微かな花の香りが鼻を擽る。背丈が少し低い名前からほんのりと香ってきていることはすぐに分かった。時間が空いたから一緒に過ごそうぜと彼女を誘ったのは俺。今日は昼間から夕方にかけて大きな戦闘をこなしたものの、早めに切り上がったために月が顔を出す頃には戦闘の参加者も休息に入ることが出来た。後始末や次の準備のおかげで、わりと休めないことが最近多かったが今日は違う。だから俺はその時間を名前と居たかった、ただそれだけで声をかけたわけだ。
草むらに寝転がっていた俺に声をかけた名前は隣に座るねと零して、ゆっくり腰を下ろした。起き上がった俺はその横顔をちらりと伺って、彼女の視線の先を追う。今夜は三日月だ。彼女はその三日月を見たままで口を開くことはなかったので、得意の冗談を吹っ掛ける。名前は此方を向いて、口に手を当てながらクスクスと笑った。けれど彼女の笑い方がいつもと違うことに気づいた俺が首を傾げる。
その瞬間に名前が俺に向かって飛び込んできたのだ。



「うお!?」



夜着の袖がひらひらと揺れて、肌に擦れる。名前は顔を俺の胸辺りに埋めたまま、腰に手を回して身動きを取れないようにした。咄嗟のことで言葉が出ない。今までにこうやって彼女から何かアプローチをしてくるということはあまりなく、手を繋いだり抱き合ったりすることは全て俺からしてきた。なかなか進展のない俺と名前は周りからとても健全な付き合いだと言われるくらい。
不意に顔を上げた名前と目が合う。瞳の中には焦りを上手く隠せていない俺が居る。自分では普段通りのつもりでも自分の姿をよくよく見つめると、不自然な様だった。加えて、少し自信家な彼女の瞳が揺れていて珍しいとも思う。自分が正しいと思ったことや行動を突き通すような名前なのにな。



「名前…?どうかしたか」



どうかしたか、なんて言葉に意味はなかった。無言の場を掻き消すように慌てて出た言葉で、また口を閉ざす。ぱちり、ぱちりと繰り返されるまばたきを見るけれど、彼女は何も言ってくれない。その代わり、何度目かのまばたきのあと瞳に映っていたはずの俺がふっと姿を消した。集中していた片方の瞳がお世辞には上手いと言えないようなウィンクをする。そんなウィンクでも魅了の術にかかってしまったようでますます目が離せない。



「ねえヒナタ」
「お、おう」
「ヒナタはその、したくないの?」



触れている身体が熱くなったのは名前と熱を共有しているだけのせいではないことを充分理解していたし、俺に問いかけられたそれが何を示しているかも察しが付いたからこそ熱が上がる。名前の細い指がつうっと俺のくちびるをなぞったところで、その察しが間違いでないことを証明していて、空に浮かぶ三日月に意識を逸らした。



「わたし、ヒナタとだったらいいなってずっと思ってるよ」



くちびるから離れていく手を思わず掴んでしまった。そんな風に言われたら、男として引き下がれなくなってしまうのを彼女は分かって言っているのだろうか。狡いな、ほんと。
手を引っ張ってグッと顔を近づけて、お互いの吐息がかかる距離で名前の顔を見つめる。期待に満ちたその瞳は今の俺には月よりも眩しく見え、思わずたじろいでしまいそうになったけれど、やっぱり引き下がれない。これまで何度もタイミングが訪れて、雰囲気だけでその行為に走ってしまいそうになってしまったことは数知れず。でも、俺はしなかった。その時は自分だけがそう思っていると考えていたから。



「じゃあしてもいいってこと、だよな」
「…早く、奪ってよ」



煽る名前は静かに瞳を閉じた。俺は一旦、息を吐き出してゆっくりと吸い、辺りをきょろきょろと見渡した後に彼女の肩を掴むと、改めて目を瞑った顔と向き合う。夜光に照らされた柔らかい頬がほんのりと色づいていて、くちびるは薄く紅が引かれていた。傍に居るのに日を重ねていくごとに違った姿を見せるのだから、俺は何度も何度も名前に惹かれていくのだろうな。
今まで過ごしてきた日々を思い返していたら、ぱちりと開いた瞳。頬を膨らませた名前は俺の肩を掴んだ。



「…恥ずかしいでしょう!わたしが」
「俺もだって」
「ヒナタ今の時間なにしてたの」
「んー、名前の顔見てた、かな」
「ほらわたしばっかり恥ずかしい思いしてるじゃん!」
「ご、ごめんって!そんなに怒るなよー」



文句が止まらないその口は少し静かにした方がお前は可愛いよ。
名前が掴んできた手を下ろすように外すと、もう一度彼女の肩を掴んでそのままくちびるを押し付けた。驚いたようで固まってしまい、途端にその場は誰も喋らない閑静な月の下へと早変わり。
短いくちづけは彼女を黙らせてしまうのには十分だったらしい。それに、俺は捕まえたものを離すなんてさらさらないからな。





Image song:恋のバナナムーン/ルカ・アンジェローニ×松浦ナナセ

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