涙の向こうに見えた澤村くんは大粒の雫を溢していた。普段泣く姿なんてあまり見せたことのない彼が、声を殺して泣いている。感化されたのもあって、わたしの目からも同じように涙の粒がぽろぽろと落ちていく。二人の涙は一つの恋の終わりを告げているようで。
長く、濃い、想いをお互いに抱いていたのだと思う。繋がったと思えば、引き裂かれてしまうのに。流れた涙の粒がくちびるに染みる。乾燥していたそこに潤いを与えたけれど、同時に悲しさも広がっていった。無言のまま、澤村くんがわたしと距離を詰めたのが分かって、これ以上傷つきたくないと瞬時に思ったわたしは反射的に後ろに下がろうとする。しかし、肩を捕まえられ、動くことはままならない。ねえ、触らないで。欲しいと思ってしまうから。
わたしは必死に澤村くんの肩を押し返そうと自分の最大の力を込めた。しかし、わたしは心の何処かでそのまま受け入れてしまえばいいと悪魔が刃物を突き立てているように感じていた。すき、なんだよ。声にならない言葉を口の形だけで表せば、澤村くんの顔はすぐ傍まで来ていて。半ば強引に、けれど澤村くんの優しさがこもったように、くちびるが押し付けられた。涙のような味。世界がそこだけ切り取られたようだった。それでも、わたしを現実に引き戻したのは耳に届いた発車合図のベル。







頬を刺す冷たい風は容赦ない。吐いた息は白くなって空へと上がっていくけれど、手に吹き掛けたときは確かに温かった。両手をゆっくり擦ると、その隙間から光が漏れていた。街のイルミネーションだろう。またこの季節がやってきたのだ。独り身のわたしにとっては辛い時期のはずなのにあまりダメージが無いのは慣れというものなのか。自然の星の輝きには及ばないけれど、人工的に作られたキラキラしたものはまるで魔法のようで、素直に綺麗だと思った。
すれ違う人々の中には勿論、寒いこの季節にお互いの体を寄せ合っては温まろうとしているカップルも見受けられた。わたしはあの人たちを別段妬ましいとは思わない。
寧ろ、すごい人たちだと尊敬するくらい。臆病者のわたしは自分の気持ちすら言葉にできなかった。ニコニコと幸せそうに歩く彼らのどちらかは勇気を振り絞って前に進んだに違いない。もしかしたら、お互いに想いあっていて成立したカップルもいるかもしれないが、割合で考えると圧倒的に前者が多いだろうと思う。
どうしても言えなかったこの気持ちは前からずっと心の奥底に閉まって、誰にも見せなかったし、相談しなかった。想い人と通じ合いたいとは思うけれど、それでも前から決めていたことがわたしにはあったのである。振り向かずに前だけを見て歩いていく、と。今、振り返ってしまったらあの時の光景が全て甦ってくる。足を止めてはいけないのだ。
彼はもうわたしの近くには居ないと分かっているのに、ふとした瞬間に思い出しそうになる。本当に心を奪われていたのだと思う。泣いてしまえば、その時は満たされてしまうのだろうが、その場から一歩も進めていないことになる。だから、わたしはありがとうとサヨナラだけを繰り返す。
視界にチラついた小さな白に手を伸ばす。ひんやりと冷たいそれはわたしの凍ったように冷たい手の上に落ちた。それでも、溶けて消えてしまったのはわたしへの早く忘れろというメッセージのようだった。







駅前にやって来たわたしは入り口に設置されている時計をちらりと見たあと、すぐに改札口の方へ目を向けた。わたしと反対方向に歩いていく寄り添った男性と女性の二人は楽しそうで、初雪を見ては顔を見合わせて笑っていた。
恋だと気づいたその年の冬には、彼とそうなりたいなという願望がわたしの中にずっと渦巻いていた。部活に朝早くから行っているし、夜遅くに帰路につくのだから、きっと寒いに違いない、そう思ったわたしは思い立ったその日に雑誌を買いに行ったのである。編み物道具を親から借りて、雑誌の手順を読みながら悪戦苦闘したものだ。随分不格好なマフラーが出来上がったが、それはクローゼットに片付けたままで、二度とわたしの前に姿を現していない。
編んだマフラーを渡すことさえできなかったわたしは意気地無しだ。編んでいるときは彼がマフラーを巻いている姿まで想像したというのに。思い出になっても構わないと思っているのは、自分の本心かさえ、もう分からない。
わたしが次に乗ろうとしている電車の時間まであまり余裕はなかった。改札口を通り過ぎ、乗り場まで小走りで行く。
駅のホーム。もうすぐ電車が来るという合図。全てが今のわたしを苦しめていた。あの時のことを思い出してしまう。それでも目を瞑ってしまった。澤村くんの隣に立っていたい。近くに居たいという気持ちは確かにわたしの心を支配するように存在していた。けれど、わたしの手の中には何もない。バレー部の部長、頼れる主将の手に触れることすら許されない。資格なんて持っていないのだ。今はもう、遠くて、遠くて、届かない存在。そう、それはサヨナラ、ということ。







澤村くんは地元を離れて遠くへ行ってしまう。対して、わたしは地元に残る。高校三年間たまたまクラスが同じで、それなりに話をする間柄だった。彼はもう、行かなくてはならない。泣きじゃくるわたしが悪いのだ。澤村くんは優しいから、涙に暮れるわたしを放ってはおけないのである。それを利用してでも彼の近くに少しでもいたいと思ってしまうわたしは、最後の最後で狡かった。でも、言わないといけない。彼をここに留めておくわけにはいかないのだ。



「…さわ、むら、くん」
「ん」
「手、離して、」



わたしが言わないといけない言葉はまだ他にもある。手を離して、と言われた澤村くんはくちびるを噛みしめながらもわたしの手をそっと解放してくれた。素直に聞いてくれたのも、また、彼の優しさなのかなと思う。ゆっくりと口を動かすけれど、やっぱり言葉が出てこない。喉の奥に詰まったままで、出てきやしないのだ。目を瞑っただけなのに、澤村くんとのキスが昨日のことのように思い出される。ああ、また泣いてしまう。優しい、涙のくちづけのあと、電車の発車の合図が鳴ったのだけれど、彼はわたしをぎゅっと抱きしめたのだった。それは本当に一瞬だったと思う。わたしはとても長い時間のように感じたけれど。
声に出そうとしていた言葉なんて、もう必要なかったのである。あまりにも突然すぎる出来事が次々と起こるためにわたしの思考は全く追いつかなかったけれど、今なら冷静に思い返せる。
ねえ、澤村くん。来年になってもきっとあなたのこと、忘れられないよ。わたしのことも忘れないでいて欲しいな、なんて我儘だろうけど。この先にはどんなわたしがいて、どんな彼がいるのだろう。



Image song:初めての恋が終わる時/supercell

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