3.2.1で教えてよ
「ごめんね、残業付き合わせちゃって」
「いえ!今日は特に予定がなかったので」
横で動く度にふんわりと漂ってくる上品な香水の香り。それだけでドキドキしてしまうなんてもう重症だろう。キーボードを叩きながら明るく答えれば、横の席に座る先輩は「ありがとう」と笑顔を向けてくれた。普段は残業なんてクソ喰らえと思っているはずなのに、憧れの先輩と残業できるなんて今日はまるで天国である。
静かなオフィスに二人きり。もしかして何かが起きるんじゃないかなんて淡い期待をしつつも、今日締切の仕事を協力して何とか終わらせる。PCの電源を落として帰り支度をしていれば、案の定先輩が「遅くなったお詫びに帰りに晩飯ご馳走させて」と声をかけてくれ、思わず心の中でガッツポーズを決めていた。これを機にぐっと距離が縮まるんじゃないかとにやけ顔でエレベーターに乗り込めば、隣でスマホを操作していた先輩が「あ」と小さく声を漏らす。
「どうかしました?」
「いや、え〜っと・・・ちょっと待っててくれる?」
「はい」
一階について建物を出れば、先輩はスマホを耳に当てながら少し離れた場所に移動する。急ぎの用だろうか。会話の内容は聞こえないが、少し困った表情をしていることから、先輩の身に何やら良くないことが起きてることは容易に想像できた。
案の定、こちらに戻ってきた先輩は両手を合わせてごめんねのポーズ。「前の部署の部長に飲んでるから今から来いって言われちゃって」と言われてしまい意気消沈していれば、大きな手が伸びてきてぽんぽんと私の頭を撫でた。
「今度二人で飲みに行こう。美味しいイタリアンでも予約するね」
そんなことを言われてしまえば、もう笑顔で見送るしかないだろう。幸せを噛み締めながら雑踏に消えていく先輩の後ろ姿を眺めていれば、ふいに背後に人の気配を感じる。振り返るより先に、突然横からにょきっと同期のサボが姿を現した。
「お前あんなのがタイプなのか。趣味悪りぃな」
「サボ!?っ・・・何してんの?」
「エースと飲む約束してたんだけど、あいつが残業になったから待ってた。もう終わるって連絡来たから、そこで座ってたらお前らが来たってわけ」
サボはそう言うと、オフィスを出てすぐのところに置かれたベンチの方角を顎でくいっと指し示す。先程先輩が電話をしに行っていた場所の近くだったが、花壇や木で隠れていてちょうどこちらからは彼の姿が見えなかったらしい。ただの同期とは言え、あのやりとりを見られていたとは少し恥ずかしい。何より趣味が悪いとはなんだ!とじとりとサボを睨みつければ、彼は呆れたような表情でため息をついた。
「先輩がさっき電話してた相手、女だぞ」
「えぇ!?でも、前の部署の部長だって・・・」
「『すぐ帰るからお風呂に入って待っててね』なんて、おっさん相手に甘ェ声で言うかばか。恐らくあれは彼女と同棲してるとみたな」
「う、嘘ぉ・・・!」
「それにあの人、一個下の営業企画の子にもちょっかいかけてたし、全体飲みの帰りに受付の山田さんとホテルに消えてった〜って噂もあるぞ」
先程までの幸せハッピーなふわふわ気分はどこへやら。次々と繰り出されるサボからのタレコミに、一ヶ月前から大事に育てていた淡い恋心は一瞬にして終わりを告げた。
自分の目の節穴具合に思わず唇を噛んでいれば、ふいにサボの手が伸びてきてバンバンと私の肩を力強く叩く。励ましのつもりなのか、こちらの感情とは相反して、眩しいくらいに輝く満面の笑みが妙に癪に触った。
「良かったじゃねぇか、本格的に引っかかる前に真実が知れて」
「ソウデスネ」
「そんなお前にさらに朗報があってさ」
「・・・なに?」
「仕事もできて性格良しのハイスペック高身長イケメンが、お前に絶賛片思い中だって噂があるんだけどさ。そいつとかどうだ?」
「へぇ〜・・・そんな人がいるならぜひともここに連れてきて欲しいんだけど」
からかうのも大概にして欲しい。あまりにも突拍子もない言葉に呆れ返りながらサボを見上げれば、ふいに彼がこちらに手を差し伸べてきた。まるで握手を求めるかのような構図に首を傾げれば、そのまま腕を捕まれ、勢いよくサボの方に引き寄せられる。
「もうお前の目の前にいるよ」
耳元をかすめたサボの唇から囁かれた言葉。新たな恋までのカウントダウンは、もうとっくに始まっていたのかもしれない。