囁きは朝食のあとで


 歯磨きを済ませ、零れてきた欠伸を噛み締めながら、そろそろ寝ようかとソファーに腰を下ろす。机に置きっぱなしだったスマホを掴めば、チカチカと何か通知が届いていることに気がついた。宛名を見て、どくりと心臓が跳ねる。
 三十分前に『今から家に行ってもいいか』と短い文が、さらに五分前には『駅についた』と追加でメッセージ、さらには着信まで。友人から誕生日プレゼントでもらった高いボディークリームに喜んで、洗面所で呑気にマッサージをしている場合ではなかったのだ。
 慌てて無造作にくくっていた髪の毛を解き、洗面所に舞い戻ってブラシで整える。そうこうしているうちに、ピンポーンと軽快なチャイムが部屋に鳴り響いた。


「っは、はい」
『・・・おれだ』
「ごめん、連絡今気がついて」
『上がっても大丈夫か?』
「うん」


 聞こえてきた低い声色に詫びながら解錠ボタンを押す。エレベーターで五階まで上がり部屋までたどり着くには、彼の足だと三分もかからないだろう。明日畳めばいいやと置きっぱなしにしていた洗濯物を必死にクローゼットに押し込んでいれば、玄関から来訪を告げるチャイムが聞こえてくる。慌てて廊下に飛び出て扉を開ければ、むわっとした生ぬるい夏の空気を連れて、いつもより深く目の下に隈をこさえたローが立っていた。


「い、いらっしゃい」
「・・・悪りぃ急にきて」
「ううん。大丈夫、でもほんと急だったから、ちょっと・・・びっくりした、かな」


 ああ、なんて可愛げのない反応なのだろう。けれど仕事のせいとはいえ誕生日もすっぽかされ、その後も激務続きで二ヶ月丸々会うことができなかった恋人に、果たしてどう対応するのが正解なのだろうか。
 もちろん事前に連絡はあった。外科医として働く彼は勤務形態も不規則で、緊急搬送が入れば深夜まで働くことなんてザラである。私の誕生日当日、ローが事前にディナーを予約してくれていたのも緊急オペで綺麗に流れ、その後もなんだかんだとゴタゴタして会うことができなかったのだ。
 加えて連絡もほぼなかったというWパンチ。元からローが連絡不精なことは、付き合う前から分かりきっていたことだったが、ここまで音沙汰がないのも珍しかった。
 先日ランチを共にしていた会社の先輩につい愚痴をこぼせば、『医者って合コンめちゃくちゃあるらしいよ』やら『連絡がないのは絶対怪しい』と言われてしまい、私がかなりへこんでいたことをローは知る由もないだろう。


「えーっと、ご飯食べた?まだならおにぎりでも握ろうか?」


 久しぶりすぎてどうすればいいのか分からず、綺麗に手入れされた革靴を脱ぐローに声をかけながら踵を返す。おにぎりが好物な彼用に、こんぶと鮭フレークは切らすことなく常備してある。あと冷凍したからあげがあったような、と冷蔵庫の中身を思い出していれば、不意に後ろから手を捕まれ気がつけばローの腕の中に閉じ込められていた。


「っ、ロー?」
「・・・」
「・・・どうしたの?なんかあった?」


 呼びかけても彼は何も答えない。ただぎゅうっと抱きしめる力を強めるだけ。そしてそのまますりすりと頬や首筋に口元を埋めてくる。その姿はさながら猫のようだ。いや、この大きさだと虎かライオンか。
 時折髭がじょりっとなぞる感覚がくすぐったくて笑い声を漏らせば、そのままローの唇ががぶりと首筋に噛み付いた。


「えっ!?待っ、て・・・ちょっと、ロー!」
「待てない」
「っやぁ、」
「お前不足で死にそうだった」


 景色が反転したかと思えばそのまま廊下に転がされる。待て待てと制止したたところで自分より一回りも大きい男の動きを止められるわけもなく、服の間をぬって中に入ってきた骨ばった手と、降り注ぐ口付けを甘んじて受け入れてしまったのだ。
 途中ぐーっとローの腹の虫が鳴ったが、彼はおかまいなしにその目をギラつかせていた。食事より性欲が勝るなんて、まるで十代の頃みたい。甘い快楽に溺れながらそんなことを考えていれば、気がつけば廊下で1回、ベッドで1回、さらには一息置いて浴室で1回。会えなかった分を埋めるように合計3ラウンドも事を済ましたローと私は、いつの間にかベッドの中で泥のように眠りこけていた。

 はっと目が覚めて、時計を見ればすでに朝の十時を回っている。幸運な事に今日は土曜だ。もちろん自分は仕事が休みだし、ローも『明日は久しぶりに一日休みをもぎ取ってきた』と意識を失う前に呟いていたから問題はないだろう。首を動かして背後のローの顔を覗けば、整った顔がすやすやと寝息をたてていた。酷かった隈も幾分かマシになっているような気がする。
 彼が寝ている間に朝食でも作ろうと、腹に巻きついていた太い腕を外して抜け出そうとすれば、もぞもぞとローが動き出す。そしてそのまま、逃さないといわんばかりに引き寄せられた。


「ロー?起きた?おはよう」
「ん、・・・離れんな」
「朝ごはん作ろうと思って」
「・・・朝、メシ」
「さすがにお腹空いてるでしょ」


 まだ寝ぼけているのか、ぼやくような声色が何とも可愛らしい。それと同時、こちらの問いかけに答えるようにローの腹の虫がぐーっと鳴る。思わず笑い声を零せば、笑うなと言わんばかりに彼の唇が首筋をなぞった。


「もうっ!くすぐったいってば。おにぎり、こんぶと鮭でいい?」
「あぁ」
「お味噌汁は豆腐とワカメにしようかな」


 本当は会えなくて寂しかったと、連絡くれなくて不安だったと、色々と言いたいことや聞きたいことは山ほどあった。けれど疲れた身体に鞭を打って家まで来てくれ、存分に愛を注いでもらったことで少し不安は取り除かれたらしい。女とは存外単純なものなのだ。かしこまって話すのは、朝食のあとでいいだろう。
 そんなことを考えながら、いつまでも戯れてくるローを躱して起き上がろうとするも、すぐに布団に引きずり戻されてしまった。


「ねぇロー、早くしないとお昼になっちゃう」
「なぁ・・・ナマエ」
「ん?」
「結婚してくれ」


 後ろから囁かれた砂糖菓子のように甘い声。ぐるりとローの方に身体を動かして向き合えば、何も特別な事は言っていないといわんばかりに、飄々とした表情の彼の姿がそこにはあった。


「寝ぼけて・・・ないよね?」
「当たり前だ」


 即座に返答されたことで、先程の言葉が急に現実味を帯びてくる。一気に熱が帯びた身体と緩みそうになる表情を隠すようにローの胸に擦り寄れば、彼の太い腕が私の背中を包みこみ、すっぽりとその中に収まった。


「その・・・なんで突然」
「そりゃ忙しい中でナマエと過ごす時間を作るためには、もう一緒に暮らすしかねェなってなって・・・」
「・・・うん」
「それに会えなかった時に早く会いてェって心の底から思ったのは、お前が初めてだったんだ。今までなら勉強や仕事が何より大事で、女なんて二の次だったからな。それほどお前のことをおれは手放したくないらしい」


 「ナマエ」と名を呼ぶ声がして面を上げれば、すぐ目の前にローの顔があった。いつものような余裕綽々なものではなく、真剣味を帯びた瞳に心臓が飛び跳ねる。
 さきほどまで寝ぼけていたのに、急にそんな表情をするなんて反則だ。それならばこちらも反撃だと、「答えは?」と尋ねてくるローの唇に己のものを押し当てた。
 イエスかノーかだなんて、そんなのもう決まってる。




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