脂の乗った肉を吊るして焼くと、濃厚な肉汁が垂れては火の勢いを更に強めた。肉汁が垂れる様子を見ていたフランネルの口端からも今すぐにでも食べたいとばかりに涎が出てきており、そんな彼の姿を見た名前は近くに置いていたハンカチを持っていく。まるで大型犬の世話をするような光景は珍しいものではなく、暗夜王国の中ではわりとよく見られるものだった。目を離すと肉にかぶりつきそうなフランネルの口元を拭った名前は、まだ食べられないからねと釘を刺す。分かってるよと答えたフランネルだったが、生唾を呑んだりお腹の虫を鳴かせたりと、本当に我慢できるのだろうかと名前は不安を募らせるばかりだ。血の色を思わせるような生肉だったが、勢いのよい炎に焼かれて段々と食卓でよく見るような色へと変わっていく。フランネルの尻尾は肉を焼く火のように絶え間なく左右に揺れ続け、食べ時はまだかと待ちわびているようだ。名前は彼の尻尾を目で追いかけながら、本当にご機嫌なことを感じ取って尻尾へと手を伸ばす。決して掴むことはしないが、尻尾が折り返すギリギリの地点に手を置いて、柔らかで手触りのよい尻尾を待つ遊びを始めた。いつもだと尻尾に触れることを嫌がるフランネルだったが、この時ばかりは自分の目先のことで頭がいっぱいのようで、名前が尻尾で遊ぶことに関しては言及することがない。それを分かっている彼女もこのタイミングでいつも遊ぶのだった。
偶然近くを通りかかったカミラはまたあの子たち同じことをやっているわね、と小さく呟き、静かに笑う。ヒールの音で誰かが近くに来たことが分かった名前は、音の聞こえた方へと顔だけを向ける。もちろんカミラと目が合った。王族に仕える立場にある名前は戯れていた尻尾に背を向け、カミラに一礼すると駆け寄る。王族の臣下である彼女は偶然にもこのカミラの臣下なのである。いつも可愛がってもらっている主人であるからこそ、足取りは軽く、自然と笑顔になっていた。駆け寄ってくる臣下の愛らしさにカミラは口に手を当て、目を細める。



「カミラ様、何かありましたか!」
「いえ。あなたがあまりにも楽しそうで、可愛らしくて」
「尻尾がふわふわで気持ちいいんですよ。カミラ様も触ります?」
「ふふ、私はいいわ。それより名前、ちょっと来てちょうだい」



突然現れたカミラを見た名前は自分の出番があって、わざわざ探しに来たのではないかと思ったが会話から察するにそうではないらしい。手招きをするカミラの元により近づいた名前は首を傾げながら、自分よりも背が高くスタイルの良い主人を見上げた。フランネルの尻尾とはまた違った柔らかさがそこにはあって、母のような包容力を思わせる。温かい家族のような形ができあがっているカミラ隊が名前はとても好きだった。同じく臣下であるルーナやベルカも優しい。素直になれないルーナも、素っ気ないベルカも、本当は心から優しい子であることを名前は知っていた。
カミラは自分の荷物の中を漁ると、小瓶を取り出す。瓶の中では小さな世界が構成されており、まるで水の中を星が魚のように泳いでいるようだった。キラキラした液体の小瓶の蓋を摘んだカミラは名前のことを見ながら、それを開ける。魔法でも飛び出してきそうな小瓶の中からは甘い香りが溢れ出てきた。目を瞑って、その匂いに意識を集中させ堪能しているカミラを見て、カミラ様はやっぱりおしゃれな人だと名前は目を輝かせる。



「これね、あなたに似合うと思ったから思わず買っちゃったのよ」
「えっ!わたしにですか!?」
「ええ。あなたに振り撒いてあげたくなっちゃって。ちょうど良かったわ」



カミラは名前の頭の上で蓋の開いた小瓶を傾ける。瓶の中では液体状だったそれは、瓶の口を通過すると霧のように名前に降りかかった。瓶口に魔法が仕掛けられているらしく、そこで変化を起こさせているらしい。まるでカミラが魔法をかけているようにも見えた。
くるりと一回転した名前は自分の纏った香りを吸い込むように匂った。自分のためにカミラが香水を買ってくれたことが嬉しくてたまらなかったのである。



「名前―、できたぞー!俺の部屋に持って行くからな!」
「はーい」
「うふふ、ディナーを楽しんで」
「カミラ様ありがとうございます」







「フランネル、ちゃんと我慢できたんだね、えらいねー」
「馬鹿にすんじゃねえよ!」
「まあまあ、食べよっか。また涎出ちゃう前にね」
「おまっ、やっぱり馬鹿にして!」



フランネルの部屋は彼が宝物と思った物が詰め込まれているためにお世辞にも綺麗とは言えなかったが、周りの人がちょくちょく掃除をするおかげでなんとか生活できる程に保たれていた。
部屋に充満する肉の焼けた匂いは腹を空かせたフランネルの我慢の限界をいとも簡単に突き破る。ガツガツと肉に向かう姿は獣そのもので、戦闘時の殺戮とした彼の様子を思い出させた。普段はそんな雰囲気を醸し出すこともないが、肉と敵を目の前にした時だけは別の生き物なのではないかと思わせるような何かがある。人間を狩ることに楽しみを見出す残虐な一面も持ち合わせているのだ。でも、名前はそれもフランネルの一部だと受け入れている。最初は確かに近づきがたいと思ったことが何度もあったが、今では夕食を共にすることも少なくなかった。
フランネルの皿に盛られていた大きな肉塊は名前が考え事をしながら彼のことを見ている間に姿を消してしまっていた。ほんの一瞬のことで、ペロリと平らげたフランネルは満足そうに喉を鳴らす。焼きたての肉が冷めないうちに自分も頂こうと思った名前は皿の上に乱雑に置かれたナイフとフォークに手を伸ばした。暗夜での食事のマナーも教え込んだはずなのに、まだまだ抜けているところもあるフランネルに注意をしようと口を開きながら、顔を上げる。しかし、名前はそこで口を思わず閉じた。
舌なめずりをしたフランネルが無言で名前の方を見ていた。思わず彼女は自分の皿を彼の前まで押し出して、どうぞとばかりに手ぶりで合図を送る。特別、肉が食べたいと思っていたわけでもないため、肉を欲しているフランネルに差し出した方が良いのではないかと勝手に考えた。



「…名前!」
「うん、いいよ、お肉あげる」



肉を目の前にして唸るフランネルの様子を見て、名前はやはり譲って正解だったと自己満足に浸る。満面の笑みを浮かべたフランネルは名前用に切ったはずの少なめの肉を大きな口で一気に飲み込むようにひとくちで食べてしまった。最近肉を食べる機会がなかったために本能が肉を欲していたのであろう。一緒に持ってきた籠に詰められている野菜と果物に手を伸ばした名前は、色鮮やかなそれらの前で手を遊ばせて、どの果物を選ぼうかと悩む。林檎に、蜜柑に、選り取り見取りなのだ。
真っ赤に熟れた林檎を手に取ったところで、再びフランネルが名前の方をじっと見ていた。それに気づいた彼女はさすがにもうお肉はないよと笑って零す。少し目線を逸らしたフランネルは首を大きく振った。



「…まだ、肉はあるぜ」
「だーかーらー、もうないって!」
「いいニオイがすんだ。甘くて旨そうなニオイが!」
「林檎?でも、林檎はお肉じゃないよね。フランネル何を言っているかわたしにはさっぱり理解できない。ごめんね」



椅子から急に立ち上がったフランネルは獲物を見つけた時と同じくらいのスピードで名前に近づくと、喉を鳴らす。そのまま肩を掴むと、驚愕した彼女の手から林檎が音を立てて床を転がった。獲物を逃がさない白い牙と妖艶で赤い舌が名前の首に近づいて、彼女は背筋に電流が走ったような感覚を覚える。鋭い凶器が突きつけられてすぐにでも貫かれてしまいそうな気がして、同時に恐怖にも襲われた。しかし、実際感じられたのは優しい痛みとザラザラした感触である。
椅子を乱暴に倒したフランネルは自室の絨毯の上に名前を転がした。何が起こっているか上手く状況処理できていない彼女の瞳に映ったのは、肉を目の前にした時に揺れていた尻尾。加えて、ギラギラと光る獣の目がこちらを捕らえて離してくれそうにないのも分かった。フランネル、と吐息交じりに零れた言葉さえも彼を煽る要素でしかない。フランネルを止めようと必死な名前だが、相手が聞く耳持たずであるために意味を成さないのだ。



「柔らかい肉は旨いはず」
「ひあっ、ふらんね、る」
「お前を食いたくてしょうがねえ」



覆いかぶさる獣の力に人間の女が勝てるはずもなかったが、名前は初めて彼がいつも夕食に誘ってくるのかが分かった気がした。そして、カミラが去り際に残した言葉の意味も。名前は今まで誰にも侵食されたことのない場所をこのまま目の前で牙を剥く獣に許すつもりなど更々ない。ましてや、言葉もなしに事に及ぼうなんて彼女は考えられなかった。せめて、少しでも気持ちを打ち明けてくれたのなら自分だって真剣に考えるというのに。首からフランネルが顔を遠ざけ胸に手を伸ばそうとした瞬間を狙って、名前は彼の首をひっ捕まえ、自分のくちびるを寄せた。わたしだけ気づいてしまうなんて狡いと思いながら。思わぬ反撃に動きが止まってしまったフランネルの頬は酒を飲んだ後の様に火照っていた。



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