酔いどれ知らず




 あの日──ビー玉のような大きな瞳を輝かせてこちらを見あげてきた幼子は、気がつけば美しく輝く宝石になっていた。


「おつるさん、この書類なんですけど」


 控えめなノックとともに執務室の扉が開かれ、女が顔をのぞかせる。海兵の制服に身を包んだ女──ナマエは、ソファーにふんぞり返って座るドフラミンゴの姿を見るや否や、驚きのあまり持っていた書類の束を落としてしまった。すかさずドフラミンゴが出した糸によって紙は散らばることを免れ、ナマエの手の中に戻っていく。


「フッフッフッ。気をつけろよ」
「びっくりした・・・!ドフラミンゴさん、来てたんですね。ありがとうございます」
「おつるさんさんならセンゴク元帥に呼び出されて席を外してるぞ」


 ドフラミンゴが部屋の主の所在を教えてやれば、ナマエは少し困ったような顔をする。急ぎの用なのだろうか。「ここで一緒に待っててもいいですか?」と首を傾けて問うてくる彼女に、ドフラミンゴは愉快そうに唇を上げながら頷いた。
 王下七武海ともなれば、普通であれば一般海兵はそう易々と近づいて来ないものだ。しかし、ナマエは意に介していない様子で同じ空間にいることを選び、さらにはドフラミンゴが己の横の空いたスペースをポンっと叩いて隣に座るように促せば、大人しく腰を下ろした。
 そんな彼女にドフラミンゴは懐から取り出した小箱を差し出す。一瞬不思議そうな顔をしたのも束の間、ナマエはすぐ合点がいったように手を打った。


「もしかしてお土産ですか?」
「正解」
「わ〜い!ありがとうございます。今回は何だろう」


 綺麗な包装紙とリボンで予想がついたのだろう。ナマエは無邪気な笑顔を浮かべると素直に喜びの声を上げ、「開けていいですか?」と尋ねてくる。十年前から変わらないその幼気な反応は、ドフラミンゴの機嫌を良くするのには充分だった。
 ドフラミンゴとナマエが初めて出会ったのは王下七武海入りしてすぐの頃。彼女はまだ八歳で、戦争孤児だった。おつるが海兵にするべく育てているようで、よくおつるの後ろに引っ付いて回っているのを見かけていた。
 最初はほんの戯れだった。今日のようにおつるを探しに執務室に訪れた幼子に気まぐれに菓子をやれば、ナマエは瞳を煌めかせドフラミンゴにはにかんだ。そこから妙に懐かれ、気がつけば海軍本部に来る度に健気に自分に会いに来る幼子を、ドフラミンゴも大層気に入ってしまったというわけだ。
 こうして彼女に会う機会があれば、土産と称して貢物を持っていく。そんなルーティンが出来上がって早十年余り。気がつけばナマエから少女の面影はとうになくなっていた。
 長い睫毛を揺らしながら、ナマエは箱の中に入っていたものを手に載せる。ブリキ製の丸い形をした手のひらサイズのメンタム缶。きょとんと目を丸めた彼女にドフラミンゴが「中の匂いを嗅いでみろ」と告れば、ナマエは蓋を開けてくんっと鼻を動かした。


「いい匂い・・・。キンモクセイですか?」
「あぁ。花から抽出した精油を使ったリップバームだそうだ」
「へ〜!ちょうど季節の変わり目で唇が荒れていたから嬉しいです。使ってもいいですか?」


 彼女からの問いかけに、ドフラミンゴは口の端を上げながら手を伸ばす。そして小さな掌からメンタム缶を奪い去ると、中のバームを小指ですくい取り、そのままナマエの唇になぞるようにしてのせた。
 ひゅっと息を飲む音が静かな部屋に響き渡る。ゆらゆらと揺れる瞳は、ただ一心にドフラミンゴの輪郭を捉えていた。

 幾つもの花の香りの中からキンモクセイを選んだのは、彼女にその花がぴったりだと思ったから──。"謙虚"さのある小さな花弁のように可憐なナマエの笑顔は、人々を引き寄せ"陶酔"させる。まさにキンモクセイのような女である。
 どこにでもあるようなおもちゃのビー玉が、気がつけば唯一無二の光を放つ宝石に変化するだなんて、誰が想像できただろうか。欲しけりゃ奪え。そんな海賊のモットーに倣って、今すぐにでも彼女を奪い去るのは簡単であろう。しかし、無理にでも手中に収めてしまえば、幼子の頃から変わらず自分に向けてくれるナマエの笑顔はきっと色を変えてしまうだろう。鈍い色を放つ宝石には興味がない。自分が欲しいのは、今のままの彼女なのだから。
 奥底で黒く渦巻く己の心情を嘲笑うかのように、ドフラミンゴははっと笑い声をもらす。それを皮切りに、まるで時が止まったかのように固まっていたナマエも、ようやく小さく息を吐いた。


「フッフッフッ。悪い虫が付かないように気をつけろよ」
「え?」
「キンモクセイの香りは、人を惹き付け、狂わせる」


 ぱちくりと目を丸めるナマエの唇を指先できゅっと軽く摘むと、ドフラミンゴはそのまま立ち上がる。ふわふわと揺れる無数の羽根のコートの合間から、ほんのりと頬を赤く染めた彼女の姿が垣間見えた。
 じわりじわりと徐々に身体を蝕ばむ毒のようように、いずれ彼女自身の意思でこちら側に来ればいい。そのための種まきをずっとしてきた。そしてナマエに近づく不届き者は、先手を打ってこの手で狩ってきたのだから。
 いつか彼女が自分だけのために輝く日を楽しみに、ドフラミンゴは長く続く廊下を静かに歩んでいった。



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