戦闘に備えた訓練が楽しいわけがない。自分の命を守る、味方と連携を取って国を守る、皆を守る。大切なのは重々承知の上だけれど、どうにも身が入らない。こっそり抜け出したわたしは誰にも見つからない秘密の隠れ場所に足を運んだ。あからさまに隠れることが可能な所よりも逆に隠れる筈がないと誰もが思うような場所の方が案外見つからないということを学習済みである。毎回訓練から逃げているわけでないからそんなに責められることもないだろうけれど。五回に一回くらいはちょっと休憩したくなるだけ。そう、逃走ではない、休息だ。体調管理も自分の実力のうち。勝手に理由を付けて避けていることに変わりはないのだけれど、そうでもしないと罪悪感に押し潰されてしまいそうだった。皆の武器や魔法の稽古をする姿を目にする度に、上から降ってくる鉄球が地面にめり込んで地割れを起こすように気持ちを粉々にされてしまう。大袈裟かもしれないけれど、逃避した時には毎度その気持ちを味わっていた。自分でも止めたいと思ったことは何度もある。軍に身を置く限り、自分を鍛えることから逃げることは絶対に出来ないのだ。わたしは不器用だから、休息と訓練のバランスを上手く取れずにその狭間でもがいている。訓練だって一日中続くわけではなく、逃げ出さずとも休息は充分に与えられていた。ただ、その休息の時間の使い方、過ごし方が下手で切り替えが上手く出来ずに心の余裕がない。自由な時間での羽の伸ばし方を知らない。縛られていた時間からいざ解放されると何をしていいのやら。心の休まる場所は何処に存在するのか。 高台にそびえ立つ大木の穴が最近のわたしの逃げ込む場所と化していた。人間が二、三人程入ることの出来る秘密の隠れ家はまだ一度も見つかっていない。暫くは大丈夫。わたしの選んだ逃げ場は悉く忍の三人組に見つかるので時間の問題だとは思うけれど。 背を少し屈めて足を踏み入れ、ゆっくりと座る。目を瞑って身を縮めると、わたしの前には信じられない程の量のお菓子がズラリと並んでいた。純白のテーブルクロスが引かれ、その上には皿が数え切れないくらい置かれている。皿の上では様々な色の甘味が踊っているようだった。ケーキに、饅頭に、ゼリーに。引き寄せられているようで、わたしの伸ばした手の先はもうすぐで届きそう。お菓子に使用されているのはチョコレートや果物、餡子、クリーム。この他にもいっぱい盛り込まれているのだろう。甘い香りがわたしの足を誘う。もう一歩進んだのなら、この手に甘い物が。 「名前、こんなところに居たのか」 視ていた世界に自分以外の人間は誰も存在しないはずなのに、急に声が聞こえてきて驚いたわたしは目を開けた。お菓子なんて、ない。誘われるように歩いていたのに。ただ、香りだけは残っているけれど。 飴を咥えて此方を見ているのは忍の一人だ。いつも発見される三人組の誰でもないけれど、その内の一人の息子である。まだ次の隠れ場所を考えていないのに、もう見つかるなんて計算外。今日はかくれんぼに負けたから、訓練に無理矢理連れ戻されるに違いない。薄暗い穴の中で今やって来た忍、グレイの表情を伺おうとしたけれど、よく見えなかった。相変わらず甘い匂いは消えない。 「甘い匂いばっかりするの。ここ」 「ああ、俺が甘い物を食べる時はここにするって決めたからな」 「…あなたのせいだったのね」 「最近見つけたいい場所なんだ。甘い匂いが充満して、菓子がより美味くなる」 お菓子の幻覚はグレイのせいだろう。甘い物を持ち歩く彼がこの場に長い時間留まっていたのなら、香りが染み付くだろうし、その実物を大量に持ち込んだのなら匂いが残るに違いない。もう少しで甘い物が食べられそうなんて思ったわたしは馬鹿だ。甘い香りが見せた一瞬の夢にすぎないというのに。わたしとグレイが座り込んだ大木の穴の中に光が差しこんだけれど、それを遮る様に彼は持っていた布切れで入り口を覆う。もう、何も見えなくなってしまった。こんなことをしたら誰かに見つかる確率が上がるだけなのに。だって外から見て、入り口が隠されるように布を張っていたのなら中を確認するに決まっている。それよりは何も細工をしない方が隠れるのには適しているはずだ。 「余計に見つかるわよ」 「そんなことは知らん」 「あっ、ちょっと、なに、」 暗闇の中でわたしの手の甲を何かが掠める。撫でられたのだと思う。咄嗟に手を引っ込めると、木に肘を勢いよく衝突させてしまって痛みが走った。耐えるように歯を食いしばったけれど、声は少しだけ漏れる。呻き声を我慢しているとグレイが笑いを堪えているのが分かった。笑い声が漏れてきているもの。わたしは懸命に痛みと戦っているのに自分は笑っているなんて。信じられない。誰のせいでこうなったと思っているの。 「触っただけだろ。そんなに反応されるとは思わなかったな」 「…だ、だってびっくりしたから!」 「ふうん?お前もしかして」 「いいでしょ、別に!男の人と今までお付き合いしたことないなんて」 「自分で白状したか」 年頃の娘が全員男の人とお付き合いをしたことがあるわけではないと叫びたい。わたしがそのうちの一人なのだから。男の人に触られるなんて経験したことがない。クスクスと笑い声が聞こえ、名前は男の経験豊富そうな女に見えるわりには純潔な女だったか、とわたしを刺すような言葉が続く。グレイは何処までも失礼な男の人だ。 「ということはそのくちびる、まだ誰も触れたことがないんだな」 「なっ、なにを」 「俺の女になればしてやる」 「は…?」 「そのままの意味だが?」 俺の女、つまりは恋人にしたいという意味で取ってもいいのだろうか。今まで男の人に口説かれたことなんて一度もないわたしがその意味をはっきりと汲み取れているか分からないけれど。でも、もしこの新しい道を拓いてみたのなら今までとは違う毎日が待っているかもしれない。暗闇の向こうに居るグレイのことを意識し始めたら、また甘い香りがわたしを誘ってきた。お菓子ではなく、彼の方へと。飴を越えて、団子を越えて、全部のお菓子を越えた先でグレイが手を伸ばしているように思えた。お菓子に勝るのは彼しかいないのかもしれない。 「ねえ、グレイ」 「決断が早いな」 「貴方の女になったら訓練から逃げることもなくなるかしら?」 「…さあ。まあ退屈することはなくなるだろ」 「どうして」 「四六時中、俺のことで悩めばいい」 引っ込めた筈の手に再び何かが触れたかと思えば、腕を掴まれて引っ張られる。呼吸を忘れてしまって、自分の身体が止まったことに気づいたときには先程からずっと香っていた匂いが一層強くなった。靄のように広がるこの甘い匂いを持つのはわたしの国ではただ一人だけ。お姫様だけが食べられるようなお菓子がわたしの目の前にあるみたい。手を伸ばすか、伸ばさないかはわたしに委ねられているのだ。口に入れたのなら、噛み砕く前に溶けてしまいそう。 「名前」 きっと、わたしの知らない味。 |