恋人とは、どういう関係を指すのか。特別なことをする必要なんてない。そう思っているのではないか、と隣で口笛を吹きながら歩く彼女を見ながら、俺は思った。そんな考え方が彼女らしいといえば、そうなのだが俺としては刺激のある日もあってもいいかと思うわけで。
欲の無い彼女からのアプローチは期待するだけ無駄かもしれない。力くん、と小さなくちびるが懸命に紡いでくれることで俺は満たされるのだ。高望みはしない。彼女が隣を歩いてくれるだけでしあわせというべきだ。



「力くん」



落ち着く声だ。いくら高揚していようが彼女の発する名前だけで安心感を覚え、普段通りに戻る。部活のあとが特にそうだった。同学年の煩い奴等の元から抜け出してすぐはいくら俺といえども、心を落ちつけるには時間がかかる。そこで効果覿面、美術部の彼女。
無造作に生い茂る草木の中心に足を一歩踏み込めば、足元から広がる虹色の波。瞬く間に一面に広がったそれは、色の乏しい世界に様々な色をもたらす。決して大きな主張はせず、元から存在していたものを大切にするように。



「力くん、難しい顔してるよ」
「今日は眠くないよ」
「…聞いてる?」



付き合って日が浅いわけではない。むしろ、長い方に分類されるだろう。周りの奴等はどこまでいったか、と茶化しに来るのは日常茶飯時で、毎日誤魔化すように話題を上手くすり替える。茶化すという言い方をしたけれど、あいつらなりに俺のことを応援してくれているのだろう。
マフラーで鼻近くまで隠れてしまった顔を見ると、ほっぺたを膨らませていた。半分、上の空で聞いていたのが悪かったらしい。手持ちぶさたで、冷たい風がすり抜けていく手をゆっくりと持ち上げると、膨らんだそれに指先を当て、力を少し込めてみた。柔らかい頬がちょっとずつへこんでいく。そこで彼女が何も言わないし、抵抗しないのが変だなと思った俺は指の動きを止めた。指先、こんなに熱かったっけ。



「名前?」



きょろきょろと目を泳がす彼女は俺と目を合わせようとしない。面白くなくて、途中まで優しく押していたほっぺたを最後は強めに押し込んでやった。



「っ!力くんっ、なに、するの…!」
「だって名前が目を合わせてくれないから」
「…力くんは分かってない」



ほっぺたがまた膨らむ。先程は不貞腐れたように膨らんだけれども、今回は怒っているような。でも、怒っているというより、何かを隠すようにしている気がした。



「い、今まで、力くん、こんなにさわったことなかった…でしょう?」



指先をそれは光の速さで引っ込めた。触る行為を指摘されて、初めて気づく。彼女に触ることは自分からしていない。
離した指先は彼女の頬の熱を引き取っていったのか、自分で熱を発しているのか。頭は、もっちりとした頬の感触でいっぱいで、それ以上の処理など出来そうも無かった。無意識にやっていたことが彼女を動揺させ、その反応は俺の正常判断を狂わせてしまうものだとは思いもしない。



「急に、さわるから、びっくりしました…」



敬語になっているよ、と指摘する余裕もないくらい自分の行為を振り返っては、彼女から目を逸らし、また宙を彷徨うこととなった手を制服のポケットに突っ込んだ。もぞもぞとポケットの中で無造作に動かす手は自分の心の中を表しているようで。



「ご、ごめん…!」
「こっちこそ早く言わなくてごめんね…!」
「驚かせちゃったし、嫌な思いさせてたら、本当にごめん…」



足音が止まった。
隣に居たはずの彼女が歩くのを止めて立ち止まっていたのである。



「力くん、わたし…いやとか思わない」
「え?」
「…だって、すきなひとにさわってもらったんだもん」



振り向いた俺の前には夕日をバックにして、頬を両手で包むように押さえる彼女の姿があった。零れそうな笑顔で、こっちが赤面させられる。嬉しいという気持ちが表情前面に出ているのが分かった。



「名前」
「ん?」
「俺も、名前にさわれて嬉しいよ」
「…う、ん」
「すきなひとにさわれたからね」



砂糖の塊のような甘い台詞を吐いたのは、少しでも彼女に仕返しをしてやろうという悪戯心から。形勢逆転を繰り返しながら、俺たちはまた足を進め始めた。アスファルトの道をスニーカーとローファーの音が交互に繰り返す。
触れてしまった。新しいことを知ってしまった俺は戻れなくなっている。彼女も嫌ではないとはっきり告げるものだから煽る材料にしか成り得ない。もうすぐ、着いてしまう。彼女の家へ。



「…名前」
「力くん、今日もありがとう。いつも送ってくれて本当に、ありがとう」



言葉を遮った彼女はわざとではないかと疑うくらいの絶妙なタイミングで、俺に笑いかけた。喉まで出ていた言葉は一旦呑み込もう。
言葉は呑み込んだけれども、体は自然に動いていた。じゃあ、と手を振ろうとした彼女のその手を咄嗟に掴む。いつも見ていたけれど、握ってみて分かることってたくさんある。ほっぺたも柔らかいけれど、手もまた違った柔らかさがあった。
じゃあ、君を抱きしめたら、何が分かるのだろう。



「あっ、あの、ちか、らくん…!」
「うん?」
「だから、あの、手…」



せっかく捕まえたんだ。はじめて君の手をちゃんと握ったんだ。そんなすぐに離してたまるものか。言葉を心の中に並べる。言葉には出さずに握っていると、彼女も諦めたようで強張っていた手から力が抜けていくのが分かった。その、小さな手がそっと、握り返してきたのが分かって、気を抜いたら顔が緩みそうである。



「また、さわったね」
「…力くんだから、いい」



じゃあ、抱きしめたあとにキスをしてもいいかな。

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