『うちの家族はみんな、俺のことなんて誰も見てないんだ。俺はずっとひとりぼっちなんだ』


 それが、幼い頃からの幼なじみの口癖だった。
 暑い日も寒い日も、瀬古杜岳で個性訓練を続ける彼のお腹に、指先から作り出した火傷の薬を塗り広げてやりながら、私はただその揺れるターコイズブルーを見上げる。


『・・・そんなことないよ。おばさんだって、冬美ちゃんだって、いつも燈矢のこと心配してる』
『あんなのただの偽善だよ。あいつらは俺に情けをかけることで、自分はまだマシな存在だって思いたいだけだ』


 彼はいつも、遠くを見つめていた。差し伸べられるものを全て恨むように跳ね除けて、ただひたすらその身を炎に焦がす。


『名前ちゃんだけだよ。俺のことをちゃんと見てくれるのは』
『・・・燈矢』
『お願いだから、絶対に俺の前からいなくならないで。死んでも裏切らないで』


 伸びてきた燈矢の指先が絡まって、印を刻むかのように、私の手の甲にギリっと爪が立てられる。闇に溶けゆく蒼から、零れ落ちる一粒の涙。縋るように降りてきた唇は、ただひたすら愛を求める飢えた獣のようだった。



05




 清澄な白檀の香りが立ち込める畳の部屋。線香の煙が揺らめく仏壇の前でしばらく手を合わせた後、私は静かに瞼を開いた。
 仏壇に置かれた一枚の写真には、かつての幼なじみの姿が映っており、まだ大きい学ラン姿が初々しいその写真は、中学の入学式の時に撮ったものだと聞いている。自分はとっくに社会人になっているというのに、彼の時間はこの十年前から少しも動いてはいない。
 けれどまだ、あの時触れた火傷しそうなほどの体温も、震える声も、絶望にかられた涙も、昨日の事のように全て覚えていた。
 そして彼──・・・燈矢がいなくなってしまった日のことも。


「ねぇ、燈矢。私があの日あそこにいてたら・・・何か少しでも変わったのかな」


 私が看護教諭になることも、焦凍が私に依存することも、全部なかったのかもしれない。懺悔するようにぽつりと呟いても、当然答えが返ってくることはなかった。
 代わりに廊下からギシギシと床が軋む音がしたかと思えば、襖がゆっくりと開かれ、ひょっこりと冬美ちゃんが顔を覗かせる。「お待たせ〜!」とにこやかな笑顔を浮かべて部屋に入ってくる彼女の手には、生成色の浴衣と様々な色の帯が握られていた。


「ありがとう。ごめんね、冬美ちゃんの手を煩わせちゃって」
「全然だよ〜!しまったままで着ないと勿体ないし。人に着付けるのは久しぶりだけど、さっき焦凍で練習できたから問題ないと思う」


 首を横に振りながら、冬美ちゃんはそのまま浴衣を畳の上に広げる。白の細かな縦縞の地に、濃紺の竜胆が咲き乱れる美しいそれは、彼女の母が昔よく着ていたものらしい。その浴衣の横に、三つの帯が丁寧に並べられていく。


「帯はどれがいい?同じ系統の色で揃えたら大人っぽい感じだし、あえて別の色にしてもアクセントになってオシャレだと思うよ」


 竜胆の花と同じ淑やかな濃紺の帯の他に、柘榴の果実のように深い赤の帯、そして晴れ渡る空のような澄んだ水色の帯と、様々な色合いのものが並ぶ。照らし合わせるように、浴衣と帯に交互に視線を動かした後、私は静かに水色の帯を選びとった。


「これにする?名前ちゃん、昔からこの色が好きだもんね」
「・・・うん」


 記憶の中で涙の滲むターコイズブルーが、じわじわと胸を蝕むように浮き上がった。
 「じゃあ着付けていくね」という冬美ちゃんの指示に従って、私はそのまま襦袢に身を通していく。
 今日は、先日焦凍と約束した近所の神社で夏祭りが行われる日だ。焦凍がその話を冬美ちゃんにしたらしく、彼女が「それなら着付けてあげるから浴衣を着ていきなよ」と提案してくれたらしい。
 数年ぶりに招かれた轟家は、昔とちっとも変わっていなかった。


「焦凍が学校で迷惑かけてない?」


 しゅるしゅると布の擦れる音と共に、肌着の紐が結ばれる。ぽつりと漏れ出た冬美ちゃんの声に、私はやんわりと首を横に振った。


「全然。私はただ、傍で見守ってるだけだよ。焦凍は過去を乗り越えるために、自分と向き合って頑張ってる」
「そっか・・・。本当に雄英に入ってくれて良かったと思う。一時はどうなることかと気に揉んでたんだけど、最近はすごくいい顔になってきてるなって夏と話してたの」
「きっと頼れる先生たちと、素敵なクラスメイトたちに囲まれてるお陰だね」
「ふふっ。そうだね。それもあるけど・・・やっぱり、名前ちゃんの存在が大きいんだと思う」
「・・・私?」
「うん。やっぱり名前ちゃんが傍にいてくれるだけで、焦凍は心強いんだと思う。小さい頃、辛かった時に傍にいてくれたのが、両親や兄弟じゃなくて・・・名前ちゃんだったから」


 まるで懺悔をするかのように告げられた言葉に、私はきゅっと下唇を噛んだ。

 轟家の四番目の子として産まれた焦凍は、それはそれはとても辛い環境で育っていた。一人だけ家族と生活を隔離され、いつもひとりぼっちで個性訓練に明け暮れる日々。兄弟たちはみんな、焦凍に近づくことも、会話をすることさえも許されなかったらしい。
 けれど、燈矢の幼なじみで他人の家の子である私に対してだけは、あの轟家の主・エンデヴァーといえどもあまり強く出ることが出来ず、少しだけ警戒網が緩んでいたようだった。
 燈矢がいなくなり、漠然とした日々を過ごしていた頃。学校からの帰り道、ちょうど轟家の前を通った時に、ふいにすんすんとすすり泣く声が耳に飛び込んできた。導かれるようにして幼い頃駆け回っていた勝手知ったる敷地内を進んでいけば、中庭の大きな木の傍で隠れるようにして泣いている焦凍の姿を見つけたのだ。


『焦凍・・・?』
『っ、名前・・・ちゃん』


 大きな目に涙を溜めて、べそべそと鼻水を流しながらこちらを見上げる焦凍に視線を合わせるようにして腰を曲げる。小さな指先には煤が付き、皮膚がところどころ赤く変色してしまっていた。
 その姿が、いつも瀬古杜岳で睫毛を震わせていた燈矢のものと重なる。喉の奥がつかえて、息ができなくなってしまいそうだった。


『・・・焦凍。手、貸してごらん』


 恐る恐る差し出された指先に、個性で精製した火傷の薬を優しく塗り込んでいく。ぱちぱちと目を瞬かせる焦凍を安心させるために、私は貼り付けたようなぎこちない笑顔を向けた。


『はい、これで大丈夫。焦凍が怪我した時は、私がすぐに飛んできて治してあげる。辛い時は傍にいてあげる。だから・・・もう泣かないで』


 赤と白の隙間から覗いた瞳に、僅かに光が灯る。
 それを見て、自分の心がほんの少し救われたような気がした。
 胸の奥にこびり付いた、大切な人を守れなかったという後悔が、形を変えて焦凍に呪いをかけてしまったんだと思う。



「本当にいつもありがとう。これからも、焦凍のことよろしくね」



 生成色の浴衣を腕に通し羽織れば、そのまま手際よく整えられ、あっという間に帯が結ばれていく。それを鏡越しに眺めながら、冬美ちゃんから告げられたお礼の言葉に、私はただ曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
 違う、違うの。私はそんな大それた人間じゃない。自分の心を救うために焦凍を利用した。そして、一度は離れたものの、今また彼に求められることで自分の存在意義を満たしている。とてつもなく弱くて醜い人間なのだ。
 「よしっできた!」「お祭り楽しんできてね」と嬉しそうに声を弾ませる冬美ちゃんにそんなことを今更懺悔することも出来ず、私はただ静かに「ありがとう」と返す。そして貴重品やスマホを入れた巾着を持って玄関に向かえば、そこには同じく浴衣に着替えた焦凍の姿があった。
 シンプルな濃紺の浴衣に錫色の帯を占めた彼は、制服姿と違っていつもよりぐんっと大人びて見える。
 足音に気づき振り向いた彼の視線が、下から上へと二回ほど往復した。


「いいな、浴衣。似合ってる」
「・・・ありがとう。焦凍もいつもより大人っぽいね」


 私の言葉に、焦凍は少しくすぐったそうに口の端を上げる。そのまま玄関先まで見送ってくれた冬美ちゃんに手を振り、二人並んで夜の道に繰り出した。
 カランコロンと、下駄の心地よい音を響かせながらしばらく歩いていけば、お目当ての神社にたどり着く。所狭しと屋台が並ぶ参道は人々の活気で溢れており、ほんのりと光を灯す赤い提灯が祭りを華やかに彩っていた。


「すごい混んでる」
「あぁ・・・昔より屋台が増えてる感じがするな」
「ほんと。あっ!ほら見て、伸びるチーズのやつとかの屋台もある。昔はりんご飴とか焼きそばとか、オーソドックスなのがちょっとあるくらいだったのにね」


 祭りに来るのは八年ぶりくらいだろうか。エンデヴァーが不在の時、幼い焦凍の手を握ってこっそり祭りに遊びに来ていた思い出が自然と蘇ってくる。


「ねぇ、覚えてる?オールマイトの絵がプリントされた袋の綿あめを買おうと思って並んでたら、目の前で売り切れちゃって、焦凍が大泣きしちゃったこと」
「・・・そんなことあったか?」
「あったよ!他も探したけど見つからなくてね。でも全然泣き止まないから、無地の袋に入ったやつ買って帰って、家でオールマイトの切り抜きをいっぱい貼り付けてあげたら、けろっと機嫌が直ったんだよ」


 他のヒーローじゃ嫌だと、珍しくだだを捏ねて泣きわめく焦凍を背負いながら、参道を歩き回ったっけ。懐かしさから思わずクスクスと笑い声を漏らして焦凍の方を見れば、彼はふっと小さく笑みを零していた。
 てっきり要らぬことを言うなと口を尖らせているかと思ったのに。向けられた思わぬ表情に、胸の奥で何かが軋んだ音がした。


「良かった。ようやく笑ってくれた」
「え・・・?」
「名前ちゃん、うちに来た時からあんまし元気なかったから」
「・・・そう?全然、いつも通り元気だよ」


 嘘。燈矢のことで頭がいっぱいで、焦凍に対しての罪悪感でいっぱいだった。気付かぬうちにずっと顔が強ばっていたのかもしれない。
 濁すように呟けば、「そっか」と一言告げただけで、焦凍はそれ以上何も言わなかった。彼の方が、私よりずっとずっと大人なのかもしれない。


「行こう」

 
 差し出された手は、もうあの頃の小さなものじゃない。眩い優しい光に縋るように、私は焦凍の手に自分の手を重ねた。
 ──私もまた、愛に飢えた獣なのかもしれない。
 



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