廊下を歩く音は人の物ではなく、歩幅の小さな生き物がちょこまかと動くことで立てられる足音だった。自分の部屋の前でずっと鳴り止まないその音に気づいたわたしは、掃除をしていた手を止めて、上品さの欠片もなく襖を勢いよく開ける。慎ましやかに振舞うことが女性としての嗜みだけれど、そんなこともすっかり忘れてしまっていたのはその足音をわたしが心待ちにしていたからだ。随分と大きな音に物怖じもしない白い鳩はすっかり慣れてしまったようで、何事も無かったかのようにわたしの姿を見つけ寄ってくる。最初に襖を勢いよく開いた際は酷く驚かせてしまったらしく、穢れの無い真っ白な翼をはためかせ、青空に向かって飛んで行く姿を呆然と眺めたことは記憶に新しい。何度も繰り返した結果、今のように耐性がついてしまった。普段はわりと冷静に物事の処理を行っているものの、どうもこの足音が聞こえると地に足がつかない。
鳩の脚に付けられた小さな筒の紐を解きながら、今回はどんな文が入っているのかと心躍らせる。仕事を終えた鳩は近くに置いてある鳩舎の中へ誘われるようにして、足を進めては身体を休めるように寝床で包まった。筒の蓋を開けると、小さな紙が一枚だけ入っている。薄い紙切れに間違いはないのだけれど、わたしにとってはただの紙切れでは無く、本当に大切な紙なのだ。あの方とわたしと繋いでくれる、紙。丁寧に折られた紙や中身にさらさらと綴られている字は彼の人柄を表すかのようで、優しく温かなもの。傍に居るわけでは無いのにまるでわたしの目の前で、他人と手を繋いだときに触れることの出来るぬくもりのような温かみを持った瞳を細めながらゆっくりと話をしてくれる彼を思わせる。決して相手の気分を害さない話し方はどんな人でも思わず警戒心を解いてしまうだろう。内容は進軍時の陣の取り方だったり、王族の方の話だったりするのだけれど、わたしはその中でも彼自身の話が記されている手紙を読むことが一番好きだった。この手紙の始まりは白夜のためを思って始めたもの。それがいつの間にか、間を縫うようにしては自分たちのことを少しずつ埋めるように綴るようになったのだ。顔を合わせる機会はあるにしても、何せ時間は短く、長々と話をすることは出来ない。それで打ち合わせを行うのに、自分の都合良い時間を割いて話を進めることが可能な伝書鳩という方法を取ることにした。勿論、余談を手紙に書くようになったのはわたしが先で、彼はわたしに合わせるようにして重要な内容と共に少しだけ、本当に少しだけ手紙の端に彼自身のことを書く。姿を見ない間は何をしているのか、彼のことがちょっぴりと垣間見える。それがとても嬉しくてしょうがなかった。もしかしたら、軍の中で誰も知ることの無い情報なのかもしれない、彼の一面を知っているのはわたしだけなのではないか。なんて舞い上がることもしばしばだ。



「『私はこの手紙を書くことを日課と思っていましたが、違うようです』?」



形の整った美しい字を目で追うわたしの口からは、自然と音読の声が零れていた。襖を閉めると、自室の座布団に腰を下ろして後ろの壁に寄りかかりながら、続きの字を追う。急いだように走り書きだとしてもバランスの取れたお手本のような字なのだから、少し妬けてしまう。しなやかで品のある字。わたしはこの文のやり取りを日課というよりは自分の楽しみの一つとして受け取っていたけれど、彼もまた違う思いを抱いているらしい。お互いに義務と割り切っていた筈なのに、と一人笑った。



「『名前さんとのやり取りで貴方の色んな姿が見えてきて楽しいです』、わたしもスズカゼさんの知らない一面を知れて楽しい」



直接話を交わすとなると、戦闘の合間に設けられているあの一瞬の時間を使わなくてはならない。わたしは時間に余裕がある方だと思っているけれど、彼はいつも忙しそうなので、休息を取って欲しいとも思うのだ。そうすると、自分から時間を作って欲しいなどとは口が裂けても言えない。我が儘に付き合わせるわけにはいかず、結局顔を合わせて話をするのはリョウマ様が開く軍議の時くらいだ。口を開けば、軍議参加者が進軍の方法や武器について熱弁を始めるので、そう簡単に別の話題を出すことは気が引ける。それに全員の気を削いでしまうことが怖く、厳粛なその場ではひたすらに練っておいた案を出したり、出された案について議論を交わすために言葉を発した。本当は休憩のような瞬間も必要だと思うのだけど、誰も別の話題を口にしようとはしない。



「『今度、直接話をしたいです。如何でしょうか』、って、えっ!?」



全身に血を送り出す働きを担っている臓器の動きが早くなったのは、身体に血を巡らせるためでは無い。早くなる心拍を感じ、更に鼓動はもし近くに人が居たのなら聞こえてしまいそうなくらい大きく音を立てた。胸が詰まる、胸が締め付けられるような初めての感覚にわたしは動揺を隠せない。たった一行、わたしと直接会って話をしたいと書かれていたので、頭の中で想像しただけなのに。木々の若葉のように鮮やかな緑に少し黒を加えた髪色をした彼は静かに佇んで、わたしから目を逸らさずに話をする。一言の中に思いやりが詰まったような喋り方で、自然とそれをやってのける彼は勿論、女性から好かれるはず。それを裏付けるような話として、彼が通りすがりの女性に様々な頂き物をしていることは三日前くらいの手紙に書かれており、困っている様子だった。今は彼に悩んでもらえる女性が羨ましいとさえ思える。そういえば続きに、彼が『羨ましいと感じてくれたのなら、私は嬉しいですし、勘違いしてしまいますよ』なんて書いてあった気がする。机の上から二番目の引き出しを開けたわたしは、乱雑に漁ってその手紙を探し始めた。今頃になって、あの意味に気づくなんて。引き出しに溜め込んだ手紙はもう何枚になるか分からないくらいの量で、懸命に三日前の日付を探して手を引き出しの中で暴れさせた。彼は、優しいくせに意地悪らしい。手紙を二つ折りにした時に目に付くように自分で打った日付を見ながら、探していくと目当ての物はすぐ見つかった。手紙を震える手で開くと、記憶は間違っておらず、確かに彼の筆跡で綴られている。
わたしはこの後、なんと返事を書けば良いのだろう。直接会いましょうと言われたのだから、可否の返事を書かなくてはならないのは分かっている。けれど、その言葉だけでわたしの今の心情を彼に伝えることは不可能だ。言葉は不足している。足りない物をどう補えばいいのか分からなくて、筒を手に取ったわたしはそれを無心でひっくり返した。すると、軽く閉めていた蓋は音を立てて外れ、中から今持っている紙よりも小さな紙が出てきて、わたしが書こうとしている紙の上にひらひらと落ちる。追伸なのかな、と震えが止まらない指先でなんとか摘んで紙を開いた。



「『名前さんのことが好きです。返事を聞かせてください。会った時に』」



机上から転がり落ちた筆は畳に黒いシミを作った。広がっていく黒い角を持たない形をわたしは止めることが出来ず、ただ見つめているだけ。その筆を拾って、返事を書こうという気にもなれない。放心状態のわたしを伝書鳩が不思議そうに瞳を丸くして、見ていたなんて気づかずに。
やっぱり、スズカゼさんは優しいのに意地悪だ。




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