例えば、時間が足りないだとか、手に負えないだとか。あとは自分がもう一人いればいいだとか。
とりとめもないことを考えながらほんのすこぅしぞっとする。
昨日、真太郎に声をかけた自分。
浅はかだった、彼にとってはいい迷惑だろう。
暑いから帰る前に飲み物でも買おうと、体育館横の自販機に行った時。たまたまバスケ部であろう人達が鬱憤を晴らすがごとく、真太郎のことを貶しているのを耳にした。
彼は昔からわかりにくいが誰よりも努力家で、誰よりもさりげなく優しくて。誰よりも、ただまっすぐに向き合っているだけ。
なんでそんな風に努力を諦めた人達に悪く言われなければならないの?
こんなとこで口を動かしてる時間があるならいち早く体育館に行ってやれることがいくらでもあるじゃないか。
真っ黒い渦が胸中にわだかまって、だけど私が口を出せることじゃないから切り替えようと振り向いた先には真太郎がいた。
言葉を失うとは、こういうことなんだと思った。
真太郎の、何でもないというような素振りと理解されることはないのだろうという諦めの混ざった表情が。めずらしく少しだけ伏せられた目線が。一回どくりと鳴ったあと、消えてしまったかのように静かになった心臓が。そのすべての現象が私を無意識に動かした。
真太郎は優しい。疲れててもいつだって人を思い遣ってくれる。
真太郎は努力家だ。きっと今でも毎日毎日、飽くことなく居残りして練習してるんだ。彼が人前に見せる姿は一朝一夕のものなんかじゃない。


『ノートを見せてくれてありがとう』
───小学生のときはよく具合悪くて休むと何も言わず普段よりも丁寧に書かれたノートを貸してくれた


『今日も自主練習していくの?』
───昔からあなたは妥協なんてしないし自分を甘やかすことしなかった


こんなにも真太郎は…


泣きたくなった。けど私は笑わなくちゃ。あなたにもうこんな声がきこえなくて済むように、私が真太郎の耳を覆うから。
でもきっと私の中には、彼にまた私を見てもらいたいという汚い欲望があったんだ。
見えないふりをしていた欲望に気づかされて、胸に重たくストンと落ちてきた難しいこの気持ちを抱えながら手のひらを見る。
この気持ちは、本当に私のものなんだろうか。真太郎と手を繋いで歩いていた頃には知り得なかった気持ち。
確実に、離れていても心と体は成長してるんだ。
真太郎が、昔は見せなかった、あの何かを耐えながらも絶望したような表情も、成長した証拠なんだね。
窓の外を走り回る男の子たちを眺めながら成長とはおそろしいな、と思う。
しかしお昼ご飯を食べる前にあんなにはしゃいで、やっぱり男の子ってすごいな。


「ねね、遙」
「…んー?」


外の喧騒に浮き足立つように意識を手放していた私を、ここだよ、と教えるように美咲はやさしく呼ぶ。
彼女はどんなときもそうだ。私が心ここに在らずでも怒りはしないし、むしろゆっくりとタイミングを見計らって呼び戻してくれる。真太郎の声を聞かなくなった今、私の耳に一番なじむのは彼女の声だ。


「もうすぐバスケ部の全中始まるね」
「そうだっけ?」
「この間の朝礼で激励会してたから確かだよ。夏休み中だけどさ、日程表見て決勝行かない?」
「んー…って言っても美咲もそこまで興味ないでしょ?」
「まあねー。ただ自分たちの部活が競い合うものじゃないから、全国の舞台に立つ試合なんて滅多に見れないし行ってもいいかなーって。一緒に行こーよ」
「えぇー…どうしようかな。一応予定は確認しておくけど、保留にしといてー」
「いい答え期待してるからね!」
「はいはい」


むぅ、と拗ねる美咲をくすくす笑いながら撫でる。


「あ!遙、私一回教室に戻らないとだった」
「忘れ物?」
「ううん。英語の提出物まだ出してなくてさー。ご飯食べてから出しに行っちゃおうと思って。遙はもう出したでしょ?」
「うん。じゃあ私もお手洗いに行って来ちゃうから教室で待っててね」
「了解!んじゃねっ」


慌てなくてもいいのに、パッと教室に飛び込んで行く美咲。明るいからすぐにクラスの子に話しかけられている。
まあお手洗いに行って戻ってくれば終わっているはず。






(あれ?いない…)


教室に戻ってるだろうと思った美咲はおらず、困惑する。もうお昼を食べる屋上前の踊り場にいるのだろうか。
他に心当たりはないし、他の用事が出来たにしろそこまで遅くならないと思うし、私も踊り場に向かってしまおう。
屋上前の踊り場は人があまりいない。大抵みんな教室でご飯を食べたり、体育館で遊んでいるからそもそも上へと続く階段を登ってくる人がめずらしい。たん、たん、と響く足音を聞きながら一段一段を踏みしめる。


「………?」


あまりよく聞こえないが、ぼそぼそと人がしゃべっている声がする。
美咲が誰か連れてきたのかな。


「美咲ー!ここにいたの?」
「秋原は残念ながらいないよ」


駆け足気味に残りを登り切り、美咲本人かどうかも確認せず声をかければ、まさかの人違いだ。しかも男の子。
答えを返してきた声に驚きつつも駆け足の勢いは殺せず、ぐんと階段を登りきる。曲がった先の踊り場にいたのは、なんと将棋をしている赤司君と真太郎だった。
私に背を向けるようにして座っていた赤司君は後ろ手に私を振り返り、くすりと幼く笑う。あ、笑うと可愛いな。


「七瀬さん?どうかした?」
「!あ、ごっごめんね!友達探してて、いつもここでお昼食べてるからつい友達だと思い込んじゃって…」
「いや、気にしないで。僕たちもこんなところで一局打っていたしね。でもかれこれ二十分くらいいるけど、ここには来てないよ」
「そ、そっかぁ…ありがとう、邪魔してごめんね」
「見つかるといいね、秋原」


目元を和らげて手を振ってくれる赤司君越しに、まだ驚いて固まっているらしい真太郎を見つけた。
ああ、最悪。
せっかく赤司君がこんなに可愛く笑って手を振ってくれてるというのに、瞠目した真太郎ばかりが気になって焼きついてるだなんて。
階段を曲がりきって二人が見えなくなる前に、ちょっとだけ振り返ってみようかな…もし、目が合ったら。そしたら今度ある中学最後の全中は、こっそり応援に行こうかな。
瞬時にそんなくだらないことを決める。私はいつも勝手に、期待も失望も君に賭けてしまう。
ゆっくりと自分の目線が動くように感じるけど実際はたったの一瞬で、


「……っ」


鮮明な深い色が私だけを映していた。優しくてそれでいて少しだけ申し訳なさそうな色。
小さく私の名前をかたどったその薄いくちびるに、好きだよと言えたらどんなにいいだろうか。
ねえ、あなたの耳に届く暗い声たちは、私が塞ぐから。
だからそばにいさせてよ。
もう一人の私がいたら、こんなことにはならずにまだ真太郎の隣にいれたのかな。



ALICE+