四時間目は現代文。育ち盛りでよく食べる生徒たちの腹も減る頃である。澤村大地もそのうちの一人だった。必死に腹の虫を抑えながら、現代文の演習プリントに向かっている。先程も昼休みまでの時間を計算してみたところだが、無意識にまた時間を気にしてしまっていた。



「…五分しか経ってない」



空腹を訴えるように腹が震える。早く授業を終えて、何か口にしたいと悲痛な叫びを上げているようだと澤村は思った。そして澤村たちにとっては授業の終わり方というのも重要なポイントである。チャイムが鳴るのは開戦合図なのだ。四時間目終了間際は開戦に向けての準備時間にすぎない。誰よりも早く教室を飛び出して、階段をかけ降り、食堂へ一直線に行かねばならないのだ。
澤村のように考える生徒は他にも何人か居た。自分のお気に入りの昼食を手に入れるためにはどんな犠牲を出したとしても、そのミッションを完遂しようとする。しかし、今日は澤村の分が悪い。現代文は演習プリント。まだ教師は指示を出していないが、彼は予想をしていた。このプリントは回収するのだろうと。回収するということはそれまで身動きが全く取れない。澤村にとっては由々しき事態である。授業時間内に回収するのであれば救われるが、なにせ現代文の教師は時間にルーズな方だった。チャイムが鳴っても授業を少し延長することが今までに何度もある。その度に澤村はお目当てを逃していた。あのときの屈辱感を思い出して、窓の方へ目をそらした澤村は大きくため息をつく。この演習プリントも既に見たくなかった。



「…なんで、腹が空いてるときに限って飯に関する評論なんだ」



澤村の二度の小さな呟きは教室全体に響き渡るシャーペンの音でかき消された。







ちょんちょん、とシャーペンの芯を入れる側で隣の女の子の肩をつついた菅原孝支。澤村がうずうずしているのが後ろから見ていて丸分かりだった。



「ほら、名前ちゃん、大地がお腹空かしてる」



名前の机の横にかけられた鞄の中には弁当が入っている。自分で作ってきていたものだった。



「二つ作ってきた…」
「さすがー!ほら、男を捕まえるなら胃袋からって言うからな」



弁当が崩れないように慎重に鞄に入れたのを名前は思い出していた。見栄えも大切である。弁当の蓋を開けたときに最初に目にするところだ。
菅原が肩入れしている名前は澤村に想いを寄せていた。周りに敏感で、人一倍観察力が鋭い菅原はすぐに名前の気持ちに気づいたのである。



「あとは渡すだけかー。大地、授業終わったと同時にスタートダッシュ決めるからなあ。名前ちゃん頑張って大地を止めような」
「う、うん」



澤村は昨日部活が終わったあとにサンドイッチが食べたい、と一言零した。聞き逃さなかった菅原は即名前にメールで情報を流したのだった。
机で勉強をしていた名前は置いていた携帯が大きな音が流れて震えたので、びっくりした。けれどもディスプレイに菅原という文字が映し出されていたので少し安心したのである。澤村だったら緊張して、心臓がドキドキして痛くなるのだ。



「俺じゃなくて大地が良かったよなー、メール」
「孝支くん楽しんでるよね!?」



そこー、煩いぞと教師の言葉が飛んできて、菅原と名前はプリント演習に戻るのだった。
静かになった場はシャーペンの響く音でまたいっぱいになる。







授業終了五分前。
澤村も菅原も名前もそれぞれ準備万端である。三人ともプリントより授業後のことで頭がいっぱいだった。特に名前に関しては、一世一代の大勝負になると自分で思っていて、澤村とどう接しようか頭を悩ませては顔を赤くしている。



「丸つけまでしてくださいよー」



澤村に至ってはスタートダッシュの方法を考えていた。どうすれば効率よくスタートをして、サンドイッチをゲット出来るのか。澤村の前にあるプリントには丸が七割くらい、点数まで記入されていた。



「…後は全力で走るだけ」



ただ澤村には前科がある。バスケ部の部長と食堂への道で競争した結果、非常ベルを鳴らしてしまったことがあった。こっぴどく叱られたため、注意深く気を付けながら疾走せねばならない。しかし、あまりにも気を付けすぎると、速度は落ちてしまうかもしれない。難しいところだ。



「孝支くん、大地くんわたし止められない…」
「またそんな弱気な…!俺も頑張るからさ」
「あ、あのね、だ、大地くんにお弁当渡せない」
「ここまできてそれ言う?大体名前ちゃん普段通りにすればいいんだって」
「違うもん…これは普段通りに出来ないよ」
「大地と普通に喋るくせに」
「あれはなんとか動揺を隠せてるだけなの」



三人が時計を見た。
長針が丁度授業時間の終わりを差したところだった。続くようにチャイムが鳴り出す。



「はい、後ろからプリント回収。一番後ろの席の人が集めてきて!」



菅原と名前は顔を見合わせた。
二人とも一番後ろの席なのだ。席を立って、机の上に置かれたプリントを一枚ずつ回収する。名前はそのとき、教室を飛び出していく澤村の姿を目にした。
澤村に弁当を渡す作戦は失敗。心のどこかでほっとした自分がいたのが分かって、もやもやした。渡せていたのなら、澤村に告白するきっかけにも繋がるかもしれなかったのである。
プリントを教師に渡して自分の席に戻っていく名前の後ろ姿を見た菅原はやれやれと首を振ると、澤村が飛び出していった廊下に出ると、彼が辿ったであろう道を歩いた。おもむろに携帯を取り出して、メールを名前に送る。弁当二つ持って空き教室集合、と。



「二人とも俺に感謝しろよなー。あとで奢らせようかな」







食堂へ着いた澤村は一目散にサンドイッチを探し始めた。しかし、今日は授業が早めに終わったクラスが多かったようで、いつにもまして人が多い。前方に田中龍之介や東峰旭の頭が見えたため、あいつらに頼めばなんとかなるかと考えた澤村は人を掻き分けるように進む。



「大地!」
「お、スガか」
「名前ちゃんが呼んでた。俺が飯は確保しとくからさ。あとで合流して三人で食べるから、いつものとこな?」



にまにまと笑う菅原に対して、澤村は怪訝な表情を見せる。しかし澤村は深く詮索はしなかった。名前を待たせてはいけないと踵を返したように来た道を戻っていく。変なところで鈍い部長だと分かっていたが、ここまでとは思わなかった菅原は毎回二人を見ながらいつくっつくのだろうかと見守ってきたのだ。今回ばかりは鈍いおかげで助かったのだが。



「大地は無意識だろうけど、名前ちゃんのことになると優先順位がひっくり返るよなー」
「スガさん!」
「お、田中」
「もしかしてもしかして大地さん…!」
「田中が思い描いているようになるといいなー」
「我らが部長大地さんですよ!?大丈夫っスよ」
「俺も大丈夫だと思うよ」
「旭居たの」
「酷い」
「ところでスガさん」
「ん?」
「き、潔子さんは…!?」
「はあ…お前ほんと清水好きだな」



菅原は後輩にも同級生にも心配してくれている人が居て、澤村は本当に幸せな奴だと思った。と同時に、彼の人柄がそうさせるのだなと納得。



「…あとは名前ちゃん次第、かな」







「名前ちゃんがいて、飯食べるならこの教室だよな」



澤村はいつも教室以外で昼食をとるときに決まって集まる空き教室に来ていた。普段、名前は女友達と昼休みを過ごしているが、バレー関連の話をするときは四人である。主将に副主将にマネージャー二人。



「名前ちゃん?」



部屋の隅で動いた何かを澤村は見逃さなかった。そちらに目を向けると、名前が二つの袋を持って挙動不審な動きをしているのが見える。澤村はこのような不可解な行動をする名前を何度か見たことがあるため、別段驚きはしなかった。



「用事があったんじゃないのか」
「あ、う…大地くん」



名前は清水が連れてきたマネージャーである。名前とバレー部員たちとの交流は清水に比べると短いものだ。けれども、それをあからさまに感じることは誰一人いない。



「俺でよければ聞くから」
「う…」
「…俺じゃ頼りない?」



ぽつりと零れた言葉は主将にしては弱気だった。そんな言葉をかき消すように廊下が騒がしくなる。空き教室は廊下側から中が見えないつくりになっていて、名前は少しだけ落ち着いた。



「だ、大地くんは頼れる主将だもん!頼りないわけっ、ない…!」
「ははは、ありがとな。そう言ってもらえて嬉しいよ」



名前は弁当の入った袋をぎゅっと握りしめながら、澤村の方を見た。こうやってまじまじと顔を見るのはいつぶりだろうか。意識してしまうと人はこんなにも変わるものかと名前は実感していた。



「大地くん…」
「な、なんだか照れるな、そんな見られるとさ」



一方の澤村はまるで熱い視線が刺さるような錯覚に陥っていた。主将とマネージャーの感覚ではない、何かが違うと頭を悩ませる。
不確かな形が輪郭を持って輝きだす。色は無いと思っていたものに鮮やかな色が入ってきたようで。時計の針の進む音が授業よりもやけにゆっくりと聞こえる。



「実は」
「名前ちゃん?」
「あの、お弁当」
「弁当?いつも作ってきてるやつだろ?俺の飯はスガが確保してくれてるだろうし、先に食べてもいいよ。食べながら話聞くよ」



名前はそこで気づいた。全ては菅原が気を利かせてくれていることに。彼の後押しを無駄には出来ない。



「ち、違うの」



関係を180度変えることが名前の今の望みではなかった。
今朝、いつもよりも少し早く起きたのである。サンドイッチが食べたいと笑う澤村の姿を想像する。そして、ひとり頬を染めたり心臓の鼓動を速めたりしながら、誰よりも彼のことを想い、弁当を作った。美味しいと彼が言ってくれる保証なんてどこにもない。
だが、ひたすらに想いを詰め込んだ、この弁当を食べてもらいたかった。ただ、それだけ。



「大地くん、あのね」
「ん?」
「お弁当を大地くんに作ってきたの、良かったら、」
「…え」



予想だにしていなかった澤村は完全に豆鉄砲を食らった鳩のようだった。話があると聞いていたが、弁当を貰えるだなんて聞いていない。



「大地くんがいらないなら、それでいいからっ」



おどおどと弁当を差し出す名前の姿を見て、澤村は先程まで食堂へ一番乗りのためにいろいろ考えていたことが馬鹿らしくなり、笑いだす。飯の心配など杞憂だったのだ。



「いる」
「えっ」
「だって、名前ちゃんが俺のために作ってくれたんだろ?」
「も、もちろん」
「人の好意はありがたくいただくもんだよ」



まさか受け取って貰えるだなんて思っていなかった名前はその場で硬直してしまった。
澤村は彼女が自分のために作ってきてくれた事実を知り、必死に頬が緩むのを抑えていた。と同時に、自分の中にある名前への気持ちが何かというのを自覚することになる。



「名前ちゃん、ありがとな」



感謝の気持ちだけ今は口にしよう、そう澤村は思った。
彼女に見合う男になったと自分が思ったその時は、今日言えない言葉を伝えようと決心した。



「…大地くん」
「名前ちゃんが毎日弁当作ってくれると嬉しいなー、なんてな」



名前の気持ちも見抜いてしまったことから、彼女を繋ぎ止めておく策まですぐに思いついてしまうのだ。澤村は自分でも狡いなあ、と小さく笑う。



「どうかな?」



もっと好きになってしまえば、自分のものになる日だってそう遠くない。弁当を作るとき、俺のことだけ考えてしまえばいい。どんどん澤村大地という人間に嵌まりこんでいけばいい。



「つ、作ります!作らせてください!」
「じゃあ俺が食べたいのを毎晩メールするな」



こうやって距離を詰めていくことで澤村も安心感を得るのであった。



「なあ」
「は、はい」
「お前の優しいところ、」



こんな言葉で隠してしまうのはまだ澤村に自信が無いから。本当は前置きの言葉なんていらないのだ。
澤村が本心を隠してしまうベールを脱ぐのはいつなのか。それとも名前が先にベールを脱がしてしまうのか。それは誰にも分からない。



「すきだよ、名前ちゃん」

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