わたしたちに見せられた目の前の一枚の紙には衝撃的なことが載っていた。わたしと池尻くんだけだろうけれど。他のメンバーからすれば、予選は何処の高校と当たるかが分かるというだけの情報だけに過ぎないのだ。
でも、わたしは常波と書かれた下の『烏野』という文字からどうしても目を逸らすことが出来ない。それは隣にいる池尻くんも同じようで、二人して他のメンバーに声をかけられるまで固まったまま動けなかった。



「ねえ、池尻くん……」
「烏野って、澤村が」



澤村、という名前。
これはわたしの中学時代まで遡る。







わたしは男子バレー部のマネージャーとして選手と一緒に全国を目指して毎日練習に励んでいた。お世辞にもチームは強いとは言えなかったけれど、それでも主将の覇気に引っ張られるように皆一生懸命で。相手からどう思われようが、俺たちは諦めない。ボールが落ちるそのときまで、全力で繋ぐことを常に日頃から意識しような、というのが主将の口癖だった。強豪と当たっても、決して諦めようなんてするな、最後まで食いつけというものである。
『勝とうとしなきゃ、勝てないよ』、この言葉はマネージャーのわたしにも刺さった。逃げている姿勢では、自分たちに勝利の女神は絶対微笑んでくれない。わたしは選手たちと違って、試合中にボールに触れることは決して出来ないのだけど、気持ちなら戦う彼らに寄り添うことが出来る。応援だって、サポートだって、いくらでもしてあげられる。
そんな、ある日のことだった。
たまたま、帰りが澤村くんと二人っきりになったときがあった。



「澤村くんお疲れー」
「おお、名前お疲れー」



わたしはこの時からきっと澤村くんに特別な気持ちを抱いていたのだと思う。今思えばそうだとはっきり言い切れるのだけれど、あの時はまだ体も心も未熟な中学生。もうすぐ高校生になろうというのに、自分の気持ちに素直になれずに隠してばかり、いや、気づかないフリをずっとしていたのかもしれない。心の中に柵を設けて、本当の気持ちを寄せつけまいとしていたのだ。
柵を取り払ってしまえば楽になれたのに、わたしはそれから逃げた。気づかないでいようと思った。今になって後悔の念ばかり。



「……いよいよ最後の大会だね」
「早かったな、3年間。あっという間だった」
「絶対勝とうね!」
「もちろん」



これが終わってしまえば、澤村くんとの接点が、なくなる。







奇跡的と言ったら澤村くんに怒られてしまうかもしれないけれど、わたしたちは1回戦目を勝ち抜いた。ただ、次に当たったところは運悪くも強豪と呼ばれる名前の中学で、わたしたちは最後の夏をあっさり終えた。
唇を強く噛んで泣いている澤村くんを見つけたのだけれど、なんて声をかけていいか分からない。池尻くんも同じだったようで、近くを彷徨っていた彼を見つけたわたしは、二人でそこにあったベンチに腰かけた。酷く冷たいベンチはわたしたちの心を更に冷やすようで。



「……終わっちゃった、ね」
「……そうだな」
「池尻くんは」
「俺は、もちろん、高校に行ってもバレーやるよ。きっと澤村もそのつもりだろうから」
「わたしも。絶対またマネージャーする」



そんなこんなで池尻くんと同じ高校に行って、こうやってまたマネージャーをやっているわけである。でも、1つ中学時代に置いてきてしまったことがあった。
わたし、澤村くんにすき、だって伝えていない。







「澤村くん……」
「お前さあ、ほんと澤村のことずっと好きだよな」
「……い、けじりくんっ、」
「分かりやすいんだよ。だって、お前な、俺と話してるときと澤村と話してるときの表情全然違うんだからな?」
「ほ、ほんとに……?」
「俺が言うんだから間違いないって!」



高校生になったわたしたちの部活も先程終わりを告げた。コートの外からだったけれど、3年ぶりに見た澤村くんは中学時代のときよりも部長としての威厳が増していた。存在感がとても大きいように思う。身体の変化ではなくて、彼が積み上げてきた3年間が容姿、オーラから感じられた。
わたしたちはきっとこの大会で誰にも、何処にも、注目されていないって分かっていたけれど、彼が率いる烏野は違った。常波に対して、真剣。真っ向。相手チームはわたしたちをしっかり見ていてくれる。
澤村くん、わたしも見てくれていたかな。
負けたチームはこの戦いの場から姿を消していく。そんな当たり前のことだけど、わたしの足は一向に動こうとはしなかった。もう、これで高校生活の部活が終わりだなんて、こんなに呆気なく終わってしまうなんて認めたくなかったのである。
ぽんぽんと肩を叩かれたので、後ろを振り返ると中学のときの澤村くんみたいな顔をした池尻くんがそこに静かに立っていた。



「なあ、俺は澤村に言いたいこと言ってきたぞ」



涙で彼の頬が濡れているのが分かった。それでも、わたしに笑顔で言う。



「名前は?澤村に何か伝えることがあるんじゃないのか?」



蘇る、言葉。『勝とうとしなきゃ、勝てないよ』と言った彼の顔が浮かんだ。
わたしは、澤村くんに伝えなきゃいけない。
自分から逃げてばかりじゃ望むことを逃がしてしまうって彼がわたしに教えてくれたのだから。澤村くんがわたしの方を見てくれなくてもいい。ただ、わたしは逃げないよっていう姿勢を彼に見てもらいたい。結果がどうであったって。



「池尻くん、わたしにちょっとだけ時間をちょうだい?」
「ん。待ってるよ。行ってこい」



走り出したわたしの足は吹っ切れたように妙に軽かった。
澤村くんがね、澤村くんがね、ずっとすきなの。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒にバレーをやっていたあの時間がわたしはとても大切で、だいすきなの。澤村くんを久しぶりに見たけれど、やっぱりすきだなあって思っちゃったの。
きっと澤村くんは次の試合がすぐにあるはず。その前に彼に会って、一言だけでもいい。あの二文字さえ、伝えられたら充分だって思った。
試合が行われているところに繋がる通路の人を掻き分けながら、わたしは夢中で走った。黒いジャージ、白い文字で書かれた『烏野高校排球部』を根気よく探す。あの大きな背中をわたしは忘れてないよ。中学のときから頼れる、あの背中を。
息を呑んだ。



「……さ、わ、」



一直線上に此方を見ている黒いジャージの人が1人見えた。近くにオレンジの髪の子が見えたので間違いないだろう。
野うさぎのように物陰に隠れてしまおうだなんて考えが一瞬よぎったけれど、此処まで来て逃げるわけにはいかない。でも、足がすくんで、動けなくなってしまった。トラバサミにでも引っ掛かったようで、わたしは不意に泣きたくなる。頭の片隅で、澤村くんに拒否されてしまったら、と最悪なシナリオを描いていたのだ。まだ、何もわたしは言っていないのに。
わたしをじっと見ていた彼が遂に此方へ歩いてくるのが分かった。隣に居た控えのセッターの人が、大地と叫んだのが聞こえる。
そう、澤村くんの名前は大地。わたしはずっと、澤村大地くんが忘れられないのだ。



「久しぶり、名前」
「……っ、」
「さっき、池尻が来たよ。お前たちの分も俺が、俺たち烏野高校排球部が頑張るからな」
「……ほんと、変わらないね、澤村くん」



一言だけ、と遠慮深かったわたしはもうそこにはいなかった。彼が見せる顔がすきで、話す声がすきで、もっともっと、と欲しがってしまっている。時間がないことは痛い程分かっていたのに。



「名前も元気そうで良かった。バレーも続けてて俺は嬉しいよ」
「……わ、わたしも今日、澤村くんにまた会えてよか、った!」



そうだけど、そうじゃない。言いたいのはそうじゃない。



「悪い、もうすぐ試合なんだ。話をゆっくりしたかったけど、あんまり時間がなくて。ごめんな」
「こっちこそ、ギリギリにごめんねっ、試合、頑張って……!」



さっき逃げないって言ったのは誰。また、3年前と同じことを繰り返そうとしているのは誰。



「じゃあ、また」



今日、再会出来たのは奇跡に近い。もうこの先、彼に会うことなんて、このままじゃないかもしれないのに。
鼻の奥が痺れるほどの涙が溢れてくる。こんな姿を見せたら澤村くんは困惑するだろうなって分かっていたけれど、抑えられなかった。もう止まらない。綺麗に泣けたらなあと思う。もし、この涙が真珠のようなキラキラしたものだったら、心配されるよりも彼に見つめられるかもなんて、馬鹿なことを考えていた。



「澤村、くんっ……!!」
「お、おお、ちょ、泣くようなこと俺言ったか!?すまん!」
「……あのねっ」



中学のときからマネージャーの相談に乗って貰ったりしていたけど、1つだけ言っていなかった悩みがあるの。ねえ、澤村くん聞いて。一瞬だから。



「……すき」



わいわいと騒がしい中だったけれど、わたしの言葉はちゃんと澤村くんに届いたのだろうか。怖くなって、目を瞑った。
途端に忘れていた逃げ出したい気持ちが湧いてきて、わたしは彼に背を向けて走り出そうとする。もう充分だ。わたしはちゃんと伝えたのだから。



「待った!」



もう息が止まったようだった。
後ろから彼の腕が伸びてきて、身を預けるような形になる。周囲の人の驚いた声でその場が沸いていたけれど、わたしはそれどころじゃなかった。



「……言い逃げなんてずるい。それに俺は、試合が終わってから名前に言おうと思ってたのに」
「……澤村、くん」
「俺も、前からすきだったよ。中学のときから、ずっと」
「え……」
「だから、俺の試合。見てて」


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