氷室くんが振られたらしいよ

そんな噂が実しやかに学年、男女問わず賑やかにさせたのは秋田の侘しい春の頃だった。
春といっても関東に比べたらまだまだ寒いと言えるような気温の中、陽泉の生徒たちは少しづつ少しづつ、装いを軽くしていく。

反して彼の心は決して軽快ではない。

カンッ
蹴飛ばした空き缶は名前の通り小気味いい音を立てて、クリスチャン学校に似つかわしい静閑な中庭に鎮座した。


ふざけるな、何が楽しい
日本人はみな他人の不幸が楽しいのか?


冷酷な色を宿した右目に気づく者はいなくて、なのに廊下を歩いて中庭へ向かっていた彼は大勢の視線を集めてた。
それは目的地に到着するまでに彼のイライラを増幅させるものでしかなくて、隠していい顔をしてやるという選択肢は早々に彼の中から消え去った。


別にイライラしたって今から向かう場所で彼女が受け止めてくれる


その企てはきちんと成立させられた。


「いきなり空き缶ぶっ飛ばされたらさすがにびっくりするかなぁ」


氷室の蹴った缶音の反響が消える前に困ったようなそうでもないような曖昧なクスクス笑いが彼を出迎える。
寒々しいのに素肌にハイソックスなのは女子高校生の定めなのか、やわらかく寒そうな脚を放り出して、壁に寄りかかって座っていた。

一個年上、三年生の名字名前。

ごくごく普通の女子生徒。
ただこよなく音楽を愛し、音楽のない世界では生きられないと豪語するほどの音楽好きな音楽家である。
片耳で聴きながらリズムを指先で叩き脳内でスコアを思い描き即座に自分ならこうアレンジする、と考えるだけで休日を潰すことなど容易い人間だ。

彼女の片耳を塞ぐイヤフォンを力任せに引っ張って取り去り、氷室はドサリと乱雑に、けれどもどこか優雅に座った。
それを紳士的だの上品だのと騒ぐ子もいれば、演技がかっていて鼻に付くという子もいるだろう。
名前はどちらでもない。
つまり彼自身の人間性が見た目にそぐわないだとか妥当だとか、そういうことに興味がない。


音楽より奥深くて面白くて己を興奮させるものではないから


先週に氷室が振られたことは事実であった。
溜まりに溜まって降り積もった不平不満や苛立ちを解消しきれなくて中庭に逃げ込んだ時、氷室は名前に出会った。
軽々しく紡がれる「ああしてみれば。じゃあこうすれば?」と言われる事々を「そんなの出来るわけないじゃないか。俺はみんなにこう見られている」と否定しながら自分自身を曝け出すのは気持ちが良かった。

名前との討論が終わった後には彼は必ずスッキリと、前向きな気持ちになれる。
それに気づいてから彼女自身という人間に興味が出て惹かれるのはとても早かった。


「ねえ何が好き?」
「今日は何食べた?」
「昨日は何時に寝たの」
「本は読む?オススメは?」
「どんな人が好き?」
「ねえ、ねえ…」
「俺のこと、好き?」


毎日飽くことなく質問して飽くことなく答えてくれていた名前からの回答はとっても思わしくないものであった。


「大好きだよ。音楽の次に」


なんだよそれ
これ見よがしにムッとして苛立ちを表す氷室に名前は苦笑した。

対人関係という括りで見たら彼はとても自分に対して理解力を持ってくれるし、仮面を脱ぎ去った彼は魅力的だ。
しかし、と名前は顎に指を当てる。

恋愛は音楽のように自分の探究心と知的好奇心を満たしてくれるのか、と。

その疑問ゆえのNOという答えのつもりだったが、氷室は自分自身を否定されたと思い込んでいるらしい。


「イライラするのは体に良くないよ」
「誰がそうさせてるんだよ」
「さあ…ただ私が辰也の望む答えを告げられなかったということだけはわかるけど」
「ふざけてるのか?」


見えているのが右目だけだからか、氷室はいつも名前の左側に腰掛けていた。
タレ目と反対につり上がってる眉を、下げるように実羽は彼の眉尻を無理やり触れた。


「名前!」
「怒んないでよ、辰也」
「君が怒らせてるんだろ!?」


どうどう、と両手で制してみても熱くなった氷室は止まらない。
こんな激昂型で今後大丈夫なのか、といらぬ心配が脳内を占める。


「私、人の中で、んんーと……異性の中でも対人関係の中でも辰也が一番好きだよ?」


そう言ってどこぞの金髪美女のように頬へキスを送れば、慣れているはずのアメリカ帰りの少年は顔を真っ赤にした。


「………はあ、もういい。俺は音楽の次でいいよ」
「へへ」
「ただ俺といない時だけにして」
「あはは、ハイハイ」
「俺といても聴きたいなら、片耳寄越すことな」


クスクス笑いが肯定とわかったのは、彼が彼女への理解度をまた上げたからであろう。




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