22
パチンパチンと泡が弾けるかのように、大切にしまっていた記憶が、薄れゆく意識の中で蘇る。
──あいつとの出会いはそう、八年も前のこと。
その日の天気は晴天。波も穏やか。幼い頃から慣れ親しんだ海水浴場。条件は全て良好だった。
小学校のクラスメイトたちを連れ立って遊びに来た海。『大人がいないから危ないよ』と止める気弱な幼なじみの声を無視して、俺はそのまま海へと飛び込んだ。
水中に入ってもやはり波は穏やかで、まだ少し肌寒さを感じるものの、人がほとんどいない海の綺麗さは格別である。透明度の高い波間は太陽の光が乱反射して、まるで宝石のように光り輝いていた。
しばらく潜ったあと、息継ぎをするために俺は水面へと顔を覗かせる。岸の方を見れば、意気地無しの幼なじみはおろおろと砂浜を右往左往しており、引き連れてきたクラスメイトたちは足に水をつけただけで『冷たい!』と身体を震わせていた。
『何してんだよ。お前らも早く来いよ!』
『寒すぎるってー!!』
『もうちょっと身体が水に慣れてからじゃないとそっちに行けねぇよ〜』
『・・・っとに情けねぇなお前らは』
声をかけたとて、返ってくるのはつまらない答えばかり。やはり自分と肩を並べられる奴はそうそういないらしい。
小さく舌打ちをしながらも、さらに沖の方へ泳ごうと身体を回転させたと同時、ゆらりと一瞬波が引いたような感覚が肌をなぞった。
そして次の瞬間、身長を優に越える高波が突然視界を覆い尽くし、己の身体はそのまま水の中に叩きつけられた。
ブクブクと無数の泡が辺りを舞い、青色の世界に全身が飲み込まれる。海水を吸い込んでしまったのか、鼻の奥に激痛が走り、思わず口を開いてしまった俺は混乱状態に陥っていた。四方八方からの猛烈な水の勢いで身体をもみくちゃにされ、どちらが上か下かなどもう訳がわからない。
薄れゆく意識の中で、ふいに視界にキラリと輝く何かが横切ったと同時、突然目の前に現れたのは自分と同い年くらいの少女の姿であった。零れそうなほどに大きな目はしっかりとこちらを見ており、少女はすぐさま俺の手首を掴むとそのまま勢いよく泳ぎ出す。
人間では考えられないほどのスピードで水の中を進む彼女に足はなく、下半身はコバルトブルーに染まる魚のヒレの形をしている。その姿はさながら、昔読んでいた絵本に出てくる人魚のようであった。
脳に酸素が回らなくなり、幻覚でも見てしまっているのだろうか。いよいよ意識を手放しそうになった次の瞬間、水中から勢いよく押し上げられ、俺は硬いコンクリートの上へと打ち上げられた。
ようやく肺に入った酸素によって、穴という穴から水が溢れ出し、げーげーと唾液混じりの水を吐き出す。口元を拭いながら水面へと視線を向ければ、波間からは先程の少女が顔を覗かせていた。
動揺したように瞳を揺らがせながら、彼女はこちらの様子を静かに伺っている。きっとこの人魚が現れていなければ、自分は今頃波に飲まれて沖に流されてしまっていただろう。助けてくれた命の恩人に、俺の口からは普段ならば絶対に言わないであろう言葉が自然と漏れ出ていた。
『・・・っ、助けて、くれて・・・ありがとう』
呆気に取られたようにぽかんと口を開いた後、目をパチパチと瞬かせた少女は、次の瞬間には大輪の花が咲き誇るように満面の笑顔を浮かべていた。無邪気でいて、目映いほどに輝かしいその笑顔に思わず見とれていれば、ふいに遠くから『 かっちゃーん!!』という叫び声とともに、豆粒ほどの人影が見えてきた。
揺れる先頭の緑頭は多分幼なじみの緑谷出久。その後ろには大人が二人続いており、恐らく助けを呼んで連れてきたのだろう。大人が来たことに思わず胸を撫で下ろしていれば、ふいに少女は慌てたようにコンクリートのへりから手を放すと、再び海中へと滑り込んだ。
海の色に負けないくらい美しいコバルトブルーのヒレが、飛沫を上げてとぷんと水中に飲み込まれていく。突然の出来事に、俺は声を出して引き止めることができず、ただその姿を見送ることしかできなかった。
名前は?ヒレは個性なのか?絵本の中の人魚みたいに言葉を話せないのか?などなど、聞きたいことはたくさんあった。けれど少女の姿は波に紛れて影も形もなくなっており、本人に尋ねることはもう叶わない。
駆けつけてきた大人たちに支えられ、俺はこの一時の夢のような出来事を胸に刻みながら、海を後にしたのだった。
『東京の
忘れられない幼い頃の事件から早八年。突然目の前に現れたクラスメイトの姿に、俺の眠気は一気に吹っ飛んだ。
雄英高校に入学を果たした初日。一年A組では一人ずつ順番に自己紹介が行われていた。派手さのない個性ばかりなうえに、掃いて捨てるほどいそうな平凡な奴らの自己紹介が続き、眠気がピークを迎えていた矢先であった。
”人魚”というワードに、八年前の出来事が頭の中に鮮明に流れ込む。髪の毛の色が同じだし何となくあの時の少女の面影はあるものの、本人かどうかなど見た目だけでは分からない。ましてや彼女は東京出身ときた。静岡の海に来る機会など果たしてあるのだろうか。
そして何より『他人に助けられたことがある』という事実をおっぴろげにすることは己のプライドが許さず、そわそわした気持ちを抱きながらも、俺は素直にその事をあいつに問うことができなかった。
そんなこんなで月日は過ぎていき、例のUSJ事件が起きる。そこで人魚の姿に変身した真珠の姿を見て、俺の中で疑惑が確証に変わった。
海のように美しく澄んだ青いヒレ。まるで花が咲き誇るような笑顔。全てが八年前に自分を助けてくれた人魚の少女の面影と重なった。
多分、いや恐らく、十中八九あの時自分を助けた人魚はクラスメイトの真珠 名前なのだろう。真実をただ確かめたくて、その日からあいつに話しかけようと模索したものの、なかなか面と向かって問うことが出来なかった。
そんな矢先に、教室で拾ったのが人魚の刺繍の入ったハンカチだった。名前は書かれていないが、誰のものかなど一目瞭然である。ついにチャンスが来たと、少し緊張した面持ちで話しかけたものの、こちらの意図は全く伝わらず、代わりに彼女から返ってきたのは『爆豪くんって海好きなの?おすすめのところ教えようか?』という素っ頓狂な回答だった。
『うるせェボケェ!!この雑魚クソ脳みそが!!』
頭にクエスチョンマークを飛ばす真珠に対して、いつものようにカッと頭に血を昇らせ、暴言を吐いて踵を返す。
もう今後本人にこの件を問うのはやめた方がいいだろう。きっとあいつにとっては、自分を助けたことなんて記憶にも残っていないくらいのありふれた出来事だったのだ。
まるで苦虫を噛み潰したような感情を飲み込んで、俺はしばらく真珠に近づかないようにしていた。けれどひょんな事から、再び彼女と相見えることとなる。
それはベストジーニスト事務所へ職場体験に赴き、東京湾の海岸通りでヴィランを追跡していた時の出来事であった。強盗犯のヴィランを港に追い詰めていけば、気がつけば防波堤へと近づいていた。
『このクソがッ!いい加減諦めやがれ!!』
『んなこと言って止まる奴がいるかよ!!』
嘲笑って逃げ惑うヴィランに、こうなりゃ強硬手段だと、地面に手をかざして爆破の個性を発動させる。爆風によって一気に加速したことによって、ヴィランとの距離はすぐに縮まった。
最後のひと押しと、さらに強い爆破の勢いでヴィランにタックルをかますと、俺はそのままヴィランの首根っこを捕まえる。
『っしゃあ!!ザマァみやが・・・れぇっ!?』
ヴィランを捕らえて、そのまま颯爽と地面に着地するはずだった。けれど何故だかまだ五メートルほど続いているはずのコンクリートの足場がくり抜かれたかのように忽然と消えていて、ヴィランを掴んだまま俺は波立つ海へと落下していった。
ざぶんと勢いよく水面に叩きつけられ、一瞬意識が飛びそうになるも何とか立て直す。急いで辺りを見れば、手から離れてしまっていたヴィランは、十メートルほど先の方で仰向けの状態で漂っている。打ち付けられた衝撃によって意識を失っているのか、そのまま身体が波に攫われていきそうになっていた。
恐らくヴィランの個性を使われてしまったのだろう。どうやら何でも何処でも穴を空けれるという個性の持ち主のようで、それを使って店に強盗に入っていたところを見回り中に居合わせたのだ。
このまま逃すわけにはいかないと水をかいてヴィランの方へ行こうとするも、腕の籠手が邪魔をして上手くいかない。むしろもがく度に顔に波が打ち付け、鼻につんっとした塩辛さが広がった。
生憎、一緒に行動していたベストジーニスト事務所のメンバーには水に強い個性の者や、水難救助向きの個性の者はいない。敵を確保出来ていないだけでなく、なんなら自分の命さえも危ぶまれるこの最悪の状況に、思わず歯を食いしばった時であった。
ふいに足元に何か渦巻くものを感じた次の瞬間、ざぶんと水飛沫とともに何かが水面から現れ、俺の腕を担ぎ上げた。
『っ爆豪くん・・・!』
『っは・・・テメェ、がはっ・・・なんでココっ、に!』
『落ち着いて!もう大丈夫だから!』
現れたのは人魚にフォルムチェンジしたクラスメイトの真珠で、彼女は俺を背負うと、そのままこちらに近づいてくる小型船へと向かっていった。海難ヒーロー"セルキー"の船へと引き上げられ、船員に介抱を受ける俺の隣では、真珠が上司らしき人物に報告をあげていた。
先に回収されていたヴィランをベストジーニスト事務所の人間に受け渡したこと、そして俺がクラスメイトであることなど、あいつは淡々と話を進めていく。
本来であれば、すぐにでも礼を言うべきなのは頭では理解していた。けれど幼い頃と今、二度も同じ人物に助けられ、惨めな姿をさらしたという事実が、心の中にモヤモヤとした黒い感情を生み出していた。
いつものように舌打ちで先制して、棘のある言葉で攻撃すれば、真珠は怯んだように黙り込む。けれど意外とへこたれない性格らしい彼女は、負けじとこちらを宥めるように言葉を紡いでいった。
その歌うように柔らかな声は、不思議と心の中の絡まった何かを優しく解いていく。気がつけば、俺は幼い頃に真珠と出会い助けられた事があるということを、自然と打ち明けてしまっていた。
話を進めていくにつれ、険しい顔だった真珠の瞳はキラキラと輝きだし、『凄い偶然だねぇ!!』と嬉しそうに声を弾ませる。一体なんでそんな表情をするのか。俺のことなど、覚えていないくせに。再び逆立った感情は、そのまま声に色を乗せて行く。
『・・・何がそんなに嬉しいんだよ。二度も俺を救ったっていう優越感か?』
『へ?違うよ!そういうのじゃなくて・・・』
『・・・んだよ』
『えっとね、爆豪くんにとっては嫌な思い出かもしれないけど・・・あの時のことは、私にとっては唯一無二の出来事だったんだ』
真剣な面持ちをしたあいつは、小学生の頃に出会った時の事を語り出す。俺を助けた事が、ヒーローを目指すキッカケになった出来事だったということ。そして何より、俺がその時に言った『助けてくれてありがとう』という言葉に彼女自身が救われ、何よりも大切な記憶として胸に刻まれているということ。
『あの時、「助けてくれてありがとう」って言ってくれてありがとう。爆豪くんのおかげで、今の私がここにいるんだよ。本当に、君に会えて良かった』
屈託のない目映い笑顔に、思わず釘付けになる。
真珠は忘れてなどいなかったのだ。こちらがずっとあの人魚の少女を忘れられなかったように、彼女の胸にもまた俺の存在がしっかりと刻まれていたらしい。
何だかそれが柄にもなく無性に嬉しくて、けれどそれを悟られるのはとても嫌で。そんな複雑な感情のまま、俺はいつものようにいけしゃあしゃあと悪態をつく。
けれど今までのように怯えて縮こまる彼女はいない。ターコイズブルーのヒレを揺らしながら微笑む真珠の姿に、さすがにこちらも白旗をあげるしかなかった。
『・・・いつか”NO.1ヒーローを二回も救ったヒーロー”としてメディアに自慢しやがれボケボケ女』
そっぽを向き俺がそう告げれば、真珠は声高々に返事をする。
青空に伸びゆく柔らかな声はまるで美しい歌を奏でているようで、気がつけば俺の口の端は自然と弧を描いていた。
点と点が結ばれ、繋がった記憶のおかげもあって、それから真珠と関わることが増えていった。
特に大きく関係が変化したのは、林間合宿を発端に起こった神野事件がきっかけだろう。俺と同じくヴィランに狙われた真珠を何とか逃がそうと、気がつけば身体が勝手に動いていた。
そして紆余曲折を経て、危険を顧みずにクラスメイトとともに俺を助けにきたあいつは、全てが終わったあとに堰を切ったように泣き出し始めてしまった。その姿を見て、胸の奥底から何ともいえない感情が湧き出てくることに、俺は戸惑いを覚える。
いつもなら女の涙なんて屁でもないし、むしろ泣いて何になるのかと嫌悪感すら抱くようなものなのに。ただボロボロとこぼれ落ちる涙を止めたくて、気がつけば彼女を抱き寄せてしまっていた。
俺の無事を実感して、ようやく笑った真珠は涙を拭い去ると、そのままこちらに向き合う。
『私、もっともっと強くなって、絶対プロヒーローになる。だから──・・・私のこと、見ていて欲しい。いつか君の背中に追いつくから』
どこかいつも自信なさげだった姿からは想像もつかないほどに真っ直ぐに向けられた眼差しは、とても気高く美しかった。
その宣言は嘘偽りなく、真珠は常に努力を続け、圧縮訓練でも無事に新しい技を身につけて目まぐるしい成長を遂げていった。そして、それとは逆に、俺は仮免に落ち、未だかつて無い大きな壁にぶつかっていた。
オールマイトという憧れの存在を、自分のせいで終わらせてしまったという罪悪感と消失感。そしてそんな自分とは裏腹に、オールマイトに選ばれた幼なじみの存在。
積み重ねてきたものが否定され、ぐちゃぐちゃに入り交じった感情が上手く整理できず、ただひたすら、俺は負けてなんていないと虚勢を張って拳を振りかざすことしかできなかった。
本音でのぶつかり合いを経て、オールマイトとデクの秘密を打ち明かされたあと、少しだけ自分の心の整理ができた。けれどまだ心の隅には燻った何かが残っていて、そんな時に真珠から送られてきていたメッセージアプリのスタンプに気がついた俺は、柄にもなく誰かに頼るという選択肢を選んでいたのだった。
『負ける悔しさや辛さを知ったから、さらに上を目指せたし、今の私がいる。自分の弱さを知ってる人間は、勝ちだけしか知らない人間よりもっと強くなれると思うの。だからね・・・絶対、大丈夫だよ』
ありきたりのものなどではなく、彼女自身の経験から出た言葉。”絶対、大丈夫”という強い想いの込められた言葉は、いとも簡単に俺の背中を前に押してくれた。
──きっとそう、多分、この時から。ずっと胸に巣食っていた、何ともいえない感情の名を、俺はようやく自覚した。
恋愛なんて自分には無縁で、邪魔なものだと思っていた。けれど、ヒーローといえども、コスチュームを脱げば所詮一人の人間で、心が折れかける時もあれば、負けて悔しさで歯を食いしばる時もある。そんな時に支えてくれて、寄り添ってくれる存在がいるだけで、人はまた前を向いて歩んでいけるということを理解した。
そして、隣で歩んでくれる存在を思い描いた時、自分の隣には真珠が──名前がいて欲しいと思ったのだ。
必死な顔で訓練に明け暮れる真面目な姿も。
全身全霊で力強い歌声を響かせながら、楽しそうに歌う姿も。
耳をほんのりと染めて、照れくさそうにはにかむ笑顔も。
彼女の全てが、心の底から愛おしかった。
何もかも終わったら、きちんと気持ちを伝えるつもりだった。けれど、もしかすると、もうそれは叶わないかもしれない。
勝ちたかった。
みんなを救けたかった。
出久に追いつきたかった。
オールマイトに認めてほしかった。
名前との約束を守りたかった。
たくさんの願いとともに、身体が深い海の底に沈んでいくような感覚を覚える。上手く息ができなくなり、自分がもう何者かもよく分からない。
もうここまでかと思ったその時──ふと耳の奥に微かな音が流れ込んできた。
陽だまりのように柔らかく、伸びやかで美しい歌声。
どこか懐かしくも、心がくすぐられるようなその声は、海の中で踊る泡のように、己の遙か頭上で漂い続けている。
消えかける意識の中、俺はただ必死にその声に向かって手を伸ばし、指先に触れた光を掴み取った。
────同時、自分の身体の中で力が沸き起こるかのように、何かが爆ぜた。
「──っ爆豪くん・・・!」
重い瞼を開いたその先には名前がいて、くしゃりと歪んだその目元からはポロポロと真珠の粒のような涙が溢れ出す。
血がこびり付いた喉からは声にならない声しか出せず、強く握られた細い指先を握り返すことしかできなかった。
「・・・っオールマイトが・・・!!」
ほんの少し見せた安堵の表情から一変して、震えた名前の言葉が徐々に思考をクリアにする。
沈みゆく雄英高校。周りに倒れる仲間たち。視界の端に移った死柄木弔と出久。そしてオール・フォー・ワンに捕らえられたオールマイトの姿。
今、自分が何をすべきなのか。胸の奥底から爆ぜるように湧き出た感情に叩き起こされ、気がつけば身体が動いていた。
「・・・行って、くる」
上手く動かない足を踏ん張りながら、なんとか立ち上がる。
死柄木弔に敗れ、一度は諦めかけた願い。けれど、まだ終わってはいなかった。ひとりじゃない。みんなの力のおかげで、まだチャンスがあるというならば、俺はいつだって、何度だって立ち上がってやる。負けを知った人間は、勝ちしか知らない人間よりも、ずっとずっと強いのだ。
俺の言葉を聞いて涙を拭った名前は、噛み締めるように頷くと、そのまま拳を前に突き出してきた。
「行ってらっしゃい」
合わさった拳の温もりは、計り知れないほどの力を与えてくれる。
柔らかな希望の声に後押しされ、俺は再び地面を強く蹴り上げると、そのまま出久の元へと飛び出した。
──憧れのヒーローをこの手で救けるために。
──更に、向こうへ。