「お、お先に失礼しま〜す…」
ナース服と羽織っていたカーディガンを乱雑にロッカーへ放り込んでから、なるべく早く女子社会から立ち去る。
広いが最先端を極めているわけではない秋田での病院といったら限られていて、どこどこの外科医とやれ合コンやら町医者と食事やら、看護師は意外と飢えていることを知った。
今年の四月から配属されたまさかの秋田の大学病院。確かに大きな医療法人に決まってはいたが、こんな僻地に飛ばされるとは思っていなかった。
何でも、ここの病院のお偉いさんとうちの医療法人のお偉いさんが古い仲で、過疎化する秋田の地で募集しても来ないナースに嘆きをあげたと。
研修をがんばっていたからか何なのか、腕を見初められ白羽の矢が立った。
断ることも出来たけど、それをしなかったのはひとえに秋田の高校でバスケをがんばる恋人の存在だった。
東京にいたときに彼から声をかけてきて、こんなかっこいい人からナンパされるなんて、ドッキリか!?と終始疑心暗鬼になっていたが、部活の遠征の度に会いたいと言い時間を割いてくれることや、試合に負けた後に私に会うと耳を真っ赤にしてカッコ悪いな…なんて言われたら信じてしまう。
まあ、単純に言えば外見も内面もイケメンな彼に押し負けたのだ。
それからは毎日数通のメールのやりとりや週末の電話、長期休みのときには私の部屋に泊まったりしていた。
「(だからラッキーだとは思ってたけど…)」
彼が高校を卒業するのを機に東京に来るかな、なんてのんびり思ってたけど、私が先に身を乗り出して来てしまった。
立ち仕事のせいでぱんぱんになった足をなんとか動かしながらコンビニへと入る。
けれど何を見ても食べたいものがない。
食欲ないな…
時間は午後七時半すぎ。
このまま帰っても絶対に寝る前にお腹空くだろうしなぁ。
ご褒美に、とハーゲンダッツのカップと気休めの野菜ジュースを持ってレジへゆく。
通い詰めているせいか挨拶をしてくれる店長さんの、「お疲れ様」がじんわり染みるほどに私は疲れているらしい。
実際秋田に来てみたら寒さで驚くわ仕事は忙しいわの二拍子で彼氏に会う時間なんてほぼなかった。
彼も忙しいしな…なんて大人らしい理解あるフリをしたって疲れているし気苦労もあるし、存分に甘えたい。
お風呂上がったら電話してみるかな、なんて考えながら鍵を開けてドアを引くと、光が私を包み込んだ。
「へ…?」
あれ、私朝に電気消し忘れたのかな。
もうそんなこともあやふやになるくらい疲れてるのかな。
「はあ…しょーもな…」
「あ!おかえり名前」
「っ!?た、辰也!?」
さっさとパンプスを脱ぎ捨てて廊下を突き抜けてベッドにダイブ、のつもりが途中で艶のある黒髪で片目の隠れた男がひょっこり浴室から顔を出した。
「え!?ちょ、なんでいるの!?」
「合鍵くれたのは名前じゃないか。コレはいつでも来ていいって意味だろ?」
「や、そうだけどさ…」
「お風呂、たった今沸いたんだ。入っておいでよ、その間に食事の準備するから」
ぽんぽん
頭を撫でられて、不意に涙が出そうになったから慌てて俯く。
そしたらぎゅっと抱きしめられた。
「忙しいと思って遠慮してたけど。来て良かったよ」
「…忙しいのは辰也でしょ」
「そんなことないよ。寮だから食事やシャワーも簡単だし」
わしゃわしゃとかき混ぜられる髪の毛に安堵する。こんなに人の温もりが心にくるなんて。
「そんな顔してるんならもっと早く来ればよかったな」
「そんな顔って、どんな顔…」
「寂しくて泣きそうな、ウサギみたいな顔」
そう言っておでこにキスをして、早くお風呂に入っておいでなんて。アメリカ帰りは伊達じゃない、キザだ。
だけどそれが決まるくらい、私の彼氏はかっこいい。
奪い去られてたカバン。
手持ち無沙汰になったし、しょうがない、お風呂に入ろう。
お湯はるなんて久しぶりだなぁなんて思いながら服を脱いで半透明の扉を開ける。
「ほわっ!?」
そこは、寂れた秋田の小綺麗なマンションの浴室ではなく、よく海外映画に出てくるようなバラの花びらが散った湯船になっていた。
「たっ辰也!」
「気に入った?アメリカにいる母親がさ、彼女出来たって言ったら張り切ってたくさん送り付けてきたんだよ」
少しくぐもって聞こえる彼のしてやったりな声にため息をついて、いつものようにシャンプーなどを済ます。
こんなお風呂入るの初めてだ…
緊張しながらゆっくりゆっくり、つま先から付けていく。
息を止めていたのか、肩まで浸かったらほーって長いため息が出た。
ほのかにピンクで甘い匂い。
なんの匂いだろう?
バラの花びらや紫のパンジーの花びらがあって、幼い時に見た絵本の中のようだ。
ほっこりしながらもしっかり足は揉みほぐしてから上がる。
一度きりだなんてもったいない気もするが、辰也のセリフからするとまだまだたくさん何かがあるのだろう。
スキンケアをして、髪は少しめんどくさいから濡れたままリビングへ行く。
「どうだった?」
「……お姫様になった気分」
「はは、顔色も良くなったね。ほらここ座って、お姫様。髪の毛乾かしてあげるよ」
あらかじめ準備していたドライヤーを握って辰也が笑う。
なんだかなぁ。
いつだって私は辰也にほだされてしまう。
「夕食はパスタだよ。麺とバジルが送られてきたからジェノベーゼにしたんだけど食べれる?」
「ん」
人に髪乾かしてもらうのって、美容院でしかないから不思議な感じ。
美容院だと終始緊張してしまうからあまり寛げないけど、辰也の手先は優しくて眠くなる。
カチッと音がして、温風が止む。
手櫛で整えられてそのまま後ろから抱きしめられる。
「……疲れちゃったよー辰也」
「俺は名前がいつも気を遣いながら頑張ってるの、知ってるよ」
肩凝ってるね、だなんて言って肩もみまでしてくれる。
マッサージしてもらうより何より、自分を認めてくれるこの温もりが愛おしかった。
「ソースは作ってあるからパスタ茹でるよ」
「じゃあその間にストレッチしとかなきゃ」
私がそう言って足を伸ばすと辰也はキョトンとしてから、目を輝かせた。
「最近チームメイトに足ツボっていうのを教えてもらったんだ。名前は疲れてるんだろう?疲れにいいって劉が言ってた」
「え、いや、それはそうだけど…辰也出来るの?ちゃんとツボ押さえなきゃなんだよ?てゆうか劉ってだれ」
「大丈夫、ちゃんと教えてもらったから。劉は中国からの留学生だよ」
「あなたの周りはグローバルね…っていたたたた!痛い!痛いよ辰也!」
「疲れてる足には痛いんだってさ」
「ちょ、ほんとに痛いからぁ!」
ぎゃあぎゃあ言ってるうちに全身マッサージしてもらって、痛みにひれ伏す私を脇目に彼はキッチンへと消えた。
普段弱音を吐かないからか、今日の辰也は私にいつも以上に優しい。
「(辰也だって疲れてるはずなのにな)」
ご機嫌にパスタを茹でて、湯きりをしてソースと絡める彼を見ながら思う。
悪いことしたなぁと思う反面、今の自分にはとてもありがたい。
「フレーバーティーもあるから、食後は名前の買ってきたアイス使ってアフォガードにしようか」
たまには、こんなご褒美あってもいいよね。
「うん」
一緒にキッチンに立って、彼が綺麗に盛り付けられたお皿は辰也が持ってくれたから、グラスと水を二つ分持って座る。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
今日は冷たいベッドに一人で入る必要はないようだ。
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