがとうございます。その、・・・何か御用ですか?」
「用も何も、俺はただお前に貸した服を返してもらいに来ただけだよ」
『服』という彼の言葉に、クローゼットにしまってある黒いパーカーのことを思い出す。見知らぬ男に襲われた際、目の前の男が貸してくれたものだ。名も名乗らずに去っていってしまったため、どうしたものかと思いながらも、とりあえず洗濯して部屋に保管していたが、どうやらそれを取りにきたらしい。
あっけらかんと告げる声に、身構えていた気が少し緩んだ。
「・・・洗濯して置いてあるので、すぐ持ってきます」
そう答えると同時、ふいにポタポタと何やら水音が滴り落ちる音が耳に入る。音に釣られて視線を向ければ、男の右腕にはぱっくりとした五センチほどの傷があり、そこから鮮血がしたたり落ちていた。
「あの・・・っ、血が・・・!」
「ん?あぁ・・・別に大したことない」
さして気にも留めていない様子で、男は乱暴に反対の腕で傷を拭う。痛みなど感じていないように、真顔のまま血を拭き取るその姿に、なぜだか胸の奥底が激しく軋んだ。
普通に考えれば、これ以上この男に関わるべきではないと頭では分かっていたはずなのに──。
光の宿らない蒼に吸い寄せられるかのように、私は気がつけば彼の方へと歩み寄っていた。
「手当てします。助けてもらった恩を、返させてください」
04
「とりあえず水で傷口を洗って、拭く時はこのタオルを使ってください。新しく出したやつなので、綺麗ですから」
男を家に招き入れた私は、テキパキとした口調で指示を飛ばしていく。何も無いと信じたいが、もし何か起きた場合でもすぐに逃げれるように玄関のドアは施錠せず、スマホもパンツの後ろポケットに携えた。
新品の白いガーゼタオルを渡せば、男は無言ながらも存外大人しく指示に従い、案内した洗面所へと入っていく。勢いよく蛇口から水の流れ出る音が聞こえてきた時、私はようやくはぁっと一息をついた。
自分でもなんでこんな行動を取ってしまったのか、よく分からない。けれど、怪しいといえども彼は命の恩人なことには変わり無いし、職業も相まって、怪我をしている人を放っておくこともできない性分だった。
自分から申し出たからには最後までやりきらなければと、己に言い聞かせるように小さく頷くと、私は部屋に戻ってクローゼットの中から袋に入ったパーカーを引っ張り出した。机の上にそれを置いていれば、男が傷口をタオルで拭いながら部屋の中に入ってくる。
「洗ったぜ」
「あっ、えっと・・・じゃあ、手当てするのでここに座ってください」
ローテーブルの前に置かれた小さな座椅子を勧めれば、男はその上にあぐらをかいて座りこむ。少しばかり楽しそうに唇の端をあげているのは気のせいだろうか。向けられる視線に気づかないフリをして、私はそのまま彼の右腕側に腰を下ろし、傷跡を確認する。
傷を負ってからそんなに時間が経っていないのか、まだてらてらと血が滲んではいたが、傷口はそんなに深くはなさそうだ。親指を除いた左の四本の指をかざして個性でガーゼを生み出し傷口を覆うと、今度は右の人差し指と中指を合わせて包帯を繰り出す。それをくるくるとキツめに巻いて結べば、応急処置の第一段階はクリアだ。
「しばらくこのままでいてください。止血して血が止まってから傷薬を塗って仕上げますね」
そう告げれば、男は何も言わずに、しげしげと手当てが施された腕を眺めていた。
「私の個性、薬とか包帯とかの医療品を生み出せるんです。って言っても、応急処置レベルくらいまでのものしかできないですけどね。個性を解いた後も、具現化したものはそのままで消えないので安心してください」
聞かれてもいないのに、ペラペラと語ってしまうのは緊張しているからだろうか。
もちろん医療品といえども、万物のものが精製できるわけではない。自分が服用したり塗布した薬か、はたまたそれらに含まれる成分を組み合わせて精製するかの二択のことができるのだ。
もちろん精製に関しては薬の知識が必要で、そのために雄英高校を卒業した後、私は大学で薬学の勉強に励んでいたのである。ちなみに包帯やガーゼに関しては、幼い頃に怪我を負った際、ガーゼなどの繊維を極小量傷口を通して身体に取り込んでしまったようで、たまたま作れるようになったという副産物になる。
「へぇ・・・。ところで、どれくらいこうしてたらいい?」
「えっと、大体10分くらいですね」
さて、それまでどうしたものかと視線を泳がせていれば、ふいにぎゅるると私の腹の虫が大きな音を立てた。
「・・・すみません」
「もう晩飯の時間だもんな」
ククッと小さな笑い声を漏らした男は、片目をキュッと細くする。暗闇ではなく、彼の火傷跡やツギハギ肌を電灯の下で目の当たりにした時は一瞬ギョッとしてしまったが、それ以外は普通の人と何も変わらない。
冷蔵庫の中身を思い出していれば、冷凍のうどんが残っていたことを思い出す。おかずも作り置きが残っていたから、何個か温め直したらいいだろう。
「あの・・・」
「なんだ?」
「良かったら一緒にご飯食べませんか?大層なものはなくて、うどんと作り置きのおかずとかなんですけど・・・。あっ!勿論、会ってまだ二回目だし、危ないと思ったりいらない場合は遠慮なく断ってください」
恐る恐る尋ねれば、男は呆気に取られたかのようにくるりと目を丸めた。その反応は至ってまともだ。二度目ましての相手に、ご飯をすすめられても困るだろう。
「いや、やっぱり今のなしで・・・」と前言撤回をしようとした瞬間、男はボヤくように口を開いた。
「俺、うどんより蕎麦派なんだけど。温かい方の」
「・・・残念ながら、蕎麦は切らしてます」
「なら、うどんで我慢してやるか」
「・・・・・・」
「なんだよ」
「いえ・・・私の周り、うどんより蕎麦派の人が多いなって、思って・・・」
先程まで流暢に話せていたのに、突然喉の奥がカラカラになったような気分で声を絞り出す。
焦凍も、そして未だに心に巣食うあの人も。みんな、みんな、好きなものが一緒だ。そして澄み渡る空のようなターコイズブルーの瞳も、みんな、みんな、同じだった。
ぼんやりとした思考の中でゆっくりと呟いた後、苦い記憶をかき消すように、私はおもむろに立ち上がる。
「用意するので、しばらく待っていてください」
男は何も言わなかった。座椅子の上で胡座をかいて、止血していない左腕で頬杖をつきながら、ただじっと天井を見上げていた。
その後晩御飯を二人分用意して、ローテーブルにL字に並んでさっと食事を済ませる。男はただ静かに「うまいな」と呟いて、綺麗に平らげてくれた。
その後は本題の傷の手当てに移る。ガーゼを宛がっていた場所はきちんと血が止まっており、私は再び個性で薬を生みだすと、それを男の傷口に塗り広げていった。
「化膿止めの抗生物質と、皮膚を修正する組織修復成分が入ってる薬です。軟膏ケースに一週間分の薬も作っていれておくので、毎晩お風呂上がりに塗ってくださいね」
薬を塗った後は、ガーゼと包帯を巻いたら完成だ。棚から水色の空の軟膏ケースを取り出して、その中に精製した薬を注入していく。
出来上がった薬を男へ手渡せば、彼はそれをズボンのポケットにねじ込みながら、小さくため息をついた。
「変わんねぇな、ほんと」
「え・・・?」
「良い人でいすぎると、悪い奴に漬け込まれていつか痛い目見るぞ」
ほらまた、ひどく含みのある言い方をする。
けれどどういう意味かと問い正すことなど、できなかった。きっと、彼と私の間には超えてはいけない何かがある。それを聞いてしまったら、後には戻れなくなるような気がして、私は開けかけた唇を閉じ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
男はそんな私の様子をじっと見つめたあと、再びため息をつくとすくりと立ち上がる。
「そろそろ帰る」
「え?あのっ、パーカー・・・!」
慌ててパーカーを掴み取り、手ぶらで玄関の方に進んでいく男を呼び止めたものの、彼は振り返らなかった。
「またな」
ただその一言を残して、男は闇へと消えていった。
じとりじとりと、額に汗が浮かぶ。残り火のような得も言われぬ雰囲気のせいなのか、はたまた夏のうだるような暑さのせいなのか。
ベランダに差し込み出した、巡回中のパトカーの赤色灯の光がチラつく部屋の中で、私は忘れ去られた黒をぎゅっと握りしめた。
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