ギリギリのところで駆け込んだ電車の中で、息を整えながらわたしは中身の入っていない紙袋を引っ提げ、たった一枚の扉の向こう側で、頭に手を当てて此方にそっと視線を送ってくる悠馬くんと目を合わせる。彼もまた、息を切らせているのかなと思ったけれど、呼吸ひとつ乱れていない。けれど、厚手のコートを着込んだ奥では激しく鼓動が鳴り響いていることをわたしは先程の一瞬で知ってしまった。わたしと悠馬くんを遮る扉はもう開かない。次の駅に到着するまで開くことはないから、もう今日はこうやって直接会って彼と言葉を交わすこともないはず。視界の中には硝子を挟んだせいで少しぼやけた悠馬くんがラッピングされたお菓子を持っている方とは逆の手を挙げる。その手は真っ直ぐ挙げられたものではなくて、わたしの方へと伸ばしているようにも見えた。まるで行かないで、と引き留めるように伸びてくる。いっそ、電車に乗る前にもう一度でもわたしを捕まえて離してくれなかったら良かったのに。けれど、悠馬くんは何も言わない。行くなよ、なんて台詞を吐くこともなかった。わたしの耳元でこっそりと囁いたあの一言だけは、耳に入った時から頭を離れてくれやしない。吐息に交じるように空気に溶けたはずだったのに、その声はしっかりと残った。発車の合図と共にゆっくりと動き出した電車はわたしの帰る方向へと動き出す。最後に見た悠馬くんはわたしと目を合わせた場所から一歩も動かず、電車が走り出すと視界から消えてしまった。普通、こういうときは電車の隣を走って途中まで追いかけてくるものではないのと思ったけれど、もしかしたら彼には後悔なんてひとつもないのかもしれない。追いかけてきて欲しいと思ったわたしは後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだというのに。 今年のバレンタインデーは運が良いのか悪いのか日曜日だった。学校の友だちにあげようにも、家からわざわざ出て配り歩かなくてはならない。そんな面倒なことはしないと言う友だちもいたけれど、わたしは土曜日の夜から気合いを入れてクッキーやチョコレートを作っていた。散らかした台所には甘い匂いのするボールや、白い細かな粉が撒き散らかされている。片付けも並行して行うことができれば良かったのだけど、器用にこなせないわたしには到底無理な話で。大量のクッキーを大皿に積み上げ、チョコレートを綺麗に並べた後に両手を天井に向けて伸ばしたのはもう日が変わろうとする直前で、バレンタインデーを付けっぱなしのテレビから流れてくるニュースが告げた。 翌朝、学校に行くより少し遅めに起きたわたしは昨日散らかした台所のことをお母さんに叱られながら、パンを千切っては口に放り込んだ。久しぶりに会う彼にどんな顔をして渡そうか、今日の服装はどうしようか、なんて考えていたから小言は聞き流してしまって、ほとんど覚えていない。ごちそうさま、と手を合わせたわたしは急いで自分の部屋に駆け込んで、去年と同じ服を引っ張り出した。普段あまり着ることのない他所行きのワンピースを着ていったら、イメージが湧かないと陽斗くんには笑われたけれど。ワンピースを着た上にコートを羽織って、前は少し開ける。せっかくのワンピースを隠してしまうのはもったいないもの。化粧道具を置いている隣にあるジュエリーボックスを開けて、お気に入りのネックレスを人差し指で引っ掛けて掬い取った。 階段を駆け下りた音が煩かったようで今年まだチョコレートを貰えていないというお兄ちゃんから怒りの声が飛んできたけれど、今日ばかりは嫉妬も交じっているのかななんて思いながら、適当にごめんなさいと返す。それから、昨日作ったものをあらかじめ用意しておいたラッピング用の袋に詰めていく。もちろん、そのうちの二つはお父さんとお兄ちゃん用に。小さな袋にクッキーとチョコレートを詰めると、お父さん用にテーブルにひとつ置いて、もうひとつはリビングのソファでくつろいでいたお兄ちゃんに投げつけた。 「おい、名前」 「お兄ちゃんの不満なら聞かないよ」 「お前、そんな格好して、また今年もあの磯貝とかに会いにいくのか?」 「…わ、悪い!?お兄ちゃんには関係ないでしょ!」 「いーや、別に。お前みたいな女から一途に思われる磯貝がかわいそうだなあと思ってさ」 「お兄ちゃんバレンタイン没収しまーす」 「可愛い可愛い俺の妹の名前ちゃんから貰ったー、嬉しいなー」 「お兄ちゃん気持ち悪い」 最後のお兄ちゃんの言葉は当然ながら感情などひとつもこもっておらず、酷いくらいに棒読みだった。時計をちらりと見ると、乗車予定の電車の時間まであまりのんびりしている余裕はない。お兄ちゃんと遊んでいる場合ではなかった。大きな袋に詰め込んだクッキーは悠馬くんの弟や妹にあげるもので、それよりは小さいけれど、義理チョコであるお父さんやお兄ちゃんよりのものより大きい袋に詰めるときは、時間のない中で出来る限り綺麗に包む。わたしは毎年この日は学校の誰でもなく、幼馴染の悠馬くんに本命を持って行くのだ。渡した時に本命であるアピールなんてひとつも見せずに、毎年のことだよとばかりに本心を気取られないようにさらっと渡す。きっと、今年もそれで終わるはず。 玄関を飛び出したわたしは小走りで駅の方向へ走っていく。銀色のネックレスは冷たい風を受けて、ひんやりとしていた。走るせいで一定のリズムでわたしの肌から離れたりくっついたりする。すれ違う女の人、女の子はわたしと同じようにおしゃれをしていて、やっぱり紙袋を持っていた。この日ばかりはしょうがない。みんな、考えていることは同じなのだから。 毎年この日は幼馴染が俺の住んでいるところまで遠方からやって来てくれて、チョコレートやクッキーを渡して帰っていく。ただそれだけのことだけど、弟も妹も名前お姉ちゃん今年もくれるよねと朝から舞い上がっている。でも、数年前くらいから彼らの分と俺の分がはっきりと分けられるようになった。名前には自分が食べようとした分まで弟や妹に取られちゃってあんまり食べられないこと、でも喜んでいるところが見られるからついついあげてしまうんだ、と確かに伝えた覚えがある。それ以降、彼女は磯貝家に二つ袋を用意して、同じ袋に入れてプレゼントしてくれている。俺の分をわざわざ別にしてくれるところは昔から優しい名前のことだから、違和感などひとつも覚えなかった。ただ、その年を境にして持ってくる時の雰囲気や服装が思いっきり変わっていることに俺はちゃんと気づいている。期待を少しはしていいものかと思うけれど、彼女は特別な言葉も手紙もなかった。ただ、毎年のことだよ、悠馬くんとしか言わない。俺が勝手に勘違いをしている可能性も否めないので、いつもありがとな、しか返せない。深く考えずにいようと思っても、やっぱりどこか自分を特別に扱ってくれているのではないか、なんて。そろそろ時間か、と家の時計を見た俺は厚手のコートを羽織ると外に出て、白い息をひとつ空に向かって飛ばした。 「悠馬くん!」 「名前、電車ちゃんと乗れたんだな」 「毎年同じ電車なんだから間違えません!ま、まあちょっと乗り過ごすところだったけど」 「油断すると俺のところから離れていっちゃうぞ」 「大丈夫だし!」 「でもほんと、いつも時間かけて来てくれてありがとう」 「毎年のことだからね」 大きな紙袋を持った名前と悠馬は二人で約束していた公園のベンチに座った。寒空の下だったが、その場はほんのり暖かい雰囲気に包まれている。幼馴染の距離はまるで恋人のように近く、二人の関係を知らない人から見ればバレンタインを過ごすカップルにしか見えなかった。けれど、毎年のことである二人は特に疑問を抱くこともなく、普通通りに接する。名前は紙袋から二つのサイズの袋を取り出すと、まずは悠馬の弟や妹にあげる方の袋を差し出した。 「今年も喜んでくれるかな」 「朝から今日は名前お姉ちゃんのお菓子って叫んでたし、とても楽しみにしていると思うよ」 「ほんと!それは良かった。わたしも嬉しいなあ。あとね、これ」 「名前」 「悠馬くんの分だよ」 名前を呼んだ悠馬の声を遮るように名前は彼の開かれた口に押し付けた。続きの言葉を止められたことが分かった悠馬は、名前が押し付けたままの袋を手に取ると反対の手で彼女の腕をゆっくり下げる。くちびるに当たった袋から溢れてくる甘ったるい香りは悠馬に、名前がチョコを作る姿を容易に想像させた。エプロンに湯煎で溶かしたチョコを飛ばしたり、順序を何度も何度も確認しながらレシピと睨めっこしている彼女の姿。さっき言おうとしたことなんて、なんだかどうでもよいことのように感じてきた悠馬は思わず吹き出してしまった。名前はそんな彼は不思議そうに見つめる。 「名前が作ってる姿想像したらなんだか笑えてきてさ」 「なにそれ!ひどいー!」 「台所でてんやわんやしながら作ってるんだろうなあと思って」 「…ううっ、あながち間違ってないけど」 「やっぱりそうなんだな」 悠馬が指摘したことが図星だった名前の声はだんだんと小さくなっていって、風で木の葉が揺れる音に掻き消されてしまうほどだった。ひとしきり笑った悠馬は自分の学校生活や友だちのことを名前に話し出す。彼の表情や口ぶりから楽しいこと、更に充実した毎日を送っていることが分かったけれど、それと同時に名前は離れてしまうとこんなにも知らないことだらけになると痛感させられた。周囲を取り巻く環境が全く違うと、幼馴染といえども、本当に遠く、知らない人に成長してしまうようで寂しさに襲われる。幸せそうな彼を見ることは嬉しいことのはずなのに、心に鋭い刃でも刺さったような痛みが走っていた。名前は悠馬の話に相槌を打ちながらも、必死に笑顔を作ろうと口で弧を描く。不自然に強張った表情になっているのに、離れてしまった時が長すぎるせいですぐ傍の幼馴染は気づかない。悠馬の話を聞きつつ、彼女は携帯で時間を確認した。もう、こんな時間なんだと名前は携帯をそのあとすぐに鞄に突っ込む。 「悠馬くん、もう時間みたい」 「もう?」 「来るのにも時間かかったし、帰りもあまり遅くなるとお母さんたちが心配しちゃうの」 「そうだね。女の子なんだから暗くなる前に帰らないとな。俺が送っていけたら良かったんだけど、さすがに距離が…」 「いいの。気にしないで」 「…なあ、名前、時間はあとどれくらい?」 「うーんと、駅までの時間を考えたらあと5分くらいで公園出た方がいいかも」 「そっか」 「あっ、でも走れば大丈夫だし!もう少しくらい一緒にいても…」 「名前」 「悠馬、くん?」 強く吹きつける冷たい風はその場の静寂を増長したようだった。二人が口を閉じれば、その公園は誰の声もせず、ただ噴水の細やかな水音が響き、ブランコが風に揺られて鈍い音を立てている。名前が下を向いた悠馬を気にして顔を覗き込もうと少し身を乗り出した時、ベンチからバレンタインの想いが先程までぎゅっと詰まっていた紙袋が転げ落ちて、少し地面を滑った。そのまま、少しずつ紙袋は公園の入り口へと風によって運ばれていく。 「名前、毎年俺に持ってきてくれるバレンタインなんだけどさ」 「う、うん」 「俺さ、期待してもいいってこと?」 「…悠馬くん、電車の時間!」 「離せない」 「帰れなく、なっちゃうから…」 「うん。知ってる。だから最後に聞いてよ」 悠馬にぐっと抱き込まれて身動きひとつ取ることのできない名前はそこから抜け出すために、自分の気持ちを気づかれないようにするために、電車の話題を彼に振った。けれども動揺しない悠馬はそのまま名前の耳に口を寄せる。 悠馬の口の形が四回変わって、名前の耳に言葉が届く。耳は冷えきって赤くなっているわけではなく、確実に彼の言葉で彼女は大きく心を揺さぶられていた。しかし、悠馬に名前は言葉を返すことはできないまま、二人の距離は離れていく。悠馬は飛んで行った紙袋を拾って、呆然としている名前の手に握らせると自分が貰った二つの袋を片手で抱える。さっきまで走れば大丈夫と言っていたくせに全く走り出そうとしない名前の様子を見て、悠馬はそっと笑うと紙袋を握った手とは反対の彼女の手を握って駅への道を走り出した。 Title:さよならの惑星 |