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都内にある小さなカフェショップ LILAC(ライラック)。

そこに一歩足を踏み入れれば、たちまち珈琲の香りに包まれ、落ち着いた店内に薄暗い照明が迎える。席数も多くなく、ましてや店内もこじんまりとしている。けれど珈琲は本格的に扱っていて、週に何度も通う常連も多い。黒髪に無精髭を生やしたマスターは近所の奥様方に絶大な人気を誇り、そのマスター拘りのメニューや、選び抜かれた珈琲豆。時がとまる店だと、客は口にする。
ーーーそれが俺の親父がやってる店。


「壱、これとこれと…あとあれ。お隣さんまで頼む。」

葉の丸い観葉植物を眺めていた視線をカウンターに映すと、そこに並ぶ今出来あがったばかりの品の数々。

お隣さんというのは、言葉の通り店の隣に立つ6階建のビル。基本カフェショップに配達なんて便利な物はないが、隣のビルは別。うちにとっては立派な稼ぎ場だ。そうでもしなきゃ珈琲一杯で5時間も粘る主婦達のせいで喫茶店なんて今時儲からない。その点仕事場まで持っていくというのは座席の問題もなく、おしぼりや水の必要もない。
ただ配達する人間をどうするかだけだ。

「んとに、壱は朝も手伝ってくれるから助かるな」

カウンターで親父がそう笑っているのを見て、俺はいつも通り品物を入れ始める。なんていうんだっけ、これ。ラーメン屋が出前するときに使う奴。確か…「おかもち」…だっけ?それを“親父仕様”に黒く塗った物。珈琲はホットもアイスも零れないように蓋があるからなんの心配もない。

隣からの注文は朝と昼前。会社にも珈琲くらいあるだろうに、やっぱり旨い方がいいってことか。

今日は大学が休みで、それを完璧に把握した親父に休みの日は朝から起される。朝早く起されるのは苦じゃない。けど、

「…俺、あんま好きじゃない」
「ああ、だろうな。けど注文相手はほぼ珈琲よりお前とハルが狙いだ。」

珈琲を届けるだけなのに、いつも所有時間は1時間を越す。ぶっちゃけ、女は好きじゃない(かといって男が好きなわけでもない)付き合った女も少しはいるが、思い出としても何も思い出せない位なもの。

そしてハルというのは俺の一卵性双子の兄。
顔を声も周りからは酷く似ていると言われるが、性格は俺と真逆に近い。

「…行って来る。」
「おう、頼んだぞ」

少し重くなった岡持ちを持ち店から出て、隣に立つビルを見上げた。


***


「やっぱり朝は壱くんなのね!」
「そうにきまってるじゃない!ハル君絶対朝起きられないでしょ!」
「キャー!壱くんに会えて嬉しい〜〜!」

オフィスに足を踏み入れた瞬間にこの有様。(ほんと…憂鬱。)

「…注文」
「ねえ壱くんってさ、彼女いるの?」
「…だから注文」
「やだぁ、壱くんに彼女いたら私ほんと寝込むからね」

周りでキャンキャン吠える声に酷く耳鳴りがする。ってか、おまえら仕事いいのかよ。


「待って下さい!何故使って頂けないのか説明をお願いします!」

いきなりそんなハッキリとした大きな声が聞こえ、辺りが一瞬静まった。周りの人間が目線を当てたそこに俺も目線を合わせる。そして目に映ったのは上司だと思われるその男に強い瞳を向ける、一人の女の姿だった。

「説明するもしないも上がそう言うんだから仕方ないだろ?」
「じゃあ私もう一度上に掛け合ってみます」
「そんな必要はない。無駄な事をするな」

(…うわ…きつ、)
けど普通そんなん言われたら女って泣く生き物だと思ってた。
それなのに、まだ彼女の瞳は強いままキツくそいつを見つめていて。

「またやってるわ、みょうじさん」
「あんな態度したら、嫌われるに決まってるじゃない。」
「みょうじさんも懲りない人。」
「ほんとほんと。私達ただのOLなんだし、妥協も必要なのにねー」

あんな派手に上司と部下が言い合いしてるのに他がしれっとしてる点では、きっと“いつもの事”なんだろう。だけど、それを仕事サボって俺に絡んでるお前らに言える権利があるのか。

「アンタ達の場合、妥協じゃなくて手抜いてるだけでしょう?」

そんな声に振り返ると、腰に手を当て不敵な笑みを浮かべるボブヘアーの一人の女。
…あ、この人毎日ランチうちで頼む人だ。(けど名前、忘れた…)

「わっ若林さん!?」
「なまえは何事も一所懸命なのよ。アンタ達と違って。あ、ごめんなさあい?先輩様達。」
「っ!貴方とみょうじさんといい、本当に人の気分を害するのが得意な人たちね」
「あ、壱くん。あたしカフェラテ頼んだんだけど」
「ちょっと!人の話聞きなさいよ!」

俺がカフェラテを渡すと、お返しに代金が返ってくる。若林さん(…だっけ?)は周りでキーキー怒る奴らに一切目も暮れず、耳も傾けず。そしてこの俺に目をキラキラと輝かせ聞いた。

「ね!ハル君って今日ランチ来る!?」

…そうだった、この人ハルの事すげー聞いてくる人だ。

「や…わかんない」
「そっかー、でも今日もランチお願いね。」
「…うす。」

そう言いながら持つおかもちから全部出し代金を請求し終えると、俺はもう一度“あの”彼女に視線を向けた。

「やってみてもいないのに私は無駄だと思えませんので。」

気づいたのは耐えるように強く握り閉める拳。関節が白くなるまで握りしめ、微かに震えてる。きっと本当に悔しいんだろう。彼女みたいな人間はきっと生きるのが下手だ。人に理解されるのも、和解するのも、きっと器用になんか出来る筈がない。

「君には呆れるよ」

けどそう言われたって、彼女はまた強い瞳で笑った。

「ありがとうございます。」

ふしぎとなぜか。俺はその表情から瞳が離せず、エレベーターに乗り込む彼女の背中をいつまでも追っていた。


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