購買で昼飯を買って、教室に戻ろうとしている時だった。
 ずざっ、と音を立てて俺の目の前を走っていた女子生徒がこけた。そりゃあもう見事なまでにこけた。この年になってこんな思いっきりこけることなんてあるんだなあというくらい頭から派手にこけた。
 背格好から見るに全く見知らぬ女だったが目の前でこんなことになってしまった以上このまま放って教室に戻るのも憚られて様子を窺っていたが中々起き上がる気配が無い。とりあえずパンツ見えてる。
「おーい、大丈夫か?」
 一応声を掛けてみると声に反応したのか震える腕で身体を起こしたので手を差し伸べつつもう一度「大丈夫か?」と尋ねるとこくりと頷いた訳だが、彼女の表情は両目いっぱいに水の膜が張られているわ唇は思いっきり噛みしめているわで全然大丈夫そうじゃない。つーかこれ泣くんじゃね。
おいここで泣くなよ? 俺が泣かしてるみたいだからやめろよ? と内心慌てていたら何とか堪えたようでほっとした。
「あの、ありがとうございました」
「おう、次から気ぃつけろよ。あと保健室も行けよ」
 良く見ると彼女の膝は大変なことになっていたので膝を指してそういうと「ぎゃっ、ほんとだ」と驚いたような声を出した後また泣きそうになるので「あーもう泣くな泣くな! これやるから!」とたまたまポケットに入っていた飴を一粒差し出してやる。
「飴……」
 差し出された飴を見つめながら呟いた彼女に、飴で機嫌取るとかガキじゃねーんだから、とはっとしたが彼女が嬉しそうに笑ったので効果はあったようである。
 じゃあ今度こそ俺は行くからと購買で買ったパンを抱え直して歩き出すと後ろから「本当にありがとうございました!」と馬鹿でかい声が聞こえたので何だか笑ってしまった。またこけんじゃねーぞと心の中で返事をして何も言わずに立ち去った。これが先週の話である。

***

 あの日と同じ水曜日の昼休み。また購買帰りに出会った彼女にお互い「あ」と口に出す。
 どうしようか迷っていると彼女の方が近寄ってきて、「あのときはどうもありがとうございました」と頭を下げる。
「俺は特に何もしてねーだろ」
「通路の真ん中ですっ転んだ女に手を差し伸べてくれた挙句飴を下さいました!」
「大したことじゃねーだろ。ちゃんと保健室行ったか?」
「行きました! 傷ももうかさぶたになったんですよ!」
 ほら! と膝を差し出した彼女に別に見せなくていいと笑うとすみませんと彼女も照れたように笑った。
「先輩は、2年生……ですよね?」
「おう。お前1年?」
「はい! あの、良かったらクラスとお名前を教えていただきたくてですね。その……お礼をしたいのですが先週は名前も聞かずに別れてしまったことを後悔していまして」
「いや、別にいーよそんなん」
 本当に大したことしてねーし、と右手を振ると「駄目です!」とその右手をがっしり掴まれたのでぎょっとする。
「とりあえず、クラス、名前! 教えて下さい!」
「に、2年B組倉持」
「B組の倉持先輩ですね! あ、私は苗字と申します!」
 勢いに押されて思わず名乗ると向こうも思い出したように名乗るので「お、おう。宜しく……」とがっちり握手をすることになってしまった。

***

 その翌日の昼休み。
 購買で買った焼きそばのパックを開いたところで「倉持、呼んでんぞ」とクラスの奴が教室の入り口付近を指さすので何かと思えば昨日自己紹介し合った苗字がそこに居た。
 仕方なしにパックを閉じて「どうした」と尋ねに行けば「昨日言ってたお礼をしに来ました!」と敬礼された。相変わらず元気だけは良い。
「別に良いっつってんのに」
「そういうわけにはいきません。と言うわけでこちらをどうぞ」
 苗字から渡されたのは可愛らしくラッピングされた袋である。
 何だこれと問えば「マフィンでございます。手作りで申し訳ないのですが」と返される。
「あ、そもそも甘い物は大丈夫でしたかね…? 私その辺確認せずに持ってきちゃったんですけど」
「おう、大丈夫だから有難く貰っとくわ」
 お礼されるような事はしてなかったがまあ貰えるなら有難く貰っておこうと受け取って、それでは! と元気よく帰って行った苗字を見送って席に戻るとにやにやした御幸が居た。一部始終を見ていたらしく「倉持くんも隅に置けないねえ」とからかうように言った奴に心底イラッとしたので「うぜえ」の一言と共に渾身のデコピンをかましてやった。焼きそばを食べた後にデザートとして食べたマフィンは結構うまかった。

***

 苗字が沢村と同じクラスだと知ったのはそれから少し経った後だった。
 沢村を訪ねて一年のクラスへ行くと沢村と話して居た苗字とばちりと目が合う。
 そして目があった瞬間、パアと花が咲いたような笑みを見せ、沢村が声を出すより先に「倉持先輩!」と駆け寄ってくる。それから少し遅れて沢村も「もっち先輩!」と俺のもとへ来るのでお前ら二人は犬かと言いたい。
「っていうか苗字、お前もっち先輩と知り合いだったのか?」
「そうなの! この方はね、私の恩人なのよ」
「いやおおげさだろ」
 冗談抜きでマジで。ただ転んだ女を心配しただけでこんなにも感謝されると逆に申し訳ない気がする。
「あ、マフィン美味かったぜ。サンキューな」
「本当ですか!? あんな物で良かったらいつでも作りますのでご遠慮なく!」
「なんすか! 俺を置いて二人の世界に入らないでください!」
「入ってねーわ」
 苗字と二人で話していることが気に食わなかったのか沢村が茶々を入れてきた。イラッとしたので亮さん直伝のチョップをお見舞いしてやる。
 沢村に本来の目的、部の連絡事項を伝えてじゃあ俺はこれでと立ち去ろうとすると「もっち先輩、野球部だったんですねえ」と苗字が言うので足を止める。
「おい、沢村のうつってんぞ」
「え?」
「もっち先輩ってやつ」
「あ!」
「そうだぞ、俺のもっち先輩とんなよ!」
「いいじゃない、私だってもっち先輩って呼びたい!」
「まあ苗字がそこまで言うなら許してやらんこともない!」
「本当? やったあ」
「おいそこの馬鹿二人」
 俺を置いて話を進めてんじゃねーし、もっち先輩って呼ぶんじゃねえ。イラッとしながらそう言ったが「そんなつれないこと言わないでくださいよー」と苗字、「そうっすよ! もっち先輩!」と沢村。揃って二人にチョップをお見舞いしていたら予鈴が鳴ったので慌てて移動を始める。
 沢村に伝言だけしてさっと帰って来るつもりだったのにとんだ誤算である。
 何とか本鈴が鳴る前に教室に滑り込むと後ろの席の御幸から「遅かったな」と声を掛けられる。
「あー、まあな」
 ぼかして言ったら「こないだのマフィンの子か?」と返ってきたので思わずガタッと音を立てて振り返ってしまった。
「ほら、沢村と同じクラスだろ? えーと、苗字ちゃん」
 何でテメエが知ってんだ。しかも名前まで。怪訝な顔になった俺に対して御幸は俺の言わんとすることを察したのか「いや普通に沢村と一緒に喋ってるとこで声かけたから」いくら沢村が一緒だったとはいえ野球以外でお前にそんなコミュ力があったとは驚きだわ。普段興味無いことに関してはとことん無関心の癖に一体どういう風の吹き回しかと問えば「だって倉持の彼女になるかもしれない女の子じゃん?」ぶん殴りてえ。
「だからそういうんじゃねーつってんだろ」
「え、そうなの?」
「こけてたから声かけただけだっつーの」
「やだ倉持くん優しい」
「マジぶん殴っていいか?」
「ちょっと元ヤン要素出してくんのやめて」
「ほんっとうぜーなテメエはよ」
 大げさなくらいの溜息をついたら「まあでもわざわざお礼しにくるなんて良い子だな」と言われた。それはまあ、そう思うので素直にそうだなと返した。

***

 昼休み、購買でパンを買った帰り。教室に戻ろうと歩いていると苗字の姿を見つけた。
 あの時のように走っていて、おいおいまたこけんぞ、と少し心配しながら見守っているとこないだとそう変わらぬ場所でずべしっという音を立てて盛大にころんでいたので思わず顔を覆った。
 今度は見知らぬ女子じゃないので駆け寄って「苗字、大丈夫か。またパンツ見えてんぞ」と声を掛ける。
 ふるふると震える腕で懸命に起き上がった苗字は俺の顔を認識するなり「うえ〜〜〜もっち先輩い」と泣き出した。なんでだよ、こないだは我慢出来たじゃねえかとまるで小さい子に話しかけるようにへたりこむ苗字の頭を撫でてやる。
「だって、こないだはもっち先輩、しらないひとだったから、しらないひとの前でころんだ上に泣くなんて恥のうわぬりはできないと思って……」
ひぐひぐと鼻をすすりながら言い訳した苗字の話を聞いていると前回は声をかけた俺が初対面の他人だったから必死に涙をこらえていたが今回は何回か面識があって知っている人になってしまったので気が抜けて涙腺が崩壊したらしい。なるほど。恥の上塗りなんて難しい言葉良く知ってたな、と慰めたがどんな慰め方をしてんだ俺は。
「ううう、痛いぃ」
「せっかく治ったのにまた膝すげーことになってんぞ。つーかお前は何で毎度毎度ここでこけんだよ」
「分かんないですうううう」
 うええええ、と子供みたいに泣きじゃくる苗字に周りの何だ何だという視線が痛い。おい俺が泣かしてんじゃねーからなと声を大にして言いたいがそんなことより痛い痛いと泣く苗字を何とかする方が先だろう。
「おい、立てるか?」
「うううう」
「どっちだよ! ああ分かった、おぶって保健室連れてってやるからいい加減泣き止め、な」
 ほら、としゃがんで背を向けたが「それはだいじょうぶですうう」と言って苗字は一人でよろよろと立ちあがった。よく頑張ったと言ってやりたいが向けた背のやり場が無くてちょっと複雑な気持ちだ。
「もっち先輩、すびばせん……」
「いや今更だからいい」
 曲げると膝が痛いのかゆっくりとしか歩けない苗字の膝は血がだらだら流れていて、よくもまあそんなになるほどの盛大なこけ方をしたもんだと逆に感心してしまう。
「女がそんな簡単に身体に傷作るもんじゃねえぜ」
「うう……作りたくて作ってる訳じゃないんですよ」
「そりゃそうだな」
と りあえずお前は通路を走るのやめろ。下がコンクリートだから転ぶと今みたいなことなるし。そう助言するとそうしますと素直な返事が返ってきたがこいつは走ってなくてもこけそうな気がして危なっかしい。
 その会話以降、保健室までの道中急に苗字が静かになるので、どうしたのかと顔を覗き込むと何だか難しい顔をしていた。
「んな難しい顔して何考えてんだよ」
「いや、あのですね……」
「おう」
「私、こけたりひっかかったりだとかで結構いろんなところに傷をつくるんですよ」
「ああ……」
 まあ、鈍くさそうだからなと追い打ちをかけることは言わないでおく。
「もしこれが高校卒業するまでに直らなくて、彼氏も出来ないまま生涯独り身だったらどうしようと考えたら何だか怖くなってしまって……」
 苗字は先程、女は身体に傷を作るべきじゃないと言った俺の言葉から連想して一人で勝手に落ち込んでいるらしかった。
 まあ確かに苗字はもう少し注意深くなった方が良いとは思うが一生彼氏が出来ない、独身だとかは無いんじゃないかと思う。顔も普通にかわいいと思うし愛嬌だってある。
「そんなことねーだろ」
「もっち先輩は私がどんだけ鈍くさいか知らないからそういうこと言えるんですよお」
「程度はともかく鈍くさいっていうのだけは知ってるけどな」
「ううう……弱ってる時にそんなこと言わないでくださいよお」
「自分で言ったんだろ! めんどくせえなお前は!」
 珍しくぐずぐずしているこいつにちょっとイライラして少し強めの口調になったしまった。女子相手にこれはまずかったかと焦ったが苗字は特に気にした風も無くそうだった! みたいな顔をしていた。何だかこいつの馬鹿さには毒気が抜かれる気がするが「た、確かにそうなんですけど自分で言うのと人から言われるのじゃ……」とまだぐずぐず言うのにはやっぱりイライラする。
「あーもー、じゃあお前が高校卒業して彼氏も出来ず独身だったら俺が貰ってやるから! それでいいだろ! いつまでもうじうじすんな!」
「わ、分かりました! もし私が卒業して旦那どころか彼氏も出来なかったら宜しくお願いします!」
 敬礼した苗字にそれでよしと言ったがちょっと待て。俺今すげえ事言った。すげえこと言ったな?
っていうか苗字もそれでいいのかよ。苗字の方を見たが特に何の変化も無い。相変わらず足をひょこひょこさせて歩いているだけだ。
 自分だけが意識するのも癪なので深く考えるのはもうやめようと思った。つーかきっとこいつは普通に彼氏も旦那も出来るだろうし。そう思ったら考えるのが馬鹿らしくなったと同時に、何だかちょっともやっとした気がした。

***

 まさかあの時言った言葉が決め手になってしまうとは思ってもみなかった。

 結局俺と同じ大学に進学した苗字は少しは鈍くささもマシになり、それなりに男達と遊びに行ったりもしていた。が、彼氏が出来る気配が一向にない。苗字のことを好きだという男の話も耳にしたことがあったのになぜだろうと思い首を捻る。
俺は相変わらず苗字にとっては頼れる先輩で恩人らしく、大学の構内で会う度に「もっち先輩!」と大きな声で呼ばれて駆け寄られていた。たまに苗字に誘われて昼飯を一緒に食うこともあったし成人してからは二人で飲みに行ったりもした。その時は既にあの時言った約束など忘れていたが、もしかしてこいつに彼氏が出来ないのって俺が原因じゃないよな? と少し心配になったので苗字と二人で、この日は苗字の希望で俺の部屋で宅飲みをした際に聞いてみたのだ。
すると苗字は気まずそうに視線を彷徨わせたが沈黙に耐えきれなくなったのか口を開く。
「……だって彼氏つくらなかったらもっち先輩が結婚してくれるかなって思ったんですもん」
 顔を赤くしながら視線を逸らしてそう言った苗字に、何だよお前、そんな、女の子みたいな顔も出来んのかよと思ってしまった。それから、自分が高校の時に口走ってしまったことも思い出して、つられて赤くなった。つーかそれって俺のこと好きだってことかよ。
「えっ! 先輩気付いてなかったんですか!? 私めっちゃアピールしてたじゃないですか!」
「いや、懐いてくれてるなあとは思ってたけどよ……」
「そ、そうなんですか……。気付いてなかったんですね……」
 ずうん、と落ち込みだしてしまった苗字に「あー、それはその、悪かった」と謝る。大学に入ってから少しは落ち着いて、化粧も覚えて女らしくなったな、とは思っていたが自分にとってはまだまだそそっかしい後輩という印象が抜けなかったのだ。……だがそれも今日までである。
 今俺は真っ赤になりながら唸りながら、今日まで俺を想ってくれていた苗字をかわいいと思ってしまったのだ。
 思えばきっと自分で気付いていなかっただけで高校の時から一人の後輩ではなく、一人の女の子として気にしていたからあんなことを言ったのかもしれない。
 最早癖になってしまっているこいつが落ち込んだり泣いたりしている時にする頭を撫でるという動作をしていると急にバッと苗字が顔を上げる。
「もっち先輩、彼女いませんよね」
「いたらお前と二人で飲んでたりしねーだろ」
「私も彼氏いません」
「知ってるよ」
「もっち先輩、高校卒業して私に彼氏が出来なかったら私のこと貰ってくれるって言いましたよね」
 脅迫ともとれるようなセリフに思わず笑ってしまった。
「な、何ですか! もう時効とか言ったら……」
「言ったら?」
「………泣きます」
 顔を歪めた苗字を慌てて抱きしめた。嘘だって、とあやすように背中をぽんぽんと叩くと急に抱きしめられた苗字は困惑したような声を出すので自分で言った癖におろおろしてんじゃねーよと笑ってやった。
「しょうがねーから俺が貰ってやる」
「え」
「お前まだまだ鈍くせーままだから俺がみててやんねーとな」
「な、何ですかそれえ……」
 ううう、と言って鼻をすすり出した苗字にここで泣くのかよ! とつっこめば、だってという鼻声が返って来る。
 私の気持ちに全然気づいて無かった癖にもっち先輩がそんな上から言うんですもん。
 予想外の返しである。いつの間に先輩にそんな口聞くようになったんだオラと頬を掴むと「いたたた嘘です! 本当はすっごく嬉しい照れ隠しなんです!」と顔を逸らされる。
 そういった動作の一つ一つが何だかすごくかわいく思えてしまって困った。

***

 それから俺が先に大学を卒業して、就職して、数年経ったある日。俺は苗字にプロポーズをした。
 今度はあんな何も考えずに口走ったものとは違い、何か月も前から入念に計画していた。
 プロポーズされた時の苗字はこけて泣いていた時以上の大号泣だった。ああもう泣くんじゃねえといつものように頭を撫でてやると「これはうれし泣きだからいいんです!」と返されて。まあ嬉しくて泣いてるんならいいかと好きなように泣かしといたらいつまで経っても泣き止まないので無理やり頭を掴んでキスをしたらびっくりしたのか急に大人しくなったのでちょっと面白くて笑った。

 ところで、今日は俺と苗字、……いや名前の結婚式である。
「ではここで倉持くんと名前さんの馴れ初めを話したいと思います」
 スクリーンに俺と名前の写真を映しながら切り出されたそれは俺と名前の両名を知る御幸の口から語られた。沢村という案もあったがちょっと不安だったので御幸に頼んだ。
 二回目にこけて盛大に泣いた、という部分が語られた際の名前は少し恥ずかしそうにしていたが、コメントを求められた際に「ええと、洋一さんには言ってなかったんですけど、二回目に助けて貰った時にこの人は私の運命の人なのかもしれないと思っていたらやっぱり運命の人でした。痛かったですけどあの時こけた自分を褒めたいと思います」とはにかみながら言うのでこっちまで照れた。
 だが隣で幸せそうに笑っているのを見ているとそんなことはどうでも良くなってくる。
洋一さんは、と振られたのに「あー、……あの時何も考えずにプロポーズまがいのことをした自分を褒めたいと思います」と柄じゃない事を口走ってしまうぐらいには俺も幸せだった。

150112


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Lilca