中学校生活は順調というほかないくらいに平穏に過ぎてゆく。
入学して初めての夏に起こった、幼馴染とのやわらかいあの出来事はお互い掘り下げずに、奥底にしまったままだ。
彼は彼でバスケ部として部活動に勤しんでいるし、私は彼の目に触れないよう、人の目に留まらぬよう模範的な生活を送っていた。華のように人目を惹きつける彼とは完全に別世界のようにひっそりと生きている。
関りたくないわけではない。関係を失ってしまうことを恐れてあの日手を握り締めたのは私だったし、それに答えた彼もまた周りの煩わしいからかいとやっかみの波に揉まれただけのように思える。時折すれ違うときに互いを求めるように交わる視線が証拠だろう。
しかしそれだけであって、何をどうすることもできない。自分が変化を望んでいるかすらも不明瞭だ。
はあ、とため息をついて机に腕を伸ばす。浮き出たように私の白い腕が、なぜか現実離れしているように感じる。
何が不満というわけでもないけど、どこか空っぽ。
夏なんてすぐ通り過ぎていって、気づけばぼうっと受験の勢いに押されていくのだろう。なんとなくで構成されて満たされてく私の日常は、幼馴染と話さなくなって二年が経っていた。




この学校は部活動に入ることが条件だったので私は古典部に仲のいい友人である美咲と入部した。古典文学を読み、気に入った一文を万葉仮名で和紙に書き、それを作品として展示するのが活動。
古典を読む期間も書き初めをするのも個人でスケジュールを立てられるし、何より普段の授業では習うことのない万葉仮名を書けるようになるのは嬉しい。授業で軽く源氏物語が出てきたときはとても興味を惹かれたし、古典文学を自由に読み耽ることのできる古典部は天国だ。


「美咲ー?部活行こう?」
「待ってー。遙、明日提出の宿題なんだっけ?」
「明日は英単語のプリントと予習だよ」
「ありがと!よしオッケー!行こうか」
「がんばってねー!美咲、遙」
「また明日ね」
「バイバイ〜」


残っていたクラスメイトに別れを告げ、部活動にいく途中の生徒で浮き足立つ廊下を美咲と歩く。
美咲とは同じクラスになって親しくなったが、弁えるとこはきちんと引いて見ていてくれるし、無理に話さなければいけないような空気もなく。とても居心地がいい。二人でよく一緒にいるし、けれどもクラスの人たちともそれぞれ当たり障りなく仲が良い。
くっつき過ぎず、適度な線引きをした心地よい関係。


「遙は今日なにすんの?」
「んん、今日は本読んでようかな。まだね、書きたい文章が絞り込めないの」
「めずらしー。遙はけっこうコレ!てピンときたら速攻書いちゃうじゃん」
「今回は印象的でいい文が多いのー」


実りのない話をけらけら笑いながらする。この時間は、すごく癒されるんだ。部室に着いてそれぞれの席に座り、本を開く。
文字を追っているうちに思考がずれる。
部活がんばってるかな、とか。バスケ部の練習はやっぱりキツイのかなとか、離れてしまった幼馴染を思い浮かべた。
現実逃避でしかないとしても、きっと友達がいなかったらゆるりゆるりと、幼馴染みのいないこの生活に私は殺されていただろうと思うんだ。離れてから得たものは、平穏と安心と、虚しさと寂しさだった。いつまでの私がほんとうの私だったのだろう。今は一人でぼうっとしていると、昔のよく笑いながら喜んで、彼のために生きていた自分が別物に思えてしまう。
後悔。その言葉しかないのかもしれない。
真太郎と離れて、安全のために選んだずるい私の選択が間違っていたなんて、いつか伝えることが叶うだろうか。
叶わないんだろうなぁ。取り留めのない思考に少しずつ昨日までの自分が殺されていく。
古典部の部室は三階にあり、もうすぐ夏がくるため窓は全開になっている。だから、必然的に体育館から声が聞こえる。ボールの跳ねる音が聞こえる。床を擦る靴音が聞こえる。
溢れた音たちの中に真太郎のものは混じっているのだろうか。
クールな彼が部員に混じって声を出し合ってキャプテンや監督にしごかれてると思うと笑えるな。
それと同時に切なくもなる。どんなに想像したって、この瞬間に私に聞こえるのは、私の知らない声だけ。


「あれ?遙やっぱり書くの?」
「…うん。気が変わった」


硯に水を入れ墨を擦る。
ふわりと広がる香りに、単調な墨を擦るだけの動作に、集中して思考を消していく。
ただ無心で頭に残っていた古文を書き出していく。万葉仮名を柔らかく紙に落とす。普段書くものよりも長めのものを書いて、一旦筆を硯で休ませる。ほう、とそっと息を吐き出す。


「無心になって書いてたねえ遙」
「…そう?」
「うん。遙が書いてるときはついつい見ちゃうよ。静かにすっと集中してさ、人形みたいにきれい」
「もーなにそれ。そんなこと言っても何も出ないよ?」
「言葉使いもきれいって言うか丁寧って言うか…おっとりしてて心地いいし。さすが大和撫子!」
「え、変な呼び方しないで」
「おしとやか美人だから。同意してくれる人も多いんだから」
「美咲、お口にチャック」


まったく、キセキの世代といい、帝光の人たちは恥ずかしいあだ名をつけたがるのかな。苦笑して美咲を見遣る。


「そんないいものじゃないですよ」
「私にとって遙はいいものだからいいの」
「お調子者!」


美咲をからかいつつ帰り支度を始める。硯は和紙で墨汁を拭き取るのみで、水道では洗わない。
理由は忘れてしまったけど、確か顧問の先生が水道で洗わないことで道具が長持ちするしいい味を出してくれるんだと言っていた気がする。そのときはそんなものなんだとしか思わなかったけど、今ならその気持ちがわかる気がする。
水で洗えばきれいにはなるけど。書く度に積み重なっていく墨は、硯の滑りを滑らかにして少しずつ溶けてすぐ濃くなっていく。人の記憶と似ている。
ぼんやりとそんなことを考えながら帰り支度をし、美咲と共に部室を後にし人気のまばらな廊下を歩く。
外の喧騒を受け入れるだけだった古典部の部室が、静かに喧騒を生み出し、この狭い世界に紛れていった。
玄関までもう少し、というところの長い廊下の先に見える体育館。
体育館はこの廊下をさらに奥に行ったところにあって、扉は開いているため音はもちろん部員もちらほらと見ることができる。
コートの中を走り回っているのだろう、行き交うボールと過ぎ去る様々な髪色。ちらりちらりと緑色が風に揺れながら動くのが見えて、切ない。こんな遠くで見るしかできない。


「遙ー?」
「、今行く」


でも何を言ったって、どんなにたくさんのことを思っていたって。
もう離れてしまっているんだ。
きっといくら後悔したってあのときの私は最善策を持ち合わせていなかった。



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