KILIG
波の立たない静かな水中を、ナマエはゆっくりと泳いでいく。水の流れで気がついたのか、揺蕩う海藻や珊瑚の合間からオレンジやブルーの鮮やかな小魚たちが顔を覗かせ、こちらに寄ってきた。
いつの間にやら、頭につけていたはずの花の髪飾りを落としてしまっていたらしい。一生懸命口に髪飾りを咥えて届けにきてくれたエンゼルフィッシュに礼を述べて一撫でしてやれば、小さな身体を嬉しそうにくねらせた。
そのままヒレを動かして浮上すると、ナマエは水面から恐る恐る顔を覗かせる。視界に映るのは自然物ではなく、無機質な壁やガラス、そして機械に繋がれたホースたちだけ。
すでに時計は夜の九時を指しているため、昼間とは異なり辺りに人がいる気配は全くない。ほっと胸を撫で下ろすと、ナマエは先程まで泳いでいた大きな水槽の縁に腰かけた。
「はぁ・・・まさかあんな辺鄙な入江で海賊と鉢合わせちゃうなんてなぁ」
ため息をついて愚痴を零したところで、何も変わらない。先程受け取った花の髪飾りをつけ直すために水面を覗き込んでみたものの、人工的な青色は美しい生まれ故郷の海の色とは程遠く余計悲しみが深くなった。
人魚族のナマエがこの大きな水槽に閉じ込められてしまったのは約一週間前のこと。周りの制止を振り切って海底のリュウグウ王国から単身外の世界へ飛び出したナマエは、一ヶ月も経たないうちに海賊に捕まってしまったのだ。あれよあれよという間に大金で売り払われたかと思えば、買い手の貴族が道楽で経営しているミュージアムの目玉展示品として、大きな水槽に放り込まれてしまった。
命を取られたり、虐げられることが無かったのは幸運だったのかもしれない。けれどこのまま死ぬまでここにいるのは御免こうむりたいものだ。さてはてどうしたものかとナマエが三度目のため息を吐いたと同時、ふいに水面がゆらゆらと揺れ、小さな泡沫が湧き出て来たかと思えば、水中から海亀が顔を覗かせた。
「やぁ人魚のお嬢さん。何かいい考えは思いついたかい」
しわがれた声からしてだいぶ年寄りの亀なのだろう。ナマエが毎夜水面から出て脱出するための策略を練っていると、こうして彼が姿を現すのもまた日課となっていた。
ナマエが来る前からアートアクアリウムとして置かれていたこの水槽には、大中小様々な魚や亀、エイなどの海洋生物が生息している。突然現れた人魚に最初は皆警戒心を抱いていたものの、一日もたてば友好的に話しかけてきてくれるようになっていた。
「ううん、まだ・・・。水槽の魚さんたちのお世話をしてる飼育員の人をどうにかして丸めこむしかないかなぁって」
「そうじゃなぁ、お前さんたち人魚族は魚人族と違ってシャボンがないと陸地移動は困難じゃからのぉ」
「でも話しかけても無視されちゃうの」
「そりゃあお嬢さんは貴族のお気に入りだもの。馴れ馴れしくなんてできないじゃろ」
「う〜・・・どうしよう。一年前みたいに、優しい人が現れて助けてくれる奇跡なんてそう簡単に起きないだろうし・・・」
「ひぇ〜お前さん、もしかして逃亡の常習犯かい?」
あっけらかんと告げたナマエの言葉に、亀は信じられないと言わんばかりに目を見開いて口をぱかぱかと動かす。
実はというとナマエがリュウグウ王国を飛び出したのは今回で二回目なのだ。一度目は今から一年前の十八歳の時。人魚族はヒューマンショップでも群を抜いて高額で売買される。幼い頃から口酸っぱく外海に出てはいけないと言いつけられていたのにも関わらず、外の世界に憧れを抱いていたナマエの好奇心は止まる術を知らなかった。
初めて見る世界に興奮して偉大なる航路を旅していた矢先に捕まってしまい、あわや売り飛ばされそうになったところをとある海賊に救われたのだ。今回もそんな風な幸運が起こってくれればいいのだが、人生そう甘くないだろう。ここに来て一週間、ナマエを一目見ようとたくさんの人達がアクアリウムの前に列をなしていたが、皆好奇の視線を送ってくるだけであった。
「常習犯だなんて失礼なっ。外の世界に憧れることは悪いことじゃないわ。珍しいからって捕まえて売ったり買ったりする人が悪いのよ!」
「はぁ〜まぁそうじゃけどなぁ・・・お前さんは人魚族だという自覚をもっと持った方がええて。前回もそんな危険な目にあったのに、なんでまたリュウグウ王国から飛び出してきたんじゃ」
「だって・・・」
呆れた表情の亀の問いかけにナマエは思わず言い淀んだ。一回目に国を飛び出したのは、外の世界を見てみたいという純粋な理由からだった。けれど今回は少し邪な理由がある。
一年前、ナマエを助けてくれた男が乗っていた海賊船は、優雅に海中を泳ぐ熱帯魚のように鮮やかな黄色の潜水艦だった。刺青だらけで目つきも悪く、愛想もないぶっきらぼうな男。それは幼い頃に読みふけっていた、人魚姫のお話に出てくる王子様とは程遠い風貌であった。けれど助けてくれた時に触れた指先は暖かく、リュウグウ王国にほど近い海域まで見送ってくれた優しさは今でもナマエの記憶から消えることはなかった。
悪魔の実の能力者だという男と、生まれてからずっと海で暮らすナマエでは、けして相容れない人生だということは頭では理解している。けれど一目でいいからもう一度あの男に会いたいと、燃え盛る恋心を止めることはできなかったのだ。
大切なものを捨ててわざわざ人間になったのに、最後には泡になって消えてしまう物語なんてなんとも馬鹿げている。そう大人たちは人魚姫の物語を毛嫌いしていた。けれどナマエからすれば人魚姫の心情や行動は共感に値するもので、何かを引き換えに彼に会えるのならば、それでもいいと思ってしまうほどの熱量であったのだ。
そんないきさつを聞いた亀は再び呆れたように白目をむく。安寧を好む老人には少し刺激的な話だったのだろうか。ナマエはむっつりと頬を膨らませ、ヒレで水面をはじいて亀に軽い水飛沫を浴びさせた。
「ほら、”恋はいつでもハリケーン”って言うでしょ」
「なんじゃあそれ」
「東の海の諺なんだって。昔リュウグウ王国に来てた白ひげ海賊団の人たちが言ってた」
「はぁ〜わしにはよう分からん」
「とにかくっ私はここから早く出て、絶対彼に会いにいくんだから!」
ナマエが拳を突き上げそう意気込んだと同時、ふいにぶくぶくと無数の飛沫が水面から沸き起こる。そしてたくさんの熱帯魚たちが浮上してきたと思えば、彼らは一斉に「通路に突然人が現れた!」と慌てふためいていた。
この時間に人がいるなんてどういうことだろう。ミュージアムはすでに閉館しているはずだし、従業員たちもとっくに帰ってしまっている。上からでは人間が水槽を眺めることのできる通路の様子が伺えない。一先ず状況を確認して魚たちを落ち着かせようと、ナマエはざぶんっと水槽の中に飛び込んだ。
ヒレを動かし水をかいていけば、ガラス越しに人影が見えてくる。薄暗い通路に立つ人物の輪郭を視界に入れた瞬間、ナマエははっと息を飲んだ。どくどくと波打つ心臓の音。それを噛み締めながらナマエは男の視線と同じ高さまで潜ると、二人を隔てる透明なガラスに手をついた。
特徴ある斑模様の白い帽子に、目つきの悪い風貌、そして刺青。記憶に刻みこまれた命の恩人である男の姿と、目の前の男の姿がかちりと重なった。
次の瞬間、ふいにナマエの全身を青い膜が包み込む。水中特有の浮遊感がなくなり、気がつけば水槽の中からテレポートしたナマエは男の腕の中で横抱きにされていた。全身からぼたぼたと滴り落ちる水は、床にどんどん水溜まりを作っていく。「何度捕まったら気が済むんだお前は」と男が言葉を零したと同時、ナマエは勢いよく彼の首元に抱きついた。
「ロー!どうしてここにいるの!?」
「・・・補給のために立ち寄った島のミュージアムで人魚の展示物があるってポスターを見かけた。そしたらお前が写ってた」
「ええっ!すごい偶然ね!!ベポたちは元気?」
興奮のあまりヒレをバタつかせて男の名を呼ぶナマエに、ローは呆れたようにため息をつく。確か初めて助けてもらった時も同じような反応だったなと思わず懐かしんでいれば、はたと男の服がずぶ濡れになっていることに気が付き、ナマエは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。私のせいでローがびしょ濡れになっちゃったね」
「別にかまわねェ。それより、なんでまた捕まってるんだ。今後は一人で外の海に出るなって一年前散々言ったよな」
少し怒気を含んだローの声にナマエは思わず萎縮する。確かに一年前に助けてもらった時、「幸運だと思え」「二度はねェぞ」とまるで幼子を叱る親のようにくどくどと説教を垂れられたことはしっかりと記憶に残っている。
言いつけを守らなかった罪悪感から言い淀んでいたが、上からローの圧が加わったことでナマエはすぐさま白旗を揚げた。
「だって・・・」
「なんだ?」
「ローに、会いたかったから・・・」
「あ"?」
「助けてくれたローのことが忘れられなくて、また会いたいと思って飛び出してきたの!責任とってよ!」
まるで愛の告白のような台詞。ダメで元々だと勢い任せて本音を告げれば、ローは苦虫を噛み潰したような表情で額を手で抑える。それもそのはずだ。善意で行った行為で責任を取れと責められるなんて、夢にも思っていなかったことだろう。
しばらく沈黙が続い後、はぁと再び深いため息がローの薄い唇から漏れだす。そして彼の手がこちらに伸びてきたかと思えば、水で張り付いていたナマエの前髪をゆるりと掻き分けた。
「どうせリュウグウ王国に送り返したところで、その様子だとまた懲りずに飛び出してくんだろ・・・」
「へ、」
「そんでもって天竜人にでも捕まっちまったら、それこそ夢見が悪りぃからな」
「一緒に来るか?」と覗き込んで問うてくる声に、ナマエは全身が泡立つような感覚を覚えた。それは恐怖やはたまた人魚姫のように泡に成り果ててしまったからではない。喜びによって体の奥底から湧き上がってきた衝動に、ナマエは満面の笑顔を浮かべて再びローに抱きついた。
「ローと一緒に行きたい!」
間髪入れずに無邪気に返事をするナマエに、ローは呆れたように眉を上げながらも楽しそうに口の端をあげた。
「とりあえず、船内移動用にシャボンの浮き輪を調達しねェとな」
「ありがとう!あっ、あとできたら部屋にいつでも水浴びできる水槽も欲しいなぁ」
「・・・お前はいきなり遠慮ってもんがねェな」
ぼやきながらひたひたと静かな室内を歩き出すローの肩越しに、ナマエは先程まで自身が入っていたアクアリウムを眺める。
事の顛末を見守っていたのか、連れていかれるナマエの姿に亀や魚たちは慌てる様子もなく、ライトに照らされた人工的な青色の水の中で見送るように緩やかに前足やヒレを振っていた。存外外敵のいないここの暮らしを彼らは気に入っているのだろう。「ありがとう」と口パクで呟き、手を小さく掲げたと同時、ナマエの姿は青い膜と共にミュージアムから消え去った。
願わくば幸せな物語を紡いで欲しい。あの二人ならきっと、大丈夫だろう。そんなことを考えながら、亀はゆっくりと水をかき分けて水槽の底の岩肌に降り立つ。そして小さく欠伸をすると、静けさを取り戻した水の中でゆっくりと目を閉じた。