息が詰まる。閉鎖された空間にひとり。佇むわたしに追い打ちをかけるように言葉が畳み掛けられた。『どうしてできないの』と、一言。何気ない言葉に聞こえるが、わたしを追い詰めるには十分だった。
部活で思ったようにいかない。テストの成績が奮わない。顧問のアドバイスを基に日々練習に励んでいるのに。テストを見越して普段から授業に集中して頑張っているのに。何もかも結果がついてこない。わたしの取り組み方にも問題があるのだろうけれど、辛い。
悪循環がわたしを沈めていく。底の見えない暗闇の世界にどこまでも堕ちて行く。
自分の問題と決め付けてしまったわたしは友だちに相談することもなかった。手を伸ばしてくれた心の優しい人も居たにも関わらず、迷惑をかけてしまっては悪いと独りの殻に篭る。ふと射し込んだ一筋の光を確かに見たのに、わたしはそれをいとも簡単に見失ってしまう。温かくて眩しいその救いに縋りつきたいという本音。しかし、理由をつけて、自分を正当化することで、今のわたしの行動の方が正しいと脳に刷り込ませる。無意識に助けから逃げているのだ。
嘘つき。本当は助けて欲しいくせに。不器用な自分が大嫌いでしょうがなかった。人に助けてと言えないこの口は何のためにあるのだろう。口は言葉を発するためにある。心の中を読むことは難しいことだからこそ、相手に知ってもらうためにコミュニケーションの一つとして口がある。助けを求めることは決して恥ずかしいことではない。人は一人で生きているのではないのだから。支え合うことが大切だと小さい頃から耳にタコができる程、言い聞かせられたものだ。







ある時、わたしは英語の綴りを確かめるために辞書を引こうとしたことがあった。鞄の中を漁るが、電子辞書が見当たらない。昨夜、英語の課題に取り組んだ際に自室の机の上で使用したままになっているのだろうという結論に至ったわたしは途方に暮れていた。綴りを確かめたら部活に行こうと思っていたのに。



「名前さん、どうかした?」
「さ、澤村くん…」



中学生、高校生ともなると自然と異性を気にしてしまう年頃。世間一般的にそう言われているが、わたしもそれに当てはまる一人の女子高校生だった。
部活中に戻ってきたであろう澤村くんは首にタオルを掛け、額に汗を滲ませていた。固まってしまったわたしの手元にあるプリントをちらりと覗き込んだ彼は、微かに笑う。易々と心は攫われる。暗闇に堕ちているわたしの頬にも赤みが差した。



「辞書がなくて困ってたんだよな?」



心を惹かれてしまったら、彼の為すこと全てが眩しく見えた。温かい光がまた差し込んできたように思えて、わたしは困惑する。
わたしはその、眩しすぎる光の中には飛び込んでいけない。伸ばされる手に触れる資格なんてない。一度閉じこもってしまったその暗い場所から出ることはそう許されない。わたしの心を見せる勇気なんて、ない。
嘘つき。本当は心臓が破裂してしまうくらい、嬉しいくせに。彼に、気持ちを伝えてもいいかなと思っているくせに。



「そ、そうなの。澤村くん、ありがと」
「名前さんはいつも何も言わないよな。もっと周りを頼っていいと思うよ、俺は」



差し伸べられる手に少しくらい触れてもいい、そう澤村くんは言った。わたし、もっと彼のことを知りたい。



「澤村くん…」



沈んで閉じこもったわたしを引き上げるのは、心奪われた彼であって欲しい。なんて、夢見たりした。



「名前さん、いつでも俺を頼って、な?」







携帯を片手に息苦しい家から飛び出したわたしはふと、彼とのコンタクトを思い出した。澤村くんは最後にわたしに電話番号を残して、部活へと戻っていったはず。電話帳を開いて、サ行のページを探すと、『澤村大地』の文字が液晶に映し出された。わたしはその画面をじっと見つめたまま、道路をフラフラと歩いていたらしく、何か紐のようなものに躓いてその場に転ぶ。携帯はわたしの手の届かないところへ吹っ飛び、ワンピースに少し土がついてしまう。急いで立ち上がって、はたいてみるが簡単に汚れは落ちなかった。擦り剥いた膝が地味に痛く、顔が酷く歪んだのが自分でも分かる。誰にも会いたくない、そう素直に思った。もう、世界から見放されてしまってもいい。這い上がろうとするわたしは泥濘に嵌ってしまったよう。誰も頼れない闇の中で過ごしてきた時間が長すぎて、簡単な助けの求め方さえ忘れかけていたのだ。
携帯を拾って、そのまま道路沿いに歩いていくと、部活がオフの日に澤村くんと寄り道をした公園に辿りついた。外は日が落ちて、夜を迎えようとしていたので、道がよく分からなかったせいである。街灯もまだ点いていないものばかりである。
風で微かに揺れていたブランコにそっと座ると、画面をもう一度つけた。浮かび上がる『澤村大地』の文字にわたしの心が掻き乱される。震える指先は電話をかけるためのボタンへ一直線だった。誰にも助けを請うことなんてしないって決心したのは誰だったのやら。



「もしもし」
「…」
「名前さん?」
「う、」
「名前?」



澤村くんがわたしの名前だけを紡いだその瞬間、声にならない気持ちが溢れた。耳にあてた携帯から聞こえる、わたしの凍った心をそっと溶かしてくれるような声は罪深い程に柔らかい。口から言葉が出ない。ねえ、大地くん、わたし、あなたを頼ってもいいの。
両者の無言の十秒間が経つと、いきなり電話が切れる。見えていたはずの彼の優しい大きな手が闇に飲み込まれて見えなくなってしまった。途端に不安が押し寄せる。今まであんなに独りで閉じこもることが平気だったはずなのに。自分に嘘をつくことが得意だったはずなのに。
自分にはやはり許されないことだったのだろうか。わたしに似合うのは深海。誰も来ない、深い深い海の底。また、堕ちていく。



「名前!」



腕を引かれる。飛び込んだ先は闇の底、海の底ではなかった。



「…っ、」
「名前、良かった…!良かった、ここにいてくれて」



何も見えないはずの暗闇に囲われていたわたしは、今、大地くんの腕の中だった。



「だ、だい、ちく、ん」
「名前がどこかに行ってしまう気がしてさ。電話よりも直接会いたくて」
「…なんで、いつも、助けてくれるの?」
「いつでも頼ってって言っただろ。それに俺は名前を助けたいよ」
「うう、大地く、ん…す、き」



背中に回されている腕にぎゅっと力が入ったのがわたしにも分かった。
今までの自分の居場所を棄てよう。引き篭もった、マイナスな考え方は止めよう。新しい、本当の自分を探しに、飛び出す。踏み出してみることで何か発見があるかもしれない。彼と一緒に歩いていくことで、成長できるかもしれない。下を向かないと決めたわたしが堕ちることは、二度となかった。



Image song:深海少女/ゆうゆ

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