雲行きが怪しいというのは一目瞭然だった。今朝、お天気予報のお姉さんは傘を常備しておきましょうね、と視聴者に呼びかけていたもの。それでわたしは苺ジャムをたっぷり塗った食パンをかじりながら、自分の部屋のどこに折りたたみ傘を置いていただろうかと懸命に思い出そうとした。考え事をしながらジャムを塗ったせいでいつもよりも多く、苺の匂いが広がり、口の中は甘さでいっぱい。咀嚼のスピードを上げたわたしはパンを詰め込むと、箸を手に取ってサラダに先っぽを向けた。ドレッシングはお母さんがもうかけていてくれたらしく、和風のドレッシングが水滴のついた新鮮なレタスの表面を流れている。時間はあまり無いのだから、さっさと朝食を済ませて折りたたみ傘を持って学校に向かわねばならない。 「名前―、傘持って行きなさいよ」 「はーい、お母さん」 「あとね、今日はお母さん夜遅くなるの。夜ご飯は菅原さん家にお願いしてるわ」 菅原とはわたしの幼馴染である。フルネームは菅原孝支と言う。学年は一つ上だけれど、昔からの長い付き合いでお母さんが仕事で遅くなるときはよくこうやって幼馴染の家にお世話になっているのだ。日常の一つになっているので特に何も思わない。最後に残ったかぼちゃスープを一気に飲み干すと、わたしは折りたたみ傘と菅原家にお世話になるときに備えている着替えを詰めた小さな鞄を持って、玄関を飛び出す。雨はまだ降っていないが、黒い雲が頭上を流れていっていた。 「お邪魔しまーす」 「あら名前ちゃんいらっしゃい。孝支はまだ部活だから帰ってないわよ」 「うーん、孝支くんとご飯一緒でいい!待ってます」 「いつものことよね。あ、そうそう、孝支が部屋使っていいって言ってたわ」 折りたたみ傘の出番は結局無し。せっかく通学鞄に収まるように工夫して入れてあったというのに意味を成さずして帰ってきてしまった。校舎を出たときも今朝と同じような空で、これはいよいよ降るに違いない、なんて期待までしたわたしを裏切ったのである。役に立たなかった折りたたみ傘が入ったままの鞄と着替えの小さな鞄を持って、階段を登っていくと途中にバレーボールが転がっていた。薄汚れたそれは孝支くんが毎日練習で使っていることを思わせる。そういえば最近は試合を見に行っていない。孝支くんの友だちである澤村さんと東峰さんと顔を合わせるのがちょっぴり怖いというのもあったりするけど。 適当な場所で荷物を置いて着替えの鞄を開くと、予期していなかった服が現れて驚いた。孝支くんのところでお母さんの帰りを待つときの格好というとそれはもうラフなもので、菅原家が第二の家と言わんばかりである。でも、わたしの目に飛び込んできたのはお洒落に目覚め始めたわたしがこの前買ったばかりの服。そういえば、この前購入して封を開けないまま、近くに放置していたこの鞄に入れたのである。お母さんにこの服を披露するのが気恥ずかしかったからである。その服を手に取って、その場でくるりと一回転しては一人で喜んだ。自分の手元にこんな可愛い服があるなんて!と。着る機会がなかったため、存在自体も忘れていたけれど。 「名前ちゃーん」 「はあーい」 服を着替え終わったタイミングで部屋の外から孝支くんのお母さんの声がした。わたしは制服をいつものハンガーに掛けて、孝支くんが指定した場所に置くと、返事をする。 「雨が降ってきたから孝支の部屋の窓閉めてちょうだい!」 ベッドの向こう側にある窓へ向かって走った。先程の空よりもうんと暗くなっていて、水の粒がわたしの視界に入った家の屋根の色を変えているのが分かる。わたしがせっかく折りたたみ傘を持っていたのだから、もっと早く降ってよね、なんて勝手に怒りながら窓を閉めて、ついでにカーテンまで閉めた。ふと時計を見れば、もうすぐ孝支くんが帰宅するいつもの時間。 「ただいま!」 ほら、孝支くん帰ってきた。お母さんのお帰りなさいの声が聞こえたかと思うと、ドタドタと階段を駆け上がってくる音が聞こえる。いつもなら静かに上ってくるのに今日はどうしたのだろう、なんて思いながら孝支くんの部屋の照明スイッチを薄暗い中で探した。 パチリ、と音がして一気に部屋が明るくなったかと思うと孝支くんが頭にタオルを乗せて、突っ立っている姿が見えた。 「雨が降ってきてさー」 「今日お姉さんが雨って言ってたよ」 「そんなの朝練あるから見てないし」 「ありゃー、それで濡れちゃってるの?髪の毛から水が滴ってる」 「もうちょっとだったんだけどさ!惜しかった」 わたしは部屋に置いてあるドライヤーを引っ張り出してくると、コンセントに繋いでスイッチを入れた。孝支くんの部屋は小さいときからあまり変わっていない。物の置き場なんてそのままなので、よく遊びに来ているわたしの頭の中にはすっかり場所がインプットされてしまっているのだ。 ほらほら、と手招きすると孝支くんはわたしに背中を向けて座った。普段ふんわりとした髪の毛が雨のせいでしっとりしていたけれど、相変わらず髪の毛は綺麗で女のわたしが憧れるくらい。ドライヤーの音だけが部屋の中で響いていたけれど、それはそれで心地の良いものだった。後ろから髪を乾かすだけでは足りない部分があるので、わたしは孝支くんの前に移動する。 「名前、それ新しい服?」 「うん」 「なんかイメージ違う」 膝立ちになったわたしの服の袖を引っ張りながら孝支くんは続ける。ねえこれ、その後の言葉はドライヤーの音にかき消されてしまってよく聞こえなかった。その言葉の後は特に気にならなかったので、そのままドライヤーを前髪に向けた。温風で孝支くんの髪の毛はふわっと浮き、おでこが丸見えになる。肌、やっぱり白いなあ、羨ましい。 ある程度乾いてしまったのを確認したわたしは先程から黙りこくっている孝支くんを不思議に思いながら、ドライヤーのスイッチをオフにした。言いかけた言葉は問いかけだったのだろうか。わたしにもしかして答えを求めるような質問だったのだろうか。 「こう、」 孝支くんと言いかけたところで、わたしの腰に回されていたのは彼の腕でそのままそちらの方へぐっと引き寄せられたかと思えば、首元にちくりと痛みが走る。何か、鋭いもので刺されたような痛みで、それは虫刺されにも近いものを感じた。けれど、絶対違う。孝支くんがアクションを起こしたタイミングでそれに襲われたのだから、こんな悪戯を仕掛けてくるのは彼だ。きっと悪戯を成功させた彼が悪い顔で笑っているに違いない。 けれど、痛みが引かない。寧ろ、その場所が段々と熱を持ち始めていることにわたしは気づいてしまった。彼も何も言ってくれない。そっと視線を落として気づいたのだけど、わたしの首元に孝支くんが口元を寄せている。それに、見えてしまった。孝支くんの、歯が。 「い…やっ!」 顔を引き剥がそうと必死に抵抗を試みるも、一向に離れてはくれない。火照ったその場所はわたしから見えないけれど、今度はそこにねっとりとした熱い何かが這うように感じた。この熱はわたしの熱じゃ、ない。 腰を引こうにもがっしりと掴まれてしまっているために、姿勢を変えることが出来ない。そのまま、どのくらい時間が過ぎたかもわからないけれど、急に孝支くんが離れて、わたしはその場にへなへなと座り込んでしまった。 「…名前、そんなに首から胸まで大きく開けた服着ないでよ」 「なっ、似合わないっていうの!?そんなのわかってるし!」 「違うよ」 孝支くんがわたしの知らない顔で見つめてくるものだから、目を見ることができなかった。 「俺を誘惑しないで、ってこと」 そう言い残すと孝支くんは部屋を出て行った。 残されたわたしは暫く放心状態だったけれど、我に返るとドライヤーを片付けようとコードを引っ張る。コードをまとめたわたしは元の場所に片付けるために立ち上がろうとした。なのに、腰が抜けてしまって動けない。ねえ、このドライヤーどこからわたし取ってきたんだっけ。知っているはずなのに忘れてしまうなんて、どうかしている。 |