シャワーから勢い良く吹き出す水が身体を伝っては床へと滴り落ちる。滑り防止のザラザラとした感触はイワンの足裏を気持ち良いくらいに刺激していた。彼の身体や床から上がる湯気はシャワー室を曇らせ、大きな鏡も水蒸気で覆われる。ぼんやりとしか見えない視界の中で、イワンは瞳を閉じる。訓練後に偶然見かけたその背中は今日も小さく、自分より幾分も小さな女の子は抱きしめては折れてしまうのではないか。もちろん、彼女も訓練を欠かさない真面目な子ではあるし、自分と同じ場にいるということは少なからず何かの能力を持っているということ。その能力が戦闘向きであるか、研究者としての能力であるか、イワンはまだ知らなかった。 シャワー室内に持ち込んでいたタオルは湿気を帯びていて、髪や身体を拭くには少し物足りなかったが、気休め程度に水分を飛ばす。真っ白なタオルを顔に当てると、また彼女のことを考えた。わりと近くの部屋であることをイワンは知っていたが、彼に尋ねる勇気は微塵もなく、マルコスや燈に彼女のことを話しては茶化されるだけ。齢は同じ、ただ大きな背丈や鍛え上げられた肉体は小さな女の子にしてみれば、威圧感で押しつぶされてしまうのではないか。心配が募ったイワンは結局のところ、彼女と接触する機会すら持つことが出来ずにいたのである。だが、彼の回りにいる友や大人たちにとっては面白くて仕方なかったのだ。 部屋に用意していた大きなタオルで全身を拭き上げると、ベッドの上に雑に放ってあった下着を身に付け、着るのも楽なズボンを履く。首から下げられたタオルはだんだんと冷えてきてイワンにとっては気持ちの良いものだった。冷蔵庫から取り出した飲み物を喉に流し込むと、大きく背伸びをする。日々鍛錬に打ち込む身体にかかる負担は本人が思うものよりも大きく、彼も例外ではなかった。早めに就寝しようと思ったイワンの耳に部屋の外から女の子の声が届く。 「イワンくん、いますか」 ノックされた音と共に聞こえた声に反応したイワンは慌て、部屋の目に付く場所を片付いているように見せるべく、誤魔化すような片付けを行う。声の持ち主は先程から思い浮かべていた彼女に間違いない。オレに用があって来たのだろうか。彼は根拠もなく都合の良い期待を抱き始める。生きるか死ぬかの世界に身を置いているものの、イワンはいわゆる思春期といわれる時期真っ只中の男だった。恋愛に興味がないわけがない。ましてや、今扉の前で立っているのは彼が魅力を感じている女の子なのだ。トントン、控え目に鳴り響く音にイワンはベッドカバーを雑に掛けたあと、扉の前に立つと大きく深呼吸をする。この壁一枚隔てた向こう側には彼女がいるのだ。 「な、なにかな……?」 「……っ、えっ!?」 「ど、どうしたの、名前ちゃん」 「い、イワンくん……」 名前の視線に合わせるように背を屈ませたイワンはなるべく優しく話しかけようと心掛ける。彼は普段から怖い表情をしているわけではないので、彼女も苦手だとは思っていなかった。しかし、名前の前に姿を現したイワンは上半身に何も纏っていなかったもので男の裸に耐性のない彼女にすれば刺激が強すぎたわけである。ぐるぐると視界が回り始めた名前はすぐに両手で顔を隠す。沸騰したように赤い顔を見られないためでもあったが、何よりもイワンの姿を見ることに耐えられなかった。二人の間に一枚の紙がはらり、と落ちる。 「あのっ、服、着てください……!」 突然顔を隠した名前に動揺したイワンは何をしていいか分からなかったが、彼女の発した言葉を聞いて自身の身体を見る。先程ズボンすら履くことも面倒だと頭の隅で思ったけれど、履いておいて本当に良かったと少しほっとした。謝罪の言葉を述べると、すぐに部屋に引き返し、ハンガーで壁に掛けていた上着を乱暴に引っ張る。かたん、とハンガーが落ちた音に名前は再度身を震わせつつも、指の隙間からイワンの様子を伺った。上着のファスナーを引く彼の背中が見える。男の人の背中は服の上からしか見たことのなかった名前はそこに魅せられたように凝視していた。指の間からこっそりと。 イワンがくるりと振り返った瞬間に、その隙間を埋めた名前は覗き見がバレないようにゆっくりと手を下ろし、今確認しているという雰囲気を出す。イワンはいきなりに彼女に遠ざけられるのではないかと内心焦っていたために、名前の工作には一切気づくことはなかった。 「ごめん、もう大丈夫っスから」 「……う、うん。わたしこそ悲鳴上げてごめんなさい」 「びっくりさせたのはオレだから……」 互いに謝罪の言葉を並べながら、そこでやっと目を合わせることとなる。背を屈めることを忘れてしまっているイワンを見上げる名前。首が痛いなんて感想を持つのではなく、この人も大きい、そう思いながら。 目を合わせるとイワンは途端に言葉を忘れてしまった。上着を羽織る際に彼女とどう話そうかとシミュレーションを行っていたにも関わらずである。すると、名前はふいっとイワンから目を逸らして、仕舞いには顔を下に向けてしゃがみ込んでしまった。落ちていた紙を手に取ってもなかなか立ち上がらない彼女にイワンは困惑する。視線を逸らされたのは嫌われているわけではないと思っていたが、こうも拒否するような態度を見せつけられると本当に自分は避けられているのではないかと。同じように膝を折る形でしゃがんだイワンの前で、名前は足腰が耐えられなくなったのか、完全に座り込んでしまった。 「あっ、ご、ごめんなさい……あの、イワンくん」 「だから、大丈夫っスよ!」 「イワンくんを前にしたら緊張しちゃって」 イワンに差し出されたのは彼女がミッシェルから預かった書類だった。これを届けるために彼の元にやって来たのだと名前は続けて説明をする。線を引いている部分が重要なところでね、あとこの空欄のところは、と業務連絡になると饒舌になった名前がイワンにとっては非常に面白くなかった。彼女の言葉が切れるところで適当に相槌を打ち、話を聞くフリをしながら、そっと腕を伸ばす。紙を見て必死に説明をする名前に気づかれないように。イワンも緊張していたが、それ以上に緊張している彼女を見ると彼は自然と落ち着けるのだった。それに、貴重な機会だからこそ逃すわけにはいかなかったのである。 イワンのサインはここね、と彼女が人差し指で強調した部分を聞き終わったと同時に、隠れるように伸ばしていた腕にぐっと力を入れるとイワンは自分の方へと名前の腰を引き寄せる。高く、小さな声がイワンの耳の近くで聞こえる。息遣いも聞こえた。心臓の鼓動が早くなるように彼女の呼吸も早くなっていく。必死に空気を取り込んで自分を落ちつけようとしているのが彼には、はっきりと分かった。 ミッシェルの直筆が入った紙は彼女の手から逃げていくように落ちる。これをミッシェルに見つかればなんと言われることやら。燈やマルコスが殴られている様子を思い出したイワンは、口元を緩ませる。今の時間が続くのだったら、彼らのような目にあってもいいや、と。名前は身体を動かしはしなかったが、イワンの身体との接触をギリギリ避けるように間隔を取っていた。彼女が後ろに身体を引こうにも、彼の大きな手が腰を掴んでいるために逃げることは叶わない。反対に身を預けることは容易いのだが。 耳まで真っ赤に染め上げた名前の姿を見ながら、イワンは満足していた。これだけすれば、自分が好意を抱いていることを分かってもらえるのではないか、それに抵抗をする様子がないことから、自分にも勝機はあるのではないかと。少々強引なやり方ではあったが、上手く言葉に出来ないイワンはそうするしか思いつかなかった。女の子特有の柔らかさに指を少し動かして、どのくらい自分の指が食い込むのかを確かめるように味わう。男にはない、なんとも言えない感触はイワンを昂らせるには充分だった。指を動かす度に名前が腰をくねらせ、ちょっぴりと揺らす姿も視覚的に彼を追い詰める。 はしたない事に決して及ぼうと考えているわけではなかったが、少しずつ邪な考えがイワンの身体を侵食していく。甘い誘惑とはこの事を指すのだろう。彼はそのままもう一度ぐっと力を入れて彼女との距離を詰めてしまった。腰以外も柔らかい女の子というのは本当に無意識に理性を壊しにやって来る。イワンの指にも、腹辺りにも押し付けられる綿菓子のような物が今、存在するのだ。これ以上はダメだと警鐘が鳴る。そんな時だった。名前が声を発したのは。 「……イワンくん、そんなにされちゃ」 「へっ?」 「心臓壊れちゃう、よ……」 「う、うん」 甘ったるい声で名前がイワンの耳を溶かすように囁く。彼女自身、囁くつもりは微塵もなかったのだが、絞り出した声はあまりにも小さく、せめてもと顔を上げるとイワンの耳が近かったのだ。冷静になっていたはずのイワンの心臓がまた騒ぎ出す。彼にそっと回ってきた腕は離さまいとばかりに、優しく背中を擦る。イワンと同じように名前も想いを寄せていたのである。突然のことに驚いていた彼女ではあったが、自分が好いている相手の腕の中に抱かれるほど嬉しいことはなかったのだ。言葉を発して少しばかり余裕が出てきた名前は自分の想いを伝えるべく、イワンと同じように行動で示すことにしたのである。彼らが口を開いたのはその数十秒後だった。 「イワンくん」 「名前ちゃん、オレから言わせてください」 「……はい」 「好きです!」 「うん!わたしもすきです」 Title:誰そ彼 |