先日一目惚れして購入したピンクベージュのニットワンピースに身を包み、ネイビーのダッフルコートを羽織った名前は、待ち合わせ場所の時計台の前でそわそわしながらスマホを眺めていた。

時刻は午後五時二十三分。
朝から降る雨で、街を行き交う人々は皆色とりどりの傘を手にしている。
休日の夕方となれば人手も増えてくる頃合で、名前と同じように待ち合わせをしている人の姿もチラホラ見受けられた。

いつもより入念に髪の毛を巻き、化粧も時間をかけて施した。
さらにタイツもおろしたて、足元のショートブーツも朝から磨いてきたため抜かりは無いはずだ。
最後にリップでも塗り直そうかと、バッグの中を探っていれば、ふいに名前の横に人影が現れた。


「名字!すまない、待たせたか?」


息を切らしながら現れたのは、待ち合わせをしていた煉獄であった。
彼の姿を目の当たりにして、名前は思わず小さく息を飲み込む。
キャメル色のチェスターコートの下に、白のタートルネックとブラックデニムを合わせた服装。
今まで煉獄のスーツ姿しか見たことがなかったことも相まって、彼の魅力を最大限に発揮した私服姿の破壊力たるや、凄まじいものであった。


「いえ・・・!私も今来たところです」
「それならば良かった!」


平然を装いながら名前がにこりと笑えば、煉獄は安心したように息をついた。
待ち合わせは五時半だったため、まだ五分も余裕がある。
しかし名前の姿を見つけて慌てて走ってきてくれたのだろうか、その律儀さが煉獄らしかった。


「試写会は六時からだったか?」
「はい。少し早いですが、行きましょうか」
「うむ!」


目当ての映画館までは、この場所からすぐ近くにあるエレベーターに乗り込めばあっという間につくだろう。
隣を歩く煉獄を横目に、高鳴る心音が気取られないよう、名前は手に持っていたピンク色の傘を強く握りしめた。


いつかリナリアの花束を act.02




試写会に誘ってくれた御礼に、帰りに食事をして帰ろうと煉獄から提案を受け、二人は映画を見終えると居酒屋に訪れていた。
こじんまりとした個人経営の店で、料理の美味しさと酒の種類の多さからよく利用する店らしい。
顔見知りの店主に歓迎され、二人はカウンター席に通される。
共に食事をするなんてなんとも難易度の高いミッションだと、緊張を紛らわすために名前が品書きと必死に睨めっこをしていれば、ふいに煉獄の手が伸びてきて表に書かれた文字をなぞった。


「もし焼酎が飲めるなら、このあたりの芋焼酎がうまいぞ!」


楽しそうに目を輝かせる煉獄を目の前にして、可愛らしくカシスオレンジを頼もうかと考えていた邪念はどこかに消え去ってしまう。


「どれがおすすめですか?」
「森伊蔵はどうだろうか。なかなか飲めない品だし、臭みが少ないから飲みやすいと思う!」
「じゃあそれにします」
「割り方はどうする?」
「お湯割りかなぁ。先生はどれにするんですか?」
「俺は車で来ているのでな!ノンアルコールのものを頼むつもりだ!」


だから待ち合わせの時に駅とは違う方向から現れたのかと、名前はつい二時間ほど前のことを思い返す。
自分だけお酒を飲むのはなんだか気が引けるため「私もソフトドリンクにします」と名前が告げれば、彼はゆるゆると首を横に振った。


「いや、名字は気にせず飲んでくれ!ここは食事も絶品だから、ぜひうまい酒と共に味わって欲しい!」
「・・・それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」


申し訳ない顔をしながらも名前がそう述べれば、煉獄は満足そうに晴れやかな笑顔を浮かべた。
彼ほど裏表がなく、実直な人間に名前は今まで出会ったことがない。
この穢れなき眼とまばゆい笑顔にやられた女性は数しれないだろう。
さらに一つの品書きを肩を並べて見ていれば、自然と距離も近くなる。
身動きする度に煉獄の肩が名前に触れ、心臓が爆発してしまうのではないかと思うほど音を立てていた。


「食べ物は何がいい?嫌いなものはあるか?」
「何も無いので先生におまかせします・・・!」
「そうか?では遠慮なく頼むぞ!」


このままでは何もかももたないと、名前は品書きを彼に渡すと水を飲むふりをしながら少し距離を取る。
そんなこちらの様子に気づいていない煉獄は、近くを通った店員に声をかけてすらすらと注文を伝えていく。
流れるほどスマートで動じている様子は微塵もない。
やはり三十歳にもなると場数を踏んでいるのか何事も落ち着いており、憎たらしいほどに余裕しか感じなかった。
舞い上がっているのは己だけであるということは誰の目にも明らかだ。

この緊張を一刻も早く解きたいと言わんばかりに、酒が到着して乾杯をした後、名前はいつもより早いペースでグラスをあおりだす。
古今東西、やはり酒の力は偉大らしい。
グラスを空ける度に緊張も解れ、映画の感想や学園の思い出話に花を咲かせていうるうちに、あっという間に一時間半が経過していた。



「名字、そろそろ帰ろうか」


ほろ酔い気分ですっかりできあがった状態となった名前は、とろんとした目つきで手持ちぶたさにおしぼりを弄んでいた。
トイレに行くと姿を消していた煉獄が戻ってくると、彼はそんな名前に諭すように声をかける。
その言葉に、名前はちらりと壁にかかった時計を見上げた。


「え?まだ、十時・・・」
「もう十時だ。あまり遅いと親御さんも心配するだろう」
「私、一人暮らしだもん」


高揚した気分からか、口調も態度もいつの間にか砕けていた。
できればまだ帰りたくない。
そう胸の内に言葉を秘めながら名前が頬を膨らませれば、彼は困ったように笑う。
そして足元の荷物入れに入っていた名前のバッグを取り上げると、そのままこちらに手渡した。


「一人暮らしなら余計に遅いのは危ないぞ。もし名字さえ良ければ家まで送ろう!」
「・・・いいんですか?」
「もちろん。さぁ、行くぞ」


棚からぼたもちのドライブデート。
そういう事ならと名前は嬉しさを噛みしめながら立ち上がると、コートを羽織り煉獄の後に続いて店の出口に向かう。
そのまま会計かと思いきや、煉獄はレジ前にいた店員に軽く会釈をして颯爽と通り過ぎていった。


「あれ、お会計・・・」
「試写会を誘ってくれた礼だ、気にするな!」


トイレに行った隙に支払いを終えていてくれたのだろう。
息を吸うように、気がつけば年上としての貫禄を至る所で発揮されてしまっている。
ここは素直に甘えておくべきだなと名前が礼を述べれば、彼はとんでもないと言わんばかりにただ笑った。

元から居酒屋の近くに車を停めていたらしく、店の前で待つように言われた名前は大人しく煉獄の背中を見送る。
朝から降り続いていた雨はもう上がったようで、空には溢れんばかりに星が瞬いていた。
ふいに喉の乾きを覚え、バッグに入れていたミネラルウォーターを取り出すと、名前はそれを一気に飲み干す。
ひやりと冷たい水が全身を駆け巡る。
ふわふわとした浮遊感が無くなり、酔いが冷め始めるや否や、名前の脳内は一気に現実に引き戻された。


「ん?先生がうちまで送ってくれるってことは・・・え?」


食事をした帰りに、一人暮らしの家に車で送ってもらえるというこの状況は、デートの終盤では掃いて捨てるほどよくあるシチュエーションだ。
かく言う名前も何度か経験済みである。
車中での駆け引きによって、その後の展開が決まると言っても過言ではないだろう。
煉獄が送り狼のようなことをするとは到底思えないが、可能性が0%だとも言いきれない。

ただでさえ酒で早くなっていた鼓動が、あらぬことを想像してしまい、今にも爆発してしまいそうなほど速度を上げていた。
自分の今日の下着の色は何色だったろうか。
確か取り込んだ洗濯物がベッドの上にそのままだったはずだなと、頬を抑えながら記憶を捻り出していれば、名前の目の前に一台の黒い車が停まる。
煉獄に悟られないよう、気を引きしめるように息を吸うと、名前は意を決して車に乗り込んだ。



「家の住所、ナビに入れてもらえるか?」
「は、はい」


爽やかなシトラスの香りがほんのりと漂う車内。
運転のために腕まくりをしたのか、煉獄の筋骨隆々な二の腕が目に入り、名前は思わずごくりと喉を鳴らした。
車内の薄暗さも相まって妙に色気を醸し出しているそれは、今の名前にとって目の毒である。
できるだけ視界に入れないように住所を手早く入力すれば、ポーンっと軽快な音と共に自宅までの道順と到着時間が表示された。



「ここから二十分ほどか。名字の家は九柱駅が近いのだな」
「駅から徒歩十分くらいです。勤務地も電車で三十分くらいだし、駅前に大きなスーパーとかも色々あって住みやすいですよ」
「いいところだな!確か伊黒が結婚前はそこに住んでいたと言っていた!」
「学園にも電車で一本で行けますもんね。そういえば先生はどこに住んでるんですか?」
「俺は常中駅だ。社会人になって一人暮らしを始めてからずっと住んでいる!」


慣れた手つきでハンドルを捌きながら煉獄はそう答える。
常中駅は名前と同じ路線ではあるが、ちょうどここからだと反対方向にある駅で、キメツ学園にほど近い駅だ。
ここからであれば車で十五分もかからずに帰ることができる。
遠回りをしてまでわざわざ自分を送ってくれていることに気が付き、名前は思わず眉を下げた。


「うちと反対方面ですね。なのに送ってもらっちゃってすみません」
「気にするな!初めから名字さえ良ければ家まで送ろうと思っていたからな!」


何気ない煉獄の言葉に、どきりと名前の心臓が跳ねた。
もしや少しでも長い時間を自分と共に過ごしたかったということかと、思わず舞い上がってしまいそうになる。
しかしそんな甘い妄想は、次の煉獄の台詞によって無惨にも打ち砕かれた。


「元といえども君は俺の教え子だ!名字をしっかりと送り届けることが、俺の教師としての責任だからな!」


教え子、教師、責任。見事なほどの三拍子。
ああやはり、自分はまだ異性としては見てもらえておらず、彼の中では教え子という立ち位置から抜け出せていないのだ。
天にも登るようだった気持ちがぽきりとへし折られ、名前は項垂れるようにシートに背中を預ける。

そんな名前の一喜一憂する姿に気がついていないのか、煉獄はただ爛々と目を輝かせていた。
教師という職業である限り、元がつくといえども生徒とはそのような関係性には決してならないという信条を持っているのだろうか。
負け戦と分かっていて突撃するほど、生憎名前もそこまで馬鹿ではない。
煉獄と何気ない会話を交わし続けながら頭を回転させるものの、次の打つ手がまったく思い浮かばなかった。
そうして気がつけば、あっという間に名前の自宅前に到着していた。


「わざわざありがとうございました」
「いや、礼を言わなければならないのはこちらだ!とてもいい映画だった!また小説も読み直そうと思う!」


車内の会話から、煉獄からはあわよくば名前の家に上がってやろうなどという魂胆は微塵も見えなかった。
憎たらしいほど煉獄らしい。
いやそういう彼だからこそ、学生時代の自分は密かな憧れを抱いていたのだろう。
彼の真っ直ぐで凛とした姿勢が少しも変わっていないことに安心したと同時に、今日共に時間を過ごしたことで、名前の中で確実に恋心が育っていることを実感していた。

次の手は帰宅してからゆっくり考えよう。
今日は白旗を上げながら帰るかと名前が車の扉を開けたと同時、ふいに煉獄が大きな声を上げた。


「む!名字、傘はどうした?」
「え?あれ、ほんとだ。どこに置いてきたんだろう」


煉獄に言われ、初めて自分の右手から傘が無くなっていたことに気がつく。
何の取り柄もない淡いピンク色の傘。
どこで手放したか分からないものの、立ち寄った場所は限られていたため、恐らく居酒屋か映画館のどちらかであろう。


「戻って探しに行くか?」


ちらりと時計を一瞥すると、時刻はすでに十一時を回っていた。
そう煉獄が言ってくれるが、今からわざわざ探しに行けば彼が帰宅するのがさらに遅くなってしまうのは目に見えている。


「傘ならもう一本家にあるので大丈夫です。明日忘れ物がなかったか問い合わせてみます」


どこで買ったかも覚えてないほどの傘だ。
万が一無くしていても別に支障はない。
名前がそう答えると、煉獄は少し何か言いたげな素振りをしたが、すぐに「そうか」と頷くと名前に向かって手を挙げた。


「気をつけてな」
「先生も。遅くまでありがとうございました」
「ああ、それじゃあ」


名前がドアを閉めて車から離れると、煉獄は緩やかに車を発車させる。
小さく手を振りながら見送れば、そのまま車は右に曲がって姿を消した。
夢のような時間はあっという間に終わってしまうものだ。
余韻を噛み締めながら部屋に戻ると、名前はそのまま風呂場に直行した。

明日は日曜日。休みではあるが生憎朝から予定があり、このままダラダラしているうちに寝落ちなんてしてしまっては大変だ。
湯を張るのは煩わしかったため簡単にシャワーだけで済ませ、化粧水やクリームを塗り込み、そのままドライヤーまで一気に終える。
流れるような作業で所要時間は三十分にも満たなかった。

先にアラームを掛けておこうとスマホに手を飛すと、新着メッセージを知らせるライトがちかちかと点滅を繰り返していることに気がついた。
画面を開けば、新着メッセージと画像が一枚。
その送り主は煉獄であった。


『今日はありがとう。帰り道に寄ってみたら居酒屋にあったので傘を受け取ってきた。次会う時まで預かっておく。それでは、おやすみ。』


そんなメッセージの下に並んでいたのは、名前のピンク色の傘の写真であった。
わざわざ探しに行ってくれたことに感動を覚えつつも、『次会う時まで』と綴られた文字に先程からニヤけが止まらない。
まるで神様が次のチャンスを与えてくれ、頑張れと応援してくれているようなそんな気がしてならなかった。


「もう少し頑張ってみようかなぁ」


元教師と教え子という関係性から、彼の恋人になれるチャンスがあるかは分からない。
しかし、この年齢にもなって自分からアタックしたいと思える相手がいることは、存外幸せなことなのかもしれない。
照明を豆電球に切り替え、ぽつりの小さく呟くと、名前は微睡みの中に意識を落とした。


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