零細なライトブルーに夢中だった。水槽の中は色とりどりで鮮麗に飾られているのだけど、わたしは素早く右に泳いだり、左に泳いだりするそれだけに集中する。魚の運動に合わせて頭も動く。


「ねえねえ奏馬くん」


この青い魚綺麗だね、と何度隣に居る彼に言ったか分からない。三回目辺りだろうか、そのくらいから彼の返事は無い。それでも諦めずに、気に入ったこの魚をアピールする。まるで、この魚を飼いませんか?と勧めているペットショップの店員になった気分だ。今は水族館に居るため、飼いたいのでくださいなんて水族館のスタッフの方に言うことは出来ないけれど、この後まだ時間があったらペットショップに寄りたい。


「これ、ほら、綺麗な青でしょ」


わたしの語彙力では綺麗という言葉でしか表現出来ない。例えば小説家の人だったら、この魚を綺麗という言葉以外でどう表現するのだろう。毎日、たくさん交わされる言葉の世界でわたしたちは生きているというのにいざという時に使う言葉は、その辺りで多用されるような何の変哲も無い、言葉だ。
ふと、水槽から目を移す。隣には小さな男の子が居て、今までのわたしのように水槽に張りついては大きな口を開けて笑っている。と思えば、頬っぺたをガラスにくっつけて、冷たいと言わんばかりの反応。すると、後ろから同じ色の帽子を被った女の子が背中に軽くアタックしてきて、彼らは目を見合わせて笑った。無邪気なその笑顔に癒されたわたしは鞄の中にあった飴を取り出して、その場に座り込む。


「飴、どうぞ」
「えっ!?いいの?」
「うん」


わたしの手にあったストロベリー味のとグレープ味の飴が一つずつ無くなる。男の子の手と女の子の手はまだまだ見分けがつかないもので、自分の手を見ながら、今朝握った手を思い出した。やっぱりわたしたちって大人なんだと。
女の子がポケットに突っ込むのが見えて、彼らは本当に予想通り幼稚園児だということが分かる。ポケットの付いた服をよく見てみれば、わたしの家の近くの私立幼稚園の制服だったのだ。


「あら…?二人ともお姉ちゃんに飴貰ったの?よかったわね、ほら言うことあるよ」


二人の手を取ったのは先生だろう。わたしが軽くお辞儀をすると、彼らのありがとう、お姉ちゃんという声が聞こえて、思わず口が緩む。子どもって可愛いなって。先生にも改めて感謝を述べられ、わたしはもう一度頭を下げた。姿が見えなくなるまで手を振り続ける子どもを見送って、またわたしは水槽に目を戻す。

そういえば、奏馬くんの将来の夢って幼稚園の先生じゃなかったかな。数年もしたら、今の先生みたいに園児たちを連れて水族館に来たりするのだろう。もしかしたら、その想い出はわたしと今日水族館に来ていることよりも随分大きなものになるかもしれない。嬉しいようで、ちょっぴり寂しい。
水槽をゆっくりなぞると、指先がひんやりと冷たくなった。





「…うーん、どこ行っちゃったのかなあ」


わたしは暫く立ち止まっていた水槽の前から動き出していた。奏馬くんのことだから、勝手に何処かに行ってしまったとは考えにくい。その辺りで別の動物でも見ているのだろうというわたしの考えは浅はかだったようで、キョロキョロと見渡してもその姿は無い。身長も高く、髪型や服装も探しやすいものではあると思うのだけれど、見つからない。わたしはすっかり迷子になったような気分だった。
仮にわたしが幼稚園児だとしよう。こんなところにほったらかしでは不安になるし、何よりも知っている人が周りに全く居ないというのは耐えられない。奏馬先生、先生としては失格ですよ、だなんて小さく吐き出した。あくまでも仮定の話で、わたしは大人だから泣いたりはしないけど。
歩幅を極力小さくして歩くわたしの目に巨大な水槽が飛び込んできて、思わず感嘆の声を漏らす。この水族館の建物の中心にある大きな水槽はどの階からでも見えるような仕掛けになっていて、上の方で石のようにじっとしている魚も居れば、同じルートを回遊している魚も居た。それに大きさも様々で、見ていて飽きない。


「あの魚こっち来ないかなー」


一匹気に入った魚に着目して見つめていると、その魚の向こう側に見覚えのある人が居た。魚とは目が合わなかったけれど、ガラスの向こうの向こう側に突っ立っている彼と目が合う。表情が変わったのが分かって、わたしは気づいてくれたことを確信した。きっと、ここに来てくれる。わたしは動かないでおこう。





「こら」
「…奏馬くん」
「オレさ、ちゃんと言っただろ。電話かけてくるから動かないで待っててって」
「え?そんなこと言ったっけ」
「…聞いてた?オレの話」


目の前で壮大な溜め息をついた彼はわたしの肩に手を置いた。今の言葉を整理すると、きっとわたしが水槽に夢中になっているあの瞬間に奏馬くんが何かを言ってその場を離れたことが分かる。つまり、わたしの不注意だ。


「名前はちゃんと、分かったって言った」
「あれー?」
「幼稚園生じゃないんだから、しっかりしてくれよ」
「…奏馬せんせー、わたしわからなーい」


開き直ったわたしはその場で一周くるりと回る。
すると、鞄から飴が次々と顔を出しては周りに散らばった。先程、幼稚園生の二人に飴をプレゼントしたときにチャックを閉めるのを忘れていたのだろう。奏馬くんはまた大きく溜め息をついて、しゃがみこむと笑いの止まらないわたしの周りに落ちた飴をせっせと拾ってくれた。


「…本当に園児さんみたいだな」


そんなわたしでも見捨てずにお世話してくれる彼がすき。


「奏馬くんは絶対良い幼稚園の先生になれるね」
「こんなに甘やかしたら、甘えるだけの園児さんになっちゃうから厳しくするときも必要だと思うけどな」
「…わたしはー?」
「そうだな、名前にも厳しくしなくちゃならない」
「まあいいや。どんな奏馬くんでもすきだしー」


薄暗い通路で、彼が頬を染めたのが分かってわたしは一人満足した。
奏馬くんは無言でわたしの方に集めた飴を突き出してきたけれど、そのうちの一つだけを自分の手から取り、雑に袋を破る。中から現れたピンク色の飴玉は彼によって口の中に飛び込んでいった。誤魔化すようなその仕草をちょっぴり笑うと、次に行くよ、と言って大きな手がわたしの手を取る。

ほら、やっぱり、わたしたちって大人なんだね。
握り返したその手がわたしを安心させてくれるのは、何年経っても変わらないでいて欲しいと願った。

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