今日は特に用事もなく、クエストも頼まれていなかったわたしはバトシエの自室で花に水をあげていた。敵の攻撃の手が休まっている間は自分たちも休養を取るべきだと、ディルクさんがそう言ったからである。休日をどのように過ごすのかは人それぞれで、わたしは自室の掃除と整頓でもしようと思い立ったのだった。アリーナちゃんには鍛錬に出かけましょうと誘われていたけれど、隣に居たクリフトさんが困惑しながらも阻止しようとする様子が見えたので、わたしの方からも彼女に休息を取るように進言しておいたのは数刻前の話。 ピンク色の花弁は瑞々しく、柔らかな香りを部屋全体にもたらしていた。時折、水やりを忘れてしまっていたのにも関わらず、こんな風に優しく佇んでいるのだから、わたしは自分の意識の低さを反省。癒しを運んでくれる花に対して、きちんと返すべきだ。水差しから降っていく水の粒たちは花弁にくっつくと、つうっと葉を伝い、茎を伝い、根元まで落ちていく。その一連の流れを暫く観察していたわたしは自分の手に握っていた水差しをふと見やり、少し汚れていたことに気づいた。水やりを忘れなかった日でも、水差しを使いっぱなしで、そのものを掃除したのは記憶に無い。購入してからというものの、掃除を怠っていたというわけだ。 「綺麗に洗いましょうねー」 水差しを片手に持ったわたしは自室のドアを勢いよく開いた。スポンジは何処にあるかしら、そんなことを考えながら歩き始めようとしたけれど、自分の足の先にブーツがあることに気づく。誰が訪ねてきたのだろうと顔を上げると、いつもと変わらないクールな表情のロイヤルパープルの瞳と目が合った。 「あら、テリーさん。何か用事でも?」 返事が無いのは珍しいことではない。彼は口数がもともと多くない方で、わたしと会話をするときも極力言葉を発さず、表情や相槌で済ませることが多かった。そのため、わたしは彼の反応を伺う。此方が疑問系で尋ねているのだから、用事があるのであれば頷く動作を見せるだろうし、単にわたしがドアを開けたタイミングで前に居ただけなら、いつものようにフッと冷たくあしらわれるだけだ。 けれど、眼前の彼は無反応で、わたしは首を傾けて軽く手を振ってみる。心ここに在らずという感じで、本当に反応が無い。彼に限って、人をからかおうなんて気は間違っても起こさないし、寧ろ口を開いて皮肉を零しては意地悪く笑ったりすることばかりだ。わたしだって、戦闘中の鈍臭さを戦闘終了後にかなり指摘されたものである。的確な指摘は反論を少しも許さず、わたしは彼に引っ込んでろと言われる始末だった。あれから注意された点には気をつけているのだけれど、わたしは無意識にまた何かやらかしてしまったのだろうか。だから彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。 「あの…わたし、またテリーさんの気に障ることを…?」 尻すぼみになっていく言葉が彼に届いたのかはわからないが、わたしの言葉はそこで途切れた。カランと音を立てて落ちたのは先程、綺麗に掃除をしようと誓った水差しで。水やりの際に少し残っていたのだろう、中身の水がカーペットにじんわりと染みを作る。 「えっ、あのっ、」 水差しを落としてしまったのは、その手首を彼に掴まれて驚いたからである。乱暴にバタンとドアを閉めた彼の行動の意味が分からないわたしは、来客に連れ込まれるような形でまた自室に戻ってきてしまった。 彼はわたしの腕を引いて、部屋の一番奥を目指して足を動かしているようだった。目的が分からないけれど、相変わらず彼は言葉を発さない。他人に聞かれては不味いことでも言いに来たのだろうか。いやもしかしたら、わたしの問題行動に対して仕置きでも考えているのかもしれない。一体どんなに仕打ちを考えているのだろう。事態を悪い方へと考えていたわたしの顔は恐ろしく強張っていたに違いない。 「て、テリー、さん!わたし謝りますからっ、それだけは…!」 ぐるん。 この音が一番表現に適していると思った。一瞬宙に浮いたかと思えば、ローズの香りがふわりと薫る場所に体が沈んでいる。鼻につく、この匂いは先程わたしがベッドの掃除をしたときに仕上げとして撒いた匂いと酷似していた。髪を纏めていた筈のヘアゴムはいつの間にか切れてしまっていたようで、髪の毛が広がるように散らばっている。あの紫色のヘアゴムはお気に入りだったのになあ。なんで気に入っていたと問われたならば、少し恥ずかしいけれどこう答えるだろう。好いている男の人の瞳の色にとても近いから、と。 紫の瞳がわたしを貫きそうだった。 「…テリー、さん?」 自分の重さに何か重さが加わっているせいで、いつもよりも深くベッドに沈み込んでいる。天井がいつもより少しだけ遠い気がした。こういう部分は敏感なクセして、肝心な所で鈍感を発揮するものだから仲間にどれだけ迷惑をかけたか分からない。 ちょうどお腹の辺りに馬乗りになっているのだろうか、冷静にわたしの脳は判断をしたけれど、それはある事実を突きつけているに過ぎない。そう、わたしは彼に押し倒されているのだ。その現実を自分の頭ではっきりと自覚したと同時に顔を覆いたい衝動に駆られ、手を動かそうとするが、ひんやりと冷たい手袋がそれをさせまいと邪魔をしている。つまりは全く身動きが取れない状態に置かれているのだ。 自分の赤い顔に触れて、熱を冷ますことさえ出来ない。 「テリーさん、どうしたんです!?」 「…名前」 やけに甘ったるい声で呼ぶ彼の初めての姿に戸惑いを隠せずに、目をぱちくりさせたわたしの顔の前には青い閃光と呼ばれる人の顔が接近していた。出会ったときから端正な顔立ちだとは思っていたけれど、こんなに近くで見つめられてはたまったものではない。心臓が跳ねる。ドクンドクン、と脈打つ音が、わたしの好意を物語っていた。 好きな人でなかったのならば、大声を出したり暴れたりと抵抗はいくらでも出来たはずだ。わたしはそんな陳腐な抵抗をする気にはなれない。頭の何処かで彼の行動の意味を知りたいという好奇心とほんの少しの期待が交じり合っては、心臓を煩くさせる原因となっていた。 揺れる銀髪はわたしの頬を掠め、くすぐったさに身を震わせる。けれど、次の瞬間に跳ねた肩は、くすぐったさではなかった。首元を生温かな何かが這うような感覚がしたためである。ちゅぷ、と耳に聞こえた音はわたしの腰に響くようなもので、懸命に音の原因を頭で考えるのだけれど、鎖骨の辺りにやってきた生温かさに遂に負けて、我慢していた吐息が漏れる。 その息に反応した彼が顔を上げたとき、わたしは確かに違和感を覚えた。恥ずかしくて、瞳をずっと直視することは出来ずにいたのだけれど、何処かぼんやりとした虚ろな瞳をしていたのである。いつもの鋭い紫の主張がなされていない。もっと、相手に噛み付くことを思わせるような挑戦的な瞳をしているのに。それに、今気づいた。 「…っ、ん」 「名前」 吐息が零れるそれに蓋をするように、彼のものが覆い被さってくる。傍から見れば、完全にわたしは男の人に襲われているように見えるだろう。がぶりと噛み付くような、荒い接吻に思わず、またもや頬を染めてしまったわたしもわたしだ。まるで喜んでいるよう。彼に求められているような錯覚を起こして、素直に受け入れてしまっているのだから。 だって、好きなひとだもの。嬉しい、という感情が溢れてしょうがない。同時にもっともっと、なんて欲しがってしまっている。ああ、なんてはしたない女なんだろう。 形の良い唇から名前を紡がれて、鼓動は早まるばかり。顔を横に逸らして、窓の外を見やれば、まだお日様は一番高いところから遠かった。わたしたちは朝っぱらから、こんな行為に耽っているのである。 「…お前を、抱かせて欲しい」 「えっ!?」 今の時間に相応しくない、と思っても止めないでという気持ちが勝っていたわたしに彼が突然の爆弾を落とした。ちょっと待って、今、聞き間違えてなんてないよね。抱かせてなんてワードが聞こえたような気がする。 恋で周りも自分も見えていなかったわたしはそこでふっと我に返る。彼とさっき、キスをした。でも、わたしたちは恋人などでは無い。そして追い打ちをかけるような言葉。彼は色恋沙汰なんて興味が無いという雰囲気を纏っているのだから、絶対にありえなかった。もし興味が仮にあったとしても、こんな早急に事を進めるような男の人ではない筈。わたしの勝手なフィルターがかかっているだけかもしれないけれど。 「…フッ」 「ちょっと待ってくださいっ、テリーさん!笑ってる場合じゃないですよね!?」 笑った彼の表情はそれはもう優しいもので、普段は絶対に見ることが出来ないであろうレアなものだった。刹那、手袋を口で引っ張って外すと、ベッドの下に落とす。現れた手は男の人の大きな手で、それは標的を定めると一直線に迫って来た。 「きゃ…っ」 胸元に大きくリボン結びをしている紐をすっと解き始めたのである。戦闘に出るときはお洒落よりも動きやすさや守備力を重視して選んでいるのだけど、戦闘の無い日は存分にお洒落をすることを決めていたわたしの今日の服は紐を解いてしまうと、胸元が大きく開くもの。下着が顔を覗かせてしまうのは容易に想像できた。 「そんなに怖がるな」 「いやっ!」 さすがに身の危険を感じたわたしは少し自由になっていた腕を思いっきり動かした。 ぱちんっ、と乾いた音が自室にやけに大きく響く。 思わず平手打ちを喰らわせたわたしは謝罪の言葉を口にするが、これは果たして謝ることが正しいのか疑問に思えてきた。正当防衛だったのだから。 「…っ!」 「て、テリーさんごめんなさい」 重ねて謝罪を述べるわたしの前には、体を起こしてゆっくりと瞬きをする彼の姿があった。辺りをキョロキョロと見渡して、少し乱れた格好のわたしを見てから顔を青くしている。自分の格好は手袋を外しただけだというのを確認すると、ベッドから慌てて下りて自分で投げ飛ばした手袋を拾って嵌めていた。頬を押さえて、頭を押さえて、眉間に皺を寄せた彼はわたしに背を向けて問いを零す。リボンを結び直しながら、わたしは口を濁した。 「オレは、なにか…したか」 「え、ええっと…」 「魔物と戦っている最中にメダパニを食らった気がするんだが、その後から今まで記憶が…無い」 「テリーさんの思っているような、最悪な事態はないです。けど…」 「けど、なんだ」 「あああの、あの、キスを、ですね…」 言いにくいことだけど、彼自身が尋ねてきているので潔く言葉にした。 小さな、小さな声で、悪かったと返した彼の耳は銀髪に隠れつつも、赤みを主張していて、わたしはくすっと笑う。勿論、あの赤みに負けないものをわたしも持っていると思うけれど。 「…テリーさん、メダパニにかかっていたのでしょう?しょうがないですよ」 正しいことを言ったつもりだったけれど、自分で言葉に出して、酷く傷ついた。 状態異常のせいで本人自身が制御出来ていなかったとはいえ、わたしと彼がくちづけを交わしたのは変えられない事実として刻まれている。本当はしょうがなかった、なんて一言で終わらせることが出来るものではないとわたしが一番分かっていた。 「名前。少なくとも、オレの本能がそうさせた…と思ってくれ」 「それって」 「お前が、良かったんだと思う…」 「…ねえ、テリーさん、それ狡いです」 会話の途中で部屋から逃げ出した彼を追いかける気にはとてもなれなかった。 自覚した気持ちと向き合うことは怖かったけれど、全く脈が無いわけではないことが分かっただけ収穫だと前向きに考えよう。彼の言葉から推測するに、わたしとキスを交わしたことを真っ向から否定して無かったことにしようなんて気持ちはこれっぽっちも無いのだろう。責任は感じているようだ。 でも、お前が良かったんだと思う、なんて言葉を残していったら本当に期待を大きくしてしまうのよ。女の子って単純なんだから。そんなに振り回さないで、早く捕まえて、貴方だけのものにしてしまえばいいのに。 あのまま、リボンを解くのを受け入れていたら、また未来は一つ変わっていたのかもしれない。そんなことを考えたわたしは甘美な時間の思い出に耽るようにベッドの毛布に包まった。恥ずかしいけど、幸せを確かに感じていた、あの時間。誰にも話すことの出来ない、秘密の時間。 水差しの残り水で作られたカーペットの水玉はもう乾ききろうとしていた。 Title:シングルリアリスト |