*学パロ



大きな溜め息をついたわたしはふと足を止める。通り過ぎようとしていた建物からだと思うけれど何かを射抜くような音がわたしの耳に届いて、もう一度溜め息をついた。毎日同じことを繰り返すことに満足しているわけではなかったけれど、気がついたら同じ時間に同じことをして過ごしている。空を見上げるのも日課の一つで、変わらないわたしの上を流れていく雲はいつも表情を変えていた。横に大きく伸びてみたり、小さな塊を作ってポツポツと浮かんだりと姿を変えてわたしを毎日迎えてくれるというのに、客であるわたしの変化は微塵もない。先程の音がまた耳に届くと、わたしはその建物に目を向けた。矢で的を射抜く練習をひたすらに続ける弓道部がここに集まっているのである。玄関口がほんの少し開いているのを発見したわたしは、その隙間から中の様子を伺った。
すらり、と練習場に佇んでいる男の人の姿を見つけたわたしの身体はどんどん熱くなる。いつもは閉め切られていて姿を拝むこともままならないのに今日だけは特別で、彼の姿をまじまじと見つめることが出来た。弓道衣に身を包んだ彼のがっしりと筋肉のついた腕が白筒袖から伸びる。纏められた銀色の髪の毛は彼が矢を射ると同時に風に吹かれたようにさらりと靡いた。まるで絵巻に描かれている竜が尾を揺らしたように美しく、弓道という趣のある武道に似合う。弓懸を装着した右手を下ろすと、近くにあったタオルを手に取って控え目に汗を拭っていた。その一連の流れから目を離すことが出来ずにいたわたしは傍から見れば不審者と間違われても仕方ないだろう。彼の姿を目に焼き付けたわたしは近くに誰もいないことを確認すると冷めない頬を押さえながら、その場を後にしたのだった。
彼は知らないかもしれないが、学校の女子数名から想いを寄せられているという噂は尽きない。わたしもその中の一人にすぎないので、この想いを彼が知ることはないだろう。練習が終わった後には気のある女子がタオルやお菓子を持って駆けつけることも最近あるらしく、ますます彼という存在がわたしから遠ざかっていくようだった。もともと夜空の星のように手の届かない場所にいるのだけれど、それがもっと遠くなったようで悔しい。でも、見ているだけで充分と一線を引いてしまったわたしはその距離を詰めることなんて出来ない。帰り道の夕陽は眩しくて堪らなかった。







「これにしよっと」



帰り道でふとノートのページが残り少なくなっていることを思い出したわたしは途中のお店に寄って買い物をすることにした。しばらく物色した後にお目当ての物が置いてあるであろう階へ足を踏み入れる。生徒や学生が試験前であることをお店側も把握しており、使い勝手の良いノートを集めたコーナーを設けているようで、狙われていると思いつつも使いやすいとシールが貼られた書かれたノートを一冊手に取る。思うツボだけれど、乗ってやろう。表紙の水玉が散りばめられたデザインが気に入ったのだから、わたしは納得している。決して買わされたわけではない、そう自分に言い聞かせながらレジに並んだ。あのコーナーにあったから買ったとは言いたくない。変なプライドに自分で少し笑いながら、会計を済ませるとちょうどエレベーターの扉が開いたのでラッキーとばかりに飛び込んで周囲を軽く確認して閉めるボタンを指でちょん、とつついた。



「ちょっと待った…っ!」



バタバタと走る足音から結構全力でダッシュしていることが分かったわたしはその人に対して恥ずかしくないのかななんて思いながら、隣にあるボタンを先程のようにちょん、とつつく。駆け込んできた人の姿を確認してから、扉を閉めることにしようと思ったわたしはエレベーターの乗り込み口に目を向けて思わず買ったばかりのノートが入った袋を落としてしまった。目の前で息を切らしている彼はわたしの学校の制服を着用しているし、数時間前に見た銀色の髪の毛が揺れている。思わず手のひらで勢いよく閉めるボタンを押してしまい、大きな音と共にドアが閉まりますというアナウンスが流れた。扉が完全に閉まってしまえば、わたしと彼だけの空間がエレベーターの中に広がるわけで。



「な、何階ですか?」
「あ、ああ…君と同じ階だから」



くちびるが細かく震えていたのが分かったけれど、言葉はきちんと相手に伝わったようで少しほっとした。何を言っているか分からないなんて返された時には、もう喋ることが出来そうにない。会話は終わったけれど、あと数秒はこの状況が続くことは間違いなかった。エレベーターの指し示す階から目的の階まではもう少し時間を要する。でも、彼とわたしが話をすることはきっとないのだろう。接点なんて、ないのだから。



「なあ、」
「はい?」
「今日、弓道場に来ていたんじゃないか?」



喋らないと噤んでいたはずの口は簡単に開いて、彼からの問いかけに反応を返す。咄嗟に今日の放課後のことを思い返した。彼の目に入ることはまずない。加えて周囲の警戒を怠ってはいないので、わたしが弓道場の入り口から覗いていることを知っているのは自分自身だけのはずだ。気配を殺してまでわたしのことを監視するような人はいないだろうし、なんて頭を悩ませるわたしの目の前に差し出された物に気づいて声を上げる。彼の手の上に乗っているハンカチは間違いなくわたしの物だった。制服のポケットに手を突っ込んで掻き回してみたけれど、もちろんあるわけがない。綺麗に畳まれたハンカチの右端にはご丁寧にも名前が刺繍されていて、その刺繍と差し出している彼の顔を何度も見た。刺繍を覚えてから、何か出来るものはないかと探した結果ハンカチに辿り着いたわけで。



「名前が入っていたから、誰の物かはすぐに分かったんだ」
「あ…う、ありがとうございます」
「弓道場の入り口に落ちていたって後輩が持ってきたんだが」



お礼を述べてハンカチを受け取ろうと手を伸ばすと、ハンカチの乗っていない彼の手がわたしの手の下から支えるようにぴったりとくっついた。そして、ハンカチがわたしの手へと戻ってくる。いつも弓を引いている手は思った以上にゴツゴツしていたけれど、指は長い上に細く、切り揃えられた爪は美しかった。弓を操っている彼のそんな両手がわたしの手を捕らえて離さないように思えたのは気のせいだと思う。エレベーター到着の合図が鳴って扉が開くと、じゃあ、と捨て台詞のように別れの挨拶を残して彼はわたしに背を向けて足早に出ていった。尻尾のような銀の髪が揺れる後ろ姿をぼうっと見ていたけれど、ひとつ見つけてしまったことがある。耳がほんのりと赤く染まっていることに。エレベーターに一人とり残されたわたしの手の上のハンカチはノートと同じ柄のハンカチで、持ち主ではない人の熱を含んでいた。まだあたたかいそれをわたしは両手で包み込むと、もう見えなくなった後ろ姿を思い出しながら薄暗くなってきた帰路を急ぐ。
ちょっぴり湧いた勇気を持って、また明日も懲りずに行ってみよう。今度こそ、声を掛けられるといいな。わたしのことを知っていてくれたフリオニール先輩に。


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