澄んだ青い空。晴天である。 体育館は非常に暑かった。集中力や体力をどんどん削られていく。熱中症に気をつけるようにニュースで天気予報士が一生懸命言っていたのをふと思い出した。こまめに水分を取って、体中から失われる分をちゃんと補給しましょう、と。 「よし休憩に入るぞー!ちゃんと水分補給しとけー」 大地の言葉を合図に烏野高校排球部は各自、水分補給のためにどこかへ走っていく。水筒を持参している者もいれば、自動販売機に向かってお金を持って買いに行く奴もいる。それぞれが走っていく方を見た俺は、まず体育館入り口に置いていたタオルで汗を拭った。 額から流れる汗の量が尋常じゃない。さすが夏本番というところだ。 タオルを元あった場所に投げると、風を求めて体育館を出た。体育館は窓を開けていても、風通しが良いとは決して言えない。先程、汗を拭った筈なのに、またすぐ同じコースを流れていく汗を感じて、ユニフォームを捲り上げた。風が直に腹に当たって涼しく、快感である。ふと視線を校舎に向けると、俺を指差して騒ぐ女子がいて、ちょっと恥ずかしくなった。ユニフォームを戻すと、逃げるように走り出す。宛てなんてないけれど。 ぱしゃん、と水が跳ねる音がして足を止めた。適当に走り回っていた俺はいつの間にかプールの近くまで来ていたのである。休憩だから体を静めないといけない筈なのに、こんなに体を熱くしていたら大地に怒られそうだ。休憩の意味がないだろ、と。 「行きます!」 照りつける強い日差しの下なのに、それに負けない元気な声が聞こえたかと思えば、続いて大きな水の音がした。今なら、水の音を聞くだけで直ぐに涼しくなれそうである。ここからではプールの様子が全く分からないので、興味半分でプールへと続く階段を上がる。暑い日に泳ぎ回ることはどんなに気持ち良いことだろう。 「…わ、」 感嘆の声が思わず漏れた。プールサイドには髪を濡らした女子が一人ぽつりと座っている。推測でしかないが、俺が聞いたのはきっと飛び込みの部分。ここに上がってくるまでにどのくらいの時間が有ったか正確には分からないが、彼女はもう泳ぎきってしまっていたのである。 「…バレー部?」 「あ、うん」 此方に気づいた彼女は立ち上がると、俺に向かって呼びかけてきた。周りを見渡して、誰もいないことが分かって話しかけている相手が俺だと確信を持ったので、返事をする。彼女が座っていた場所にはキャップとゴーグルが置き去りにされていた。 「あっ、バレー部の副部長さん」 距離をだいぶ縮めたところで立ち止まった彼女は思いついたように声を上げた。大地は確かに目立つけれど、副部長って意外と知られないままのイメージがあった俺はちょっとびっくりする。彼女の口から副部長だなんて言葉が出たから。 「ごめんね、目が悪くて近くじゃないと認識できなくて」 「そ、そうなんだ」 「バレー部さんがなんの用?」 「休憩時間中に涼もうと思ってさ」 「プールに来てどうするの?泳ぐ?」 「ははは、さすがに泳いだりはしないよ。部長に怒られるし」 「バレー部の部長さん…あー、あの人か」 彼女と初めて喋った。名前も知らない、クラスも知らない、彼女と。姿は学校の何処かで見たことがあるのだろうけれど、記憶にない。無意識のうちにすれ違ったりしているのだろうな、そう思った。ただ、一つ言いたいことがある。初対面の男子と女子にしては距離が近すぎるんじゃないかな、と。 「大地だよ」 「大地…?うーん、名前までは分かんないや」 水泳部であろう彼女の肌は健康的に焼けていた。最近は色白の子が多いような気がするけれど、少し焼けている肌だって良いな、なんて個人的には思っている。俺自身、女子から色が白いねーと羨ましがられることも少なくないが。 彼女はじっと俺の顔を見ると、上から下へと視線を動かす。気恥ずかしくなったものの、悟られまいと普段通りを心掛けた。爪先まで見終わった彼女の目はユニフォームの番号の下部分辺りに戻ってきていて、そこにターゲットオンしたように手がそっと伸びてくる。濡れた手がユニフォームを静かに捲った。さっき、たぶん女子に見られたのは今、晒されている腹だと思う。 「やっぱり運動部の男の子って腹筋が」 「…な、何を」 「腹筋見たかっただけ」 堪能するように触ったり、じっくり観察を始めたので、拒否しようにも拒否できず、されるがままになる。ひんやりとした彼女の手は気持ちいい。そう、冷たいのだ。彼女の手の温度と俺の腹の温度は明らかに違う筈なのに、どうしてか冷たいと一瞬感じてもその部分は変に熱を帯びているのである。 「もういいかな!?」 「ごめん、嫌だった?」 「それは…手が冷たいから気持ち良かったけど。俺暑いし」 手を離した彼女は満面の笑みを浮かべて俺に背を向けた。一体全体、何に満足したのかは俺に分かるはずもなかったが、とりあえず事は収まったようである。 「ねー。副部長さん、良かったらわたしの泳ぎ見てくれない?」 「俺でよければ」 「ん。ありがと」 彼女の言葉の真意は掴めない。先程の行為だって目的は見えない。まるで流れる水のようである。掴むことができないもの、という例えがぴったりだと思ったのだ。自分では握ったつもりなのに、隙間から逃げて行って、結局手には何も残らない。そんな気がした。スタート時点に立った彼女は手を天に向かって真っ直ぐ伸ばす。 「俺と、同じ」 俺もコートの中で、あんな風に手を伸ばしている。手を伸ばした先に何かが見えるのだ。俺であれば、エースがボールを打つ姿を想像して自分の脳の中で天井のキャンバスに描くのである。彼女は今、何を空のキャンバスに描いているのだろうか。 「行きます!」 全く同じ掛け声で飛び込んだ彼女は綺麗なフォームで着水すると、ゴールに向かって一直線に泳いで行く。一瞬、ここが学校のプールだって忘れてしまった。彼女は人間だって忘れてしまった。泳ぐ姿は海の中を自由自在に踊る人魚のようだったから。 「スガ!お前そんなところで何やってんだ。休憩時間とっくに過ぎてるぞー!」 「…やば」 大地の憤怒の声が飛んできて我に返った俺は来た道を引き返そうと、プールに背を向ける。その瞬間だった。手を掴まれた。振り向いてみたら人魚が海から上がっており、俺の手をぎゅっと握っていたのである。手を掴まれているのに、なんだか心臓を掴まれているように錯覚した。 「ごめんね、引き止めて」 「すごい泳ぎだったよ」 「ありがと。あとね、謝ることがあるの」 「え?」 「わたし、副部長さんのこと、ちゃんと知ってるの。孝支くんっていう名前ってこと」 「…へ、」 「あとね、わたし目悪くなんかないよ。嘘ついた」 俺と目を合わせないこの人魚は一体。 「目悪いって言ったら、近くに行ってもあんまり不信がられないと思って」 「…なんで、そんな風に言ったの。俺の手を離してくれないのは?」 緊張しながら絞り出した言葉は人魚を黙らせてしまった。心臓の鼓動が煩いのは、期待している証拠。こんなに熱くさせたのは、彼女。早く、答えを教えてよ、人魚さん。 |